2022年1月29日土曜日

茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2022-01-29)

 

《茨木のり子の詩》

「自分の感受性くらい」 (茨木のり子 詩集『自分の感受性くらい』) ; 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「倚(よ)りかからず」 (茨木のり子 詩集『倚りかからず』より) : もはや できあいの思想には倚りかかりたくない ・・・ じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある

麦藁帽子に (茨木のり子)

波の音   (茨木のり子)

いちど視たもの - 一九五五年八月十五日のために -  (茨木のり子)

汲む - Y・Yに -  (茨木のり子)

通らなければ  (茨木のり子)

ある一行     (茨木のり子)

初秋    (茨木のり子)

別れる練習をしながら (趙炳華) 茨木のり子『韓国現代詩選』より

ぎらりと光るダイヤのような日  (茨木のり子)

四海波静   (茨木のり子)

木の実   (茨木のり子)

窓  (茨木のり子)

隣国語の森  (茨木のり子) ; 若い詩人尹東柱 / 一九四五年二月 福岡刑務所で獄死 / それがあなたたちにとっての光復節 / わたくしたちにとっては降伏節の / 八月十五日をさかのぼる僅か半年前であったとは

知命 (茨木のり子) / ほぐす (吉野弘)

なかった  (茨木のり子) ; 武士道は なかった 上層部の逃げ足の迅さ 残留孤児は老い去りて 武士道は なかった 神州清潔の民は もっとも不潔なことをした近隣諸国に

さくら   (茨木のり子) ; さくらふぶきの下を ふららと歩けば 一瞬 名僧のごとくにわかるのです 死こそ常態 生はいとしき蜃気楼と

問い (茨木のり子 第六詩集『寸志』)

瞳 (茨木のり子 第七詩集『食卓に珈琲の匂い流れ』)

突然 間違って生きているという思いが (呉圭原 / 茨木のり子『韓国現代詩選』)

行方不明の時間 (茨木のり子 『茨木のり子集 言の葉3』 2002年10月)

この失敗にもかかわらず (茨木のり子 第六詩集『寸志』 1982年12月) そう この失敗にもかかわらず 私もまた生きてゆかねばならない なぜかは知らず 生きている以上 生きものの味方をして

球を蹴る人 - N・Hに - (茨木のり子 『茨木のり子集 言の葉3 』 2002年10月)

灯 (茨木のり子 「アムネスティ人権報告」 1993年12月)

くりかえしのうた (茨木のり子 『人名詩集』 1971年5月)

五月の風は (茨木のり子 「北海道新聞」1962年5月10日)

五月のうた (茨木のり子 「装苑」 1965年5月)

あいなめ (茨木のり子 『茨木のり子詩集(現代詩文庫20)』 (1969年3月)

六月 (茨木のり子 『見えない配達夫』) / 芳賀徹「六月のユートピア ー 茨木のり子の詩一篇」(『みだれ髪の系譜』)

あるとしの六月に (茨木のり子 『鎮魂歌』1965年1月)

道づれ (茨木のり子 『歳月』2007年2月)

わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子(『見えない配達夫』より) ; 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった

総督府へ行ってくる 茨木のり子(『食卓に珈琲の匂い流れ』より)

十二月のうた  (茨木のり子 花神ブックスⅠ『茨木のり子』(花神社 1985年5月)59歳)

内部からくさる桃    茨木のり子(『対話』1955年11月)

灯   茨木のり子(「アムネスティ人権報告」1993年12月 67歳)

根府川の海 茨木のり子 (『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)

「小さな渦巻」(茨木のり子) (「詩学」1955年10月 第一詩集『対話』所収 詩人29歳) 「ひとりの人間の真撃な仕事は おもいもかけない遠いところで 小さな小さな渦巻をつくる」

「ひそかに」(茨木のり子) 「節分の豆は むかし ジャングルにまで撒かれたが・・・・・みんなふやけて還ってきた 颯颯と箒でまとめられ 中に一粒のエドガア・スノウすらまじえずに」(第一詩集『対話』 初出「詩学」1953年8月 詩人27歳)

「武者修行」(茨木のり子) 「この島にはじめて孵る深海魚の子ら! 五官にみづからの灯を入れて 野火の夢を拒絶せよ!」(『対話』 初出「櫂」3号1953年9月 詩人27歳)

「行きずりの黒いエトランゼに」(茨木のり子)「行きずりの黒いエトランゼよ あなたは口笛とともに 忘れ去ってしまったか 私はあのワンカットが 月日の現像液のなかで ゆらめきながら…… 次第に鮮明度をましてくるのを感じている。」(『対話』 初出『詩学』1954年1月 詩人28歳)  

方言辞典 (茨木のり子) 「炉辺にぬぎすてられた おやじの 木綿の仕事着をみやるほどにも おふくろのまがつた脊中を どやすほどにも 一冊の方言辞典を わたしはせつなく愛している。」(『対話』 初出「櫂」1号1953年5月 詩人27歳)

いさましい歌 (茨木のり子) 「お待ち いまに息の根をとめてあげる がりがりとたうきびでもかじりたい日だ」(「詩学1950年9月 詩人24歳 はじめて活字になった茨木のり子の詩)

焦燥  (茨木のり子) 「稚(ワカ)い母よ ともに走らう 虚像をにくみ はげしく憎み 母系時代のどんらんさで まことの美果を もぎに行かう」(「詩学」1951年8月 詩人25歳)

魂  (茨木のり子) 「まれに… 私は手鏡を取り あなたのみじめな奴隷をとらえる いまなお〈私〉を生きることのない この国の若者のひとつの顔が そこに 火をはらんだまま凍っている」(『対話』(1955年11月) 初出「詩学」1952年3月号 詩人26歳)

民衆   (茨木のり子) 「ああ こののびやかな四肢に、 似合はぬ ふてた姿勢をすてて ひまはりのように立つ日は 何時だらう!……」(「詩学」1952年7月 詩人26歳)




《茨木のり子関連記事》

今こそ 茨木のり子 時代を見つめ、明快に主張 生涯ぶれず「自分で思考」 (『朝日新聞』) : 「駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」 (「自分の感受性くらい」)

ただ一度 大尉と歩いた浅草の街 (『朝日新聞』2016-07-18「声 語りつぐ戦争」) ;  「わたしが一番きれいだったとき」という詩を読んだ瞬間、あの大尉が蘇った。作者は、私と同じ年に生まれた茨木のり子さん。・・・

文藝別冊「茨木のり子」発売 没後10年、ますます輝きをます「現代詩の長女」の新しい魅力にせまる。谷川俊太郎、井坂洋子×小池昌代、工藤直子、紺野美沙子ほか — 河出書房新社

美智子皇后 ; 「まあ、童話屋さん」・・・「『あたらしい憲法のはなし』を出していただいてありがとうございます」・・・「私どもは毎年五月三日の憲法の日に、昔の教科書を取り出して家族で読む習わしにしております」・・・「もうぼろぼろになってしまって、これが新しく出て、大変に嬉しい。ありがとうございます」

12月19日はエディット・ピアフの誕生日 / (Youtube) エディット・ピアフ『愛の讃歌』 越路吹雪『愛の讃歌』 / 田中和雄「低い濁声で歌った『愛の讃歌』」(『別冊文藝』茨木のり子)のこと / 中学教科書の『愛の讃歌』(小林純一作詞)のこと

『別冊太陽 茨木のり子』が出たので速攻で買って来た 2019-11-28

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で河上肇「味噌」を読む 2021-01-31



0 件のコメント: