2013年12月7日土曜日

明治37年(1904)4月13日 斉藤緑雨(38)没す 「緑雨の死によって、この数年間続いた明治の文学の大きな転換期は終った。」

北の丸公園 2013-12-06
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明治37年(1904)
4月13日
・内村鑑三「歴史における戦争」(英字新聞「神戸クロニクル」)
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・木村秀政、誕生。
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・県立岡山高等女学校、月謝紛失事件調査のため、生徒の裸体身体検査を行って問題化。
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・斉藤緑雨(38)、没。

4月11日夕方、麹町区飯田町5丁目の馬場孤蝶の家へ斎藤緑雨の妹婿、中村仁二郎が来て、緑雨が危篤だから一刻も早く来て欲しいという。

6時過ぎ、馬場は横網町へ着く。
緑雨はひどく弱っていたが、大変喜んで、「自分はもう起きられない。いよいよお別れだ。長々どうもお世話になってありがたかつた。少し頼みたい事がある」と言う。
家の者に言いつけ、古い手文庫を持って来させ、その中から一葉の遺稿を取り出して、これを邦子さんへ返してくれ、と言う。一葉の日記が主なもので、いずれ機会を見て君の手で何とか出してやってくれ、と言う。
馬場は、確かにそれ等の原稿を預かった、と言って、黙って坐っていると、緑雨は、気の毒だが筆を取ってくれと言う。
馬場が筆を手にすると、緑雨は口述して「僕本月本日を以って目出度死去致候間此段謹告仕候也四月 日緑雨斎藤賢」と書かせた。
そして、幸徳君も電報で呼んであるから、多分今夜来るとは思うが、行き違うといけないから、念のためこれを持っていて、僕が死んだとの通知が行ったら、この広告文を幸徳君に託して「二六」か「万朝」ぐらいに出すようにしてくれ、と言った。だが、そう言ったあとで、緑雨は、もし幸徳が今夜来ると、直接頼むことにするから、と言って同じものをもう一枚馬場に書かせ、それを寝床の下に入れた。

馬場は、外に何か言うことはないか、書くものがあれば何でも書いてやる、言った。
緑雨は、「もう何も言ふことはない。今夜はこれから親戚の者を集めて、所謂裏店の葬儀の順序立てをするつもりだ」と言って、寂しく笑った。
馬場はなおしばらく枕もとに 坐っていたが、緑雨は「どうせ、いつまで居ても名残は尽きないから、もう思ひ切って手短く別れてしまはうではないか。文筆を執る人が枕許にゐてくれるのは心強く思ふべき筈だが、今ではさういふ事がかへって厭はしくなつてゐるから、どうか帰ってくれたまへ」と言った。
馬場は「至極もつともだ、よく分つた」と答えた。すると緑雨は「君は僕の言ふことが分つてくれたか」と嬉しそうに言った。

馬場は、帰り道に一葉の妹の邦子のところへ寄ってその話をした。邦子はその晩すぐ俥で緑雨を見舞った。

翌日夕方、馬場はまた行って見た。緑雨が逢うと言うなら逢おうという気持であった。しかし家人が出て来て、逢ってももう口を利かれないから、ただ苦しむところを見せるだけである。名残は尽きないけれど逢わない、ということであったので、馬場は帰った。

翌4月13日朝、台所でガタガタ音がすると、緑雨は、あれは何の音かとたずねた。家の者が、水を汲んで来たところですと言った。
すると彼は、新しい水を飲ませてくれと言った。水を飲ませると、緑雨はおいしいと言って、寝返りをさせてくれと頼んだ。手伝って寝返りさせると、皆次の間へ行っていてくれ、と言った。ほんの1、2分間、人々が次の間へ行っていて、それからまた来て見ると、緑雨は息が絶えていた。

10時頃、馬場のいる日本銀行文書課へ緑雨が死んだとの報らせが来た。馬場が横網町の家へ行くと、もうすっかり片附けは済んでいた。
家の人たちは、葬式は華々しくしないようにと遺言があったと言ったが、そこに集った馬場と野崎左文と幸徳と、博文館の庶務係の内山正如と、少し遅れて馳けつけた幸田露伴の5人で、通知を出すべき所へ出した。

翌14日早朝、質素な葬式が営まれた。
葬式の日取りなどは緑雨の遺志に従って文壇人に知らせなかったので、棺について行ったのは親戚の男が4人、それに友人としては幸田露伴と、与謝野寛と、馬場孤蝶の3人だけであった。
朝5時に出棺して、隅田川の岸に沿って厩橋に出、そこから真直ぐ西に進んで本願寺の方へ曲り、日暮里の火葬場へ向った。
歩いて行きながら、馬場は考えた。半年前に死んだ尾崎紅葉のように、危篤だと言えば、あらゆる新聞がそれを書き立て、死んだと言えば直接の知人でない人々まで加わって立派な葬列をなして送られる文士もある。
だが、それに較べてオ能が劣るわけでもないのに、この緑雨のように、たった3人の友人に見送られるだけで、あとに残る妻も子もななく、全くの一人で淋しくこの世を去る文士もある、と。
馬場の考えているのと同じ考が、幸田露伴の心にも与謝野寛の心にも湧いているらしく2人とも妙に沈んでいた。

緑雨の口述した死亡広告は、この日の朝刊の「万朝報」に載って、文壇の人々を驚かせた。

16日午後1時から、駒込東片町の大円寺で埋骨式という名目で改めて告別の式を挙げた。
雨天であったが、この時には緑雨を知っている文士やジャーナリストが大勢集った。友人を代表して露伴が、また新詩社同人を代表して与謝野寛が、弔辞を朗読した。
緑雨には、父母の郷里の伊勢へ嫁に入っている姉があって、その娘の春江というのが、この式に加わった。
中村仁三郎の妻即ち緑雨の妹じうも加わったが、実弟の小山田謙は軍医として召集されていて参加できなかった。

5月1日発行の「文芸倶楽部」に、その主筆なる思案外史石橋助三郎が、「嗚呼正大夫君」という題で弔文を書いた。

緑雨の死によって、この数年間続いた明治の文学の大きな転換期は終った。
明治20年代から、もっとも活発に文壇の中心で働いた主要な文士は、ほとんど半ばがこの数年間に引き続いて死んでしまった。
明治35年に正岡子規と高山樗牛が、明治36年に落合直文と尾崎紅葉が、そしてこの年斎藤緑雨が死んだ。

露伴は数え年38歳で、まだ元気であったが、創作に間を置き、隠士風の生活を愛して、もはや文壇の第一線に立とうとする俗気がなくなっていた。
前年9月から「読売」に久しぶりの大作「天うつ浪」を連載していたが、この年2月の開戦と同時に、いまこのような作品を新聞に掲げるべきでないとして中絶した。

逍遥は教師生活に没頭して創作活動から離れていた。

二葉亭も久しく創作をせず、更に外国の流浪生活が続いて筆を絶っていた。
二葉亭は前年帰国し、開戦間もなく「大阪朝日新聞」に入り、その東京駐在員という名目で生活に落ちつきを見出したばかり。

鴎外は、3月7日、第二軍軍医部長に補せられて広島に行き、戦地に渡る日を待っていた。
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