2024年6月5日水曜日

大杉栄とその時代年表(152) 1895(明治28)年5月20日~26日 孤蝶、中等学校英語教育検定試験合格 「共に共にうれし」「家は貧ただ迫りに迫れど、こころは春の海の如し」(一葉) 子規、神戸上陸、県立神戸病院入院  漱石の子規宛て手紙「小子近頃俳門に人らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」    

 

県立神戸病院跡

大杉栄とその時代年表(151) 1895(明治28)年5月14日~19日 三宅雪嶺「臥薪嘗胆」(「精神的にはほとんど別人となり」帝国主義に転向) 「三食を節して二食となすも海軍を拡張せよ」(報知新聞) 「かしらのわるくていと寐ぶたきに、終日床にあり。、、、時は今まさに初夏也。衣がへもなさでかなはず。ゆかたなど大方いせやが蔵にあり。、、、、、手もとにある金、はや壱円にたらず」(一葉日記) 子規、下関に到着したが上陸できず。 より続く

1895(明治28)年

5月20日

一葉、兄虎之助へ葉書。家に不要の蚊帳があるので、必要ならば送ると伝える。野々宮菊子へ葉書。桃水の妹戸田幸子が上京中なので、一緒に訪問しないかと誘う。孤蝶は検定試験に落ちたに違いないとしおれている。いろいろ話して夜更けに帰る。

5月21日

この日付の一葉の日記。孤蝶が中等学校英語教育検定試験に合格。共に喜ぶ。日暮れまでいて帰る。夜、小出粲来訪。多く話す。

「二十一日、午後門にあわただ敷(しく)くつの音して、はせ入る人あり。たれかと見れば孤蝶子、きのふのしけん首尾よく行たりし事、今見て来たりぬ。少しも早くしらせんとて、かくはいそぎ来つると、うれし気のそ振、共に共にうれし。日暮まで遊びてかへる。」

5月21日

作曲家スッペ(76)、没。

5月21日

大総督府、旅順口発。21日神戸上陸。22日京都の大本営着。

5月22日

陸奥外相、伊藤首相に書簡。朝鮮問題が「今や専ら日露の問題と変じ」たという認識にたち、日本が自発的に朝鮮の内政干与を中止し、将来の日露協商の可能性を残す

25日閣僚会議、利害関係国と協力して朝鮮の改善する、決定。日清戦争の最大の目的を放棄すること。

5月22日

原敬(39)、外務次官就任(~29年6月10日、約1年1ヶ月)。6月5日陸奥大臣静養、西園寺文相臨時外相兼任(~29年4月4日)。29年5月30日陸奥大臣辞任、西園寺文相兼任。

5月22日

この日付の一葉の日記。

「二十二日、日没近く釧之助来訪。相場の場面、今朝来一変して、月はじめよりの玉(*未決済のままの売買約束の株式)残らず復活、元の外に二十の利益ありき。これより直に例の伊せやがあづけを引出し給はれとて、喜色まん面にあふれぬ。よろこびなりとて一同にうなぎの馳走をなす。・・・きのふは馬場ぬしの喜びあり、今日は西村の吉報をきく。家は貧ただ迫りに迫れど、こころは春の海の如し。

5月23日

「台湾民主国独立宣言」。総統(巡撫の)唐景松。25日、台北で独立式典。大将軍劉永福。

5月23日

子規、神戸に上陸し、県立神戸病院に入院(~7月23日)

子規は和田岬上陸後直ちに人力車で神戸病院に赴き、入院しようとする。ところが、肩に革鞄を下げ、右手には重い行李を、左の手は旧藩主の久松伯爵から拝領した刀を杖がわりにして砂浜を歩いて検疫所を出ていこうとするのだが、歩くたびに喀血、とうとうへたり込んでしまう。どうすることもできず、進退きわまったとき、たまたま同行の従軍記者が通りかかったので、担架を呼んでもらい、それに乗せられ夕方ようやく神戸病院に入院。それまで、黍がらを敷いたり、石や板のうえに毛布一枚で寝てきただけに、布団を重ねたベッドのうえに身を横たえたときの嬉しさを、子規は、「丸で極楽へ来たやうな心持て、これなら死んでも善いと思ふた」と記している。

最初に駆け付けた虚子(当時京都に滞在していた)によれば、子規の容態は、一時は「駄目かも知れぬと医者は悲観してゐた」(虚子『子規居士と余』)ほどであった。

病状はそののちさらに悪化し、むせかえるほど激しく大量に喀血するようになる。神戸病院に入院してから45日後、7月6日付で五百木瓢亭に宛てた手紙のなかで、「…今度は前年に比すれば更に甚だしく喀血前後二十日間に渡り申候自分はそれ程にもなかりしが傍人いたく心配して鳴雪翁杯は最早小生を以て地下の人とせられ候ひしとかあとにて聞及ひ候」と報告したように、喀血は20日間も続き、見舞いに駆けつけた人たちも、このまま死んでしまうのではないかと心配したほどであった。

病は1カ月を過ぎたあたりからようやく快方に向かい40日を過ぎると、ベッドのうえに身を起こすことができるようになる。

そののち、子規は、2カ月を経た時点で須磨保養院に移り1ヵ月ほど療養に努めたのち退院し、郷里松山に帰り、夏日漱石の下宿先に同居し、50日あまり過ごすことになる。

5月23日

一葉、この日より、日記「水の上」始まる。~6月16日。署名「なつ」

野々宮菊子が稽古に来る。安井哲子は風邪で休み。大橋乙羽より「日用百科全書第一編 和洋礼式」を3部送られる。

5月24日

学生114人、慶応義塾入学のため日本に向う。

5月24日

台湾総督兼軍務司令官樺山資紀、宇品発。大連から出航の近衛師団と沖縄中城湾で合同し台湾に向う。

5月24日

一葉、早朝、大橋乙羽を訪ねる。初めて妻ときに会う。昔書いたものでもかまわないから「文藝倶楽部」に掲載しようというので、「甲陽新報」にかつて載せた「経つくえ」を少しばかり改訂して掲載することとする。西村釧之助が来て、家の事情を話すと、月末のことはなんとかしようと、とりあえず5円ほど置いていく。芦沢芳太郎が台湾出兵に出発。

5月25日

閣議、朝鮮の独立を永続させるため、列国と協同し日本との関係は条約上の権利に基づかせるようにする方針を決定。

朝鮮でのロシアの勢力伸長と日本の手詰まりに焦慮した陸奥外相は、この日、天皇に供奉して京都にある伊藤首相、松方蔵相、西郷海相、大山陸相を除く「在京内閣大臣一統」の閣議を主催、「朝鮮国ノ独立ヲ将来ニ永続セシムルコトハ、各国一般ノ利害ニ関係スルコトナリ」、「因テ帝国政府ハ其独立ヲ維持スルコトニ付キ、単独ニ費務ヲ負フヲ必要卜認メズ」と結諭し、列強に対しては、「将来、日本国卜朝鮮国トノ関係ハ、之ヲ条約上ノ権利ニ基カシムルノ意ナルコト」を言明、朝鮮問題解決の為に「他ノ諸国卜協力」する方針である旨「表言」することを「閣議」決定。クーデタまがいの朝鮮政策変更案。

5月25日

一葉、萩の舎稽古。出がけに大橋乙羽に昨日約束した「経つくえ」の原稿を送る。孤蝶の合格発表の日で落ち着かない気持ちでいたところ、帰宅後しばらくして孤蝶から合格の報が来て涙ぐむ。夜、寄席若竹亭に邦子と行き、夜更けに帰ると孤蝶が改めてきたとのこと。失礼をしたと悲しむ。

5月25日

オスマン朝最後の修史官ジュウデト・パシャ(73)、没。

5月26日

京都の大本営で御前会議。小松官彰仁参謀総長、川上参謀本部次長、山県有朋監軍、大山陸相、西郷海相の武官5名及び、伊藤首相と松方蔵相が列席。朝鮮保護政策撤廃と撤兵可否を巡り紛糾。決定は東京還幸呉に持ち越し。

5月26日

この日付け漱石の子規宛て手紙

病気見舞かたがた 「小子近頃俳門に人らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と伝える。

子規が入院後初めて手紙を書いたのは、漱石と妹に宛ててで5月23日。

漱石はこの手紙を26日に受け取った。


「拝呈、首尾よく大連港より御帰国は奉賀(がしたてまつり)候へども、神戸県立病院はちと寒心致候。長途の遠征旧患を喚起致候訳にや、心元なく存候。小生当地着以来、昏々俗流に打混じ、アツケラ閑として消光(せうくわう)、身体は別に変動も無之候。・・・東都の一瓢生(いちへうせい)を捉へて大先生の如く取扱ふ事、返す返す恐縮の至に御座候。八時出の二時退出にて、事務は大概御免蒙り居候へども、少々煩鎖(はんさママ)なるには閉口致候。僻地師友(しいう)なし、面白き書あらば東京より御送を乞ふ。結婚、放蕩、読書三(みつつ)の其一を択(えら)むにあらざれは、大抵の人は田舎に辛防(しんぼう)は出来ぬ事と存候。当地の人間随分小理屈を云ふ処のよし、宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し。大兄の生国を悪く云ては済まず失敬々々。

道後へは当地に来てより三回入湯に来(まい)り候。小生宿所は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地、恨らくはなほ俗物の厄介を受け居る事を当地にては先生然とせねばならぬ故、衣服住居も八十円の月俸に相当せねばならず小生如き丸裸には当分大閉口なり。

(略)

古白氏自殺のよし、当地に風聞を聞き驚入候。随分事情のある事と存候へども惜しき極に候。

当地着後直ちに貴君へ書面差上候処、最早清国御出発の後にて詮方なく御保養の途次ちよつと御帰国は出来悪(にく)く候や。

小子近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候。

近作数首拙劣ながら御目に懸候。

(略)

当地出生軍人の娘を貰はんか貰はんかと勧むるものあり。貰はんか貰ふまいかと思案せしが少々血統上思はしからぬ事ありて御免蒙れり。

先は右近況御報知まで、余は後便に譲り申候。

五月二十六日                             夏目金之助

正岡賢兄 研北」(明治28年5月26日子規宛書簡)

「自分が作る俳句に対して、宗匠として「御高示」を示してほしい、という提案には、病と闘っている子規にとって、何が心の支えになるがを理解している漱石ならではの配慮と励ましがある。文学を仲立ちとして培われてきた、漱石と子規との関わりの深さが、この一見何気ない申し出の中にあらわれている。漱石は病と共に生き抜いていく方向に子規と一緒に歩み出そうとしている。だからこそこの手紙の中で、弟子入りの申し出の直前に、「古白氏自殺のよし」と藤野古白の自殺について言及し、「惜しき極に候」と子規の衝撃を気遣ってもいたのである。以降、古白藤野潔は、子規と漱石を「自殺」という主題で媒介し続けることになる。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


つづく

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