2024年6月6日木曜日

大杉栄とその時代年表(153) 1895(明治28)年5月26日~31日 川上眉山が初めて一葉のもとに来訪 「丈たかく色白く、女子の中にもかゝるうつくしき人はあまた見がたかるべし」 虚子が神戸の子規のもとに来る 天皇皇后東京に還幸   

 

川上眉山

大杉栄とその時代年表(152) 1895(明治28)年5月20日~26日 孤蝶、中等学校英語教育検定試験合格 「共に共にうれし」「家は貧ただ迫りに迫れど、こころは春の海の如し」(一葉) 子規、神戸上陸、県立神戸病院入院  漱石の子規宛て手紙「小子近頃俳門に人らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」 より続く

1895(明治28)年

5月26日

この日付の一葉の日記。

「二十六日、午後西村君来訪。やがて生まるべき子のもうけなど、更になし置くとも見えぬを、母君ことごとくとがめて、いざ衣類など買ひにゆかん、そのしろ出せとて、あわただしく西村がり行く。釧之助はなほ残り居て、さまざまに身の不幸をなげく。はてはなさけなげにと息つきて、我れは此世へくるしむ為に生れ来つる身か計りがたし。思はぬつまに思はぬ子など出来るなん、浅ましとも口惜し。幸ひにしてあの子うせなばよろこばしけれども、猶いのちありてながらふることならば、つひに乳母としてもかれをとどめ置かざるべからず。さてはいよいよ我が生涯のおもしろからぬに、せめては君達だに見捨て給ひそ。ここに来てかく物がたり暮すは心ぐるしけれど、しばしの極楽として寄り来る身をすくひ給へ。猶金銭に事かく折もあらば、そは遠慮なくつげこし給ふぞよき。我れにあたふほどの事は何時にてもなすべし、などいふ。」

26年10月に西村釧之助の縁談が整っている。今回の騒ぎは、釧之助が妻以外の女性に子供を産ませたものらしい

孤蝶・禿木と共に川上眉山が初めて来訪し、一葉に合綴(あいつづり)で春陽堂から作品を出すことを提案。禿木は首尾よく試験に受かったとのこと。鰻を取り寄せて振舞う。

「かるほどに、馬場君、平田ぬしつれ立て、川上眉山君を伴ひ来る。君にはじめて逢へる也。としは二十七とか、丈たかく色白く、女子の中にもかゝるうつくしき人はあまた見がたかるべし。物いひて打笑む時、頼のほどさと赤うなるも、男には似合しからねど、すべて優形(やさがた)にのどやかなる人なり。かねて高名なる作家ともおぼえず。心安げにおさなびたるさま、誠に親しみ安し。孤蝶子のうるはしきを秋の月にたとへば、眉山君は春の花なるべし。よき所なく艶なるさま、京の舞姫をみるやうにて、ここなる柳橋あたりのうたひめにもたとへつべき、孤蝶子のさまとはうらうへなり。君の名を聞き初しは、もはや四年がほどほど五年にも成るべし。参りよる折を得がたくて、御近けれどもかくうとくは過ぬ。万づに心隔ず物語をたび給へとて、打とけてかたる。」(「水の上」5・26)。

更に、眉山は「来月あたり合綴のもの春陽堂より出さんはいかになど」と言い、小説の人物のことや世間のこと、仕事のことなど「語り出るに極みなし」と、続けられる。

眉山の住まいは、小石川区上富坂町(現、小石川2)にあり、丸山福山町からは5分の距離。この日、雨となって傘を借りた眉山は、翌々日、風呂へ行きがてら傘を返しに立寄る。

川上眉山(明治2年3月5日~明治40年6月15日);

幼名幾太郎。長じて亮と改名。大阪に生まれ幼時に上京、東京府立一中を経て16年大学進学の予備校進文学舎に入学し、石橋思案と交わり、坪内逍遥の教えを受ける。21年第一高等中学校を卒業し、東京帝大法科大学に進学、後、文科大学に転ずるが中退し作家の道に進む。硯友社同人であったが、硯友社風を離れ、一葉を訪ねる明治28年1月に「文芸倶楽部」創刊号に「大さかづき」を発表して「圧巻の新作」(「青年文」)との好評を受け、2月には「太陽」に「書記官」を発表し、これも注目される。それまでの趣向に重きを置いた作風とは異なり、社会観や人生観を主題とした小説として「観念小説」と呼ばれ、肩山の文名はひときわ高かく、泉鏡花と並んで新しい文学を代表する文壇の寵児であった。

