アガパンサス 2014-07-02
*明治37年(1904)
8月26日
・弓張岑夜襲
満州軍主力の第1・2・4軍、遼陽に進撃。
午前0時、第1軍(黒木為楨大将)第2師団第3旅団(左翼、松永正敏少将)と第15旅団、弓張岑に向けて進撃。
午前4時30分過ぎ、第3旅団第29連隊第1・2・3大隊、目標線に進出。
第4連隊は第1・2・3大隊ともに苦戦。第4連隊長吉田貞中佐戦死。第2大隊副官三浦真中尉らの「決死隊」30の奮闘で第3大隊は窮地を脱出。第3大隊と右翼の第15旅団第16大隊とが連結。弓張岑夜襲は成功。
第2師団の前面のロシア軍は後退するが、第2師団の消耗激しく追撃できず。
第29連隊第1大隊は石溝南方ロシア軍を攻撃、苦戦。日本側死傷2,336。ロシア側死傷2,603。
第12師団はロシア第10軍団左翼を攻撃。
第23旅団第24連隊は簡単に遊撃溝岑を占領。
第46連隊(第1・2・3大隊)は苦戦。
第12旅団では、第47連隊が目標線に進出するが、第14連隊は足踏み状態。
近衛師団(第1・2旅団)の第1旅団主力の近衛第1連隊は大西溝から323高地を目指した途端十字砲火をあび停止。
午前10時30分頃、第2師団予備の第30連隊第1・3大隊が第2師団正面のロシア軍を駆逐。ロシア軍は近衛第1連隊第3大隊に対して逆襲、援軍は撃退され、支援砲撃も不能となり、午後1時、近衛第1旅団長浅田少将は衛第1連隊第3大隊に退却下命。
垣山北方の第46連隊第3大隊(黒田龍成少佐)、突進し、午後3時20分、垣山を占領、直ちに紅砂岑の砲兵陣地を攻撃。砲兵は退却。続いて朴溝・紅砂岑のロシア軍も退却(第12師団正面)。
第2師団第29連隊第3大隊が639高地の達するが、ロシア兵は退却済み。
この夜、ロシア軍は遼陽へ総退却始まる。
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8月26日
・平民社演説会。石川三四郎、幸徳秋水、千葉県東金町。聴衆230余
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8月26日
・旅順陥落を知らせる「東京二六新聞」の号外(ニセ号外)
一昨夜九時半頃数名の号外売は、鈴の音もいさましげに、本所浅草の各町を駆けまはり、皺枯声をふり立てて、「サア只今発行の二六新聞号外、いよいよ旅順陥落大勝利」と叫ぶにぞ、何がさて待構へたる人々、ソレ旅順の陥落だと、我を先にと飛んで出で、号外屋、号外屋と呼立つれば、其せはしき名状すべからず、一枚五銭乃至は四銭といふ法外の値を吹つ掛けても、買手はびくともせず、片ツ端より買行けば、号外売はいよいよ景気づきて走り去る。其あとにて何れも号外を打見れば、二六社の刷出したるものには相違なきも、文句は至極簡単にて、「旅順陥落す。速かに国旗を立てよ。詳細は第二号外にて報ず」とあるのみ、旅順が陥落せば、国旗を出す位は愚な事、祝捷費の多くをさへ投出すべき此場合に、さりとは簡単過たる号外かな、訝かしとて、よくよく見れば、日付は二十五日とあり。
扨ては一杯喰はされしかと、一人が謂へば二人同じ(中略)此号外もいよいよ贋かと腹立しさに、二六社へ電話で問合せしところ、同社にては号外を出せし事なしとの答へ (中略)同署(注:取り締まりに当たった本所署)も詮方なく他方面より取調べしが、前記号外は全く二六社にて印刷せしものに相違なく、すは陥落といふ時に、他社に先んじて出さんものと、兼てより刷り溜めなしおきたるを、何者が窃取して日付を加へしものと判然せり。
(『東朝』明治37年8月28日付)
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8月27日
・ロシア満州軍主力、遼陽へ総退却。砲兵の退却が優先され、午前7時30分頃には陣地撤収。
第1軍は疲労のため、深追いは行わず。
第2(奥)・4(野津)軍は、夕暮れには追撃命令が第1線に届くが、夜間でかつ泥濘のため捗らず。
28日も両軍団の追撃進まず。
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8月27日
・関西鉄道会社、紀和鉄道会社を合併。
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8月28日
・西川光二郎(28)、東海道遊説で静岡県からの帰途、山北に至り1泊。
翌日夜、小田原で社会主義演説会。前日、加藤病院小田原分院に来ていた堺利彦も合流。早川に泊まり、30日、石橋山古戦場などを見たあと山北に戻り、夜、演説会。31日帰京。
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8月29日
・午前5時40分、ロシア満州軍クロポトキン大将、追撃する日本軍を迎撃するための「満州軍第2号命令」下命。
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8月29日
・日本インド間通商に関する条約調印。1905.3.16 公布。
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8月29日
・横浜電鉄でストライキ。
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8月29日
・セントルイス万国博覧会の余興、第3回五輪大会陸上競技入場式行われる。
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8月30日
・午前中、ロシア軍の抵抗激しく第4軍(第10・5師団)・第2軍(第3・6・4師団)の追撃進まず。
午後1時、総参謀長児玉大将は総司令官名で督戦。
午後3時40分前、第6師団(大久保春野中将)左翼第24旅団は首山攻撃開始するも、第23連隊長江口昌條大佐負傷し頓挫。
午後9時、この日の遼陽南方での戦闘終る。
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8月30日
・この日付け『東京朝日新聞』に掲載された「遼陽旅順比較」をする「某陸軍将校の談」。
旅順の戦闘は遼陽に比べれば戦局への影響は小さい。何故なら、「敵の兵力より見れば旅順は約四万なるも遼陽は十三個師団」だから。しかも、「旅順の敵は今や如何なる妙策を以てしても増援軍を得るの道已に絶えたるも、遼陽は然らず」である。「現在のものゝ外九月には欧露第一軍来るべく、十月には西比利亜第六軍団も来るべき予定の由なれば、今日の敵の優勢は将に益(ますます)優勢とならんとす」だ。「旅順は檻中の虎なり、牙を鳴らして荒れ廻るも畏るゝに足らず、命は已に我手中にあ」る。これに対して「遼陽は是れ野に放てる虎なり、今にして之を捕へずんは後患何辺(ねへん)に及ぶやも知る可らず」である。「敵は今迄連戦連敗したりと雖も、畢竟支戦たるに過ぎ」なかったが、「今度は主戦なり」との決意をもって、「遼陽に向つて大戦を開始した」のだ。
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8月30日
・(露暦8/17)ロシア、ガボン組合第2支部(ヴァシエフスキー支部)。
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8月31日
・首山(遼陽南部)攻略。
午前3時20分、第3師団(大島義昌中将)第17旅団第34連隊(関谷銘次郎大佐)、148高地へ進撃(右に第1・2大隊、左に第3大隊)。第2・3大隊は第1大隊との連絡が途切れ、この日の攻撃は第1大隊(橘周太少佐)独力の攻撃で開始。
午前5時、第1大隊は敵前200mに到達。
5時20分、突撃し第4中隊(中村昌中尉)20が第1塁を奪取。塁内には70余、頂上を目指すがロシア軍砲火激しく、橘少佐は負傷。内田精一軍曹が少佐を背負い下山するが、途中で負傷。
午前6時30分、内田軍曹は蘇生し第1塁がロシア軍に奪回されたのを知る。日没を待って退却するが、午後6時30分、橘少佐は絶命(「陸の軍神」)。第2大隊と行動を共にした連隊長関谷大佐戦死。第3大隊長国司精造少佐も負傷。
午前9時、この日午前6時30分迄に日本軍第1軍の太子河渡河の報を受け謝家屯のロシア軍第17軍団(ビルデルリング大将)司令部で緊急作戦会議(午前10時30分、第1軍右翼近衛後備歩兵旅団は本渓湖を占領)。
正午、第3師団第34連隊の第148高地攻撃失敗のため、第3師団第18・6連隊、第5師団第21・33連隊は北大山に進撃。
第18連隊第2大隊長前田喜熊少佐ら死傷者続出。
第6連隊第3大隊(高島友武少佐)が突撃。敵の同様をついて第1大隊第2中隊(松井中尉)小隊長市川紀元少尉らが第1塁を奪取。塁内は兵士4~500となり第2塁を攻撃。ロシア軍の砲火激しく頓挫。
午後7時、ロシア満州軍司令官クロパトキン大将、「満州軍第3号命令」発する。
午後9時、日本軍と対峙するシベリア第1軍、撤退開始。雨による悪路と日本軍砲火に難渋。
午後10時、シベリア第3・10軍も撤退開始。
午前2時過ぎ、第6師団第45連隊、首山占領。
午前3時、第3師団第33連隊が北大山占領。
日本側2ヶ日間の戦傷11,891(旅順口第1回攻撃の損害に匹敵)。
第1軍の進撃。
前夜午後8時30分、第1軍(黒木為禎大将)第2師団(西寛二郎大将)第15旅団(岡崎生三少将)第30連隊、饅頭山東麓小隆起点確保。
午後10時30分、第2大隊(児玉市蔵少佐)が山頂に到達。三方からロシア軍が反撃、死傷者続出。
午前1時、ロシア側が退却を始めるが、反撃態勢を整える。
午前11時30分、第1軍第12師団(井上光中将)第12旅団が北方の烟台炭坑へ進撃。饅頭山133高地では第2師団第15旅団第16連隊第12中隊と第4連隊第1大隊(下林保武少佐)が苦戦。
午後2時20分、ロシア軍の攻撃激しく、下命により第4連隊第1大隊は133高地を退却。
午後2時30分、第12師団第12旅団は烟台炭坑に迫る。後続の第12・47連隊は五頂山確保。
午後3時、貴子山北方180高地を攻撃中の第14連隊第3大隊を側面攻撃のロシア第54師団長オルロフ少将と第2旅団長フォミン少将負傷し、ロシア軍は潰走。
午後8時、饅頭山の第30連隊(馬場大佐)にロシア軍が総攻撃。
午後10時、ロシア軍、饅頭山より退却。
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