5月27日

新任教師、数学担当の弘中又一が愛媛県尋常中学校に赴任してきた。同志社卒の23歳、助教諭の待遇で月俸20円だった。


「五月二十七日(月)、学校に出勤すると、弘中叉一(同志社大学出身。数学。助教諭。月俸二十円)、校長住田昇に連れられて職員室に挨拶に来る。辞令を教師の一人一人に見せて廻っている。左氏穜(漢文)先生は、礼儀正しく、今日お着きで、さぞお疲れで、公私ともによろしくと挨拶している。渡部政和(数学主任)先生は、やあ、君が新任の人か、ちと遊びに来給え、あははは、と笑いそりかえる。渡部政和は、授業開始の喇叭がなると、弘中文一に向って、何処に泊っているか、城戸屋か、いまに行って打ち合せをすると云い残して、授業に行く。漱石は、その光景をにやにやしながら眺める。漱石は夕刻、弘中文一を城戸屋に訪ねる。竹の間にいる。英語を兼任して貰う労を感謝する。自分の現在の下宿は、元同志社大学教師のアメリカ人力メロン・ジョンスンのいた家だというと、弘中文一は、自分の先生だという。身上話や学校の噂話をする。帰り際に、下宿を早く決めるように勧める。」


「弘中又一「山嵐先生の追憶」(山本亨・永井貞編『政和先生追想録』 昭和十年七月二十五日刊)」(荒正人、前掲書)

■愛媛県尋常中学校の教師たち

弘中又一は英語も兼任するので、漱石は夕刻城戸屋に出向いて挨拶した。漱石が、自分がいまいる下宿は、前任の英語教員カメロン・ジョンソンがいたところだ、と言うと、弘中は、カメロン・ジョンソンは自分の先生だったといった。アメリカ南部人のジョンソンは同志社で教えたのち、1年間の約束で松山に赴任した。漱石のくる直前に離任した彼は、インド洋経由でアフリカを漫遊したのちに帰国したという。

教員室で漱石の机の隣は、教頭の横地石太郎であった。教員中、漱石とともに東京大学出であった彼は、校長の住田昇が明治28年10に休職辞任したあと校長となり、のち山口高商の校長に転出した。漱石の要鏡子の実家中根家とは緑つづきてあったといわれる。

住田昇校長は明治26年2月、熊本県尋常師範学校から転任してきたが、翌明治27年秋、生徒たちに校長排斥のストライキを起こされている。明治27年11月、騒動の後始末を任されるかたちで着任したのが横地石太郎であった。

しかし排斥運動は明治28年秋に再燃し、ついに住田校長は10月、休職となった。漱石はその経緯が不明朗、かつ生徒らの態度がおもしろくないとして松山嫌いをつのらせた。

漱石が骨董商津田保吉方の別邸、愛松亭の下宿で同宿したのは図画担当の高瀬半哉であった。

地理・物理担当の中堀貞五郎は物理学校(のちの東京理科大)出身で、明治21年9月着任、明治22年、32歳のとき子規の妹、正岡律(19歳)と結婚した。しかし、この結婚は10ヵ月しかつづかなかった。

このほか学校書記として、子規の俳句仲間、寒川鼠骨の父、寒川朝陽が勤めていた。月給は12円にすぎなかった"

5月27日

虚子が神戸の子規のもとに来る。


「・・・・・陸羯南の手配で、京都にいた高浜虚子がやってきた。同郷松山出身、このとき二十一歳であった虚子は、京都三高から仙台二高に転じたが落ち着かず、退学して上京したのち京都に遊んでいたのである。

虚子が病室に入ると、壁の方を向いて横臥した子規は身じろぎもしない。眠っているのかと顔をのぞきこむと、子規は眼をひらいていた。顔にまったく血の気がない。透明かと見えるほど青白い。虚子をみとめても、子規は口をひらこうとしない。

「升さん、どうおした」

虚子が尋ねると、子規はけだるそうに手をわずかに上げ、手招きした。虚子は、ほとんど子規の口もとまで耳を寄せた。それでも声は聞きとれぬほど小さかった。

「血を吐くから物を言ってはいかんのじゃ。動いてもいかんのじゃ」

血なま臭いにおいが虚子の鼻を打った。

はげしく咳いた子規は、またコップ半分ほどの血を吐いた。予断を許さぬ病状であることを、虚子は目のあたりにした。周囲が憂慮したように、やはり従軍は無理な所業だったのである。

入院した翌日から子規を見舞っていたのは、たまたま神戸で師範学校の教授をつとめていた河東碧梧桐の兄、黄塔竹村鍛(たん)であった。東京の陸羯南が、その父をよく知っていた神戸病院の副院長江馬賤男に懇切に子規のことを頼んだとはいえ、四日間ひとりで重病人の面倒を見ていた竹村鍛は虚子に、「お前が来ておくれたので安心した」としみじみいった。そして「日本」新聞社に依頼されていた金銭出納など一切を虚子に託した。」(関川夏央、前掲書)

"

5月27日

『日清戦争実記』第28編(5月27日刊) は,「朝鮮国内地の日本兵」という記事を掲載し,日本軍の残留を,朝鮮政府が「再燃の患ひ無きに非ざればとて,其侭暫く駐屯せんことを懇請したる」と報じた。我が守備隊は,最早東徒も鎮定したるを以て,次第に撤去する筈なりしも,同国政府は余類尚ほ残存する今日,一朝守備隊を引揚られては,再燃の患ひ無きに非ざればとて,其侭暫く駐屯せんことを懇請したるより,特に其請を容れて,大邱に二小隊,可興に一小隊,利川に一小隊,釜山に一小隊,及び小分隊,清川に一中隊,元山に一中隊を駐屯せしむる事と為したりと。

この記事に挙げられた予定駐屯地の地名(大邱・可興・利川・釜山・清川・元山) はいずれも東学農民運動の激戦地だった。日本軍はそれへ対応できる部隊配置を考えている。この日本軍残留を,『東朝』は「日本軍隊の永久駐屯」と題し(1895. 5. 8),「之に要する兵営及び費用等ハ無論朝鮮政府の負担する所なるべしと聞く」と報じた。まさに15 年後韓国併合となり,1945 年まで50 年間の日本軍駐屯が日清戦争から始まったのである。

5月27日

一葉、萩の舎で中牟田常子が数詠の会を開催。一日中歌を詠む。

5月28日

外務次官林董、匿名で「外交の大方針を定むべし」(「時事新報」)。日英同盟提唱。この頃、英の新聞「スペクテーター」も日英攻守同盟を主張。

5月28日

虚子、神戸病院の江馬医師から子規の家族を呼んだ方がよいといわれ、陸羯南宛てに電報を打つ。


「その頃、子規は胸に直接氷嚢を押し当てていた。肺を冷やして喀血を妨げようとするものだったが、そのため凍傷が生じた。

それを見た若いひとりの医師が、こういった。

「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりや血はとまりやしない。出るだけ出して置けば、止まる時に止まる」

この言葉は子規の気に入ったらしく、聞いて会心の笑みを浮かべたと、虚子は書いている。(「子規居士と余」)


卯の花の里を氷のやけど哉   子規


病状安定したのちに詠んだ句である。

喀血さえとまればいいと信じていた子規は、いっこうに栄養物を摂ろうとはせず、ひたすら安静にしていた。ささやくようにしか喋らないのもそのためだが、体力は著しく落ちた。業を煮やした医師が滋養灌腸を施したので、子規はようやく自分の別の危機を悟った。」(関川夏央、前掲書)

5月28日

午後、一葉のもとに、大橋ときが入門したいと来訪。しばらく語って、入れ替わりに野々宮菊子と安井哲子が来る。明後日帰京予定の天皇をで迎えるため毎週木曜の稽古に来られないかも知れないため月謝を持参し、稽古。夕に川上眉山が借りた傘を返しに来る。表に人を待たせているからとすぐ帰る。眉目秀麗で誰が見ても立派な小説家だが、金銭的には苦しく、本屋に借金が溜まっているそうで、そこからすると自分の生活の見通しも苦しく思える。夜に孤蝶来訪、「文学界」について憤りが甚だしく、戸川秋骨にも島崎藤村にも言えないが、脱退したいと涙ながらに語る。11時近くに孤蝶は帰る。過度な受験勉強の名残りと、目的を成し遂げた心の緩み、さらにその他差しさわりがあったのか、力なく帰るのが痛々しい。芦沢芳太郎から手紙。台湾総督府の身となって戦地へ赴くのにあたり、これからは病気と戦争との二つと戦う覚悟である、とのこと。野戦病院の規則により、手紙は月一回なので、この手紙を佐久間岡右衛門と広瀬伊三郎、および故郷にも回送してくれということなのでその通りにした。

5月29日

日本軍(近衛師団)、台湾北部に上陸。

その後、兵力5万と軍夫2万7千を投入し、戦没者4700を出し、4ヶカ月かけてようやく鎮定。しかし、以後数年間は組織的な抗日闘争が続き、異民族統治の未熟さから、しばしば民衆反乱を招く。

5月29日

晴天。一葉、秋駅流行の予兆があると言うので、大掃除を始める。

(日清戦争における戦死者の多くは、赤痢、マラリア、コレラなどの疫病によるものだった。患者は17万人に及び、うち内地に後送された者は6万7千を越えたという。"

5月30日

大山巌帰京、陸軍大臣復帰

5月30日

漱石、子規宛てに手紙。松山入りの感懐を述べた漢詩一首。

5月30日

一葉日記より。晴天。風少々。天皇東京に還幸。各戸国旗掲揚。貧しい家でも玩具屋で売っている5厘国旗を軒に指している。正午過ぎから花火の音が絶え間なく響く。午後3時過ぎに芝区民奉迎の徽章を胸に提げた兄虎之助がひどく疲れた様子で来訪。酒の支度などをしてると、野々宮菊子も奉迎を終えてこれも疲れた様子で来訪。ともかく見たこともないほどの騒ぎだったとのこと。そのうち久保木秀太郎も来訪。菊子に夕食を出し、礼服から儀が得るための普段着を貸して帰す。兄も秀太郎も日没頃に帰る。早くに就寝。

5月31日

昨日の天皇に続き、皇后の還幸の日。「経つくえ」が「文芸倶楽部」第1巻6編に発表され、原稿料30円がはいり、一家は一息つく。

博文館の大橋又太郎から旧作でもよいので出すものはないかと言われ、明治25年「甲陽新報」に載せた「経つくえ」を多少繕って渡す。この日、母と国子がその原稿料で浴衣を買い出る。「明日の稽古日に着るべきものなければなり」(「日記」)とある。


つづく


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