2024年10月2日水曜日

大杉栄とその時代年表(271) 1899(明治32)年10月1日~22日 「足尾銅山鉱毒被害地出生・死者調査統計報告」発表 鉄幹、林瀧野に結婚申し込む 荷風、落語家修行を断念 川口松太郎生まれる 普通選挙期成同盟会(片山潜・幸徳秋水ら)設立   

 

子規〈猫の写生画〉

大杉栄とその時代年表(270) 1899(明治32)年9月1日~29日 台湾銀行開業 寺田寅彦、東京帝大入学 与謝野鉄幹、浅田信子と別れる 布施辰治、明治法律大学入学 足尾鉱毒被害地住民、4回目の東京押出しに向けて動き出す 大杉栄、名古屋陸軍地方幼年学校入学 より続く

1899(明治32)年

10月

「足尾銅山鉱毒被害地出生・死者調査統計報告」発表。12月に第2回。岩崎佐十らの努力。

田中正造の指示により、被害民の岩崎差十らが足尾銅山鉱毒被害地における出生者数と死亡者数の調査を行い、年間出生者数が2,191名であったのに対し死亡者数が,3255名であったことから、年間死亡者数が出生者数を上回る1,064名を鉱毒被害による「非命の死者」と見なし、その統計データを公表した.。

死亡者の数が必ずしも鉱毒被害によるものとは限らないので、論理的には妥当ではないが、田中正造と岩崎差十らはそのように「非命の死者」を規定することによって、大挙上京請願に向けて被害民の間の志気を高め、またその数字を「足尾銅山鉱毒被害地出生死者調査報告書」として公表することによって世問の注目を戦略的に集めようとしたものと思われる。

10月

大日本労働協会機関紙「大阪週報」創刊。

10月

嘉納治五郎、亦楽(えきらく)書院の開校

日本留学生の様子を見て、『勧学篇』を記して海外留学を提唱した清国の湖広総督・張之洞が地方財政の中から奨学金を捻出して留学生を送り込んできた。

嘉納は専任者を同居させた宿舎を設け、明治32年10月、亦楽書院を開校。

名前の由来は論語の一節からとった。嘉納の熱い気持ちがあふれている。

有朋自遠方来、亦不楽也

(友あり遠方より来る、また楽しからずや)

10月

秋 子規、中村不折からもらった絵の具で水彩画を描く。


「この秋、子規は水彩画にも手を染めている。絵具は中村不折にもらったのである。「写生」とは、本来絵画に発した言葉であるから、その精神を実践しようと考えたのである。

子規はまず、手近な花々を紙上に彩色で写しとろうとした。それは我流で、お世辞にも巧みとも器用ともいえなかった。しかし、不思議に人の心をとらえる画風であった。中村不折のみならず浅井忠も一種の感動を覚え、そう率直に口にした。子規は専門家の言葉を大いに喜んだ。」(関川夏央、前掲書)

10月

子規「飯待つ間」(『ホトトギス』)。

正岡子規『飯待つ間』(青空文庫)

10月

鉄幹(26)、実家に帰った浅野信子の後を追う。信子は応ぜず、親も許さず。鉄幹は、近くに住む、かってのもう一人の教え子・林瀧野(21)の家にゆき、突如結婚を申し込む。瀧野は4人姉妹の長女、鉄幹が入り婿になり、林姓を名乗ることを約束に同意。

10月末、林瀧野を伴い上京、麹町区上六番町に住む。 

10月

秋、永井荷風(20)、九段下の富士本亭で自家に出入りの車夫に発見され、寄席出入りが父の知るところとなり禁足を命じられる。落語家修行を断念。

『花籠』で「万朝報」の懸賞小説に応募し、一等入選する。賞金10円をもち、洲崎遊廓に繰り込み、廊内最大の大店「八幡楼」に登る。

10月、広津柳浪と合作名義で「薄衣」が「文芸倶楽部」に掲載される。

10月1日

「ホトトギス」編集に加わるため松瀬青々が上京。

10月1日

川口松太郎、誕生。

10月2日

山東巡撫毓賢、平原県知県蒋楷に、「民・教の不和は公平に処理せよ」「教民の一方的な言い方を信じて処理し、人々の不満を煽らないように」と忠告。

14日、一概に平民を「匪」として鎮圧するのは公平でない。

16日、民・教の事件については匪かどうか論ずるのではなく、説得して解散させるべき。

10月2日

片山潜・幸徳秋水ら、普通選挙期成同盟会を設立

普選運動は、1897年に中村太八郎・木下尚江らが信州松本で始めるが、この月、東京で普通選挙期成同盟会が結成され、中村・木下のほか、樽井藤書、石川安次郎、幸徳秋水、河野広中、福本日南、高野房太郎、片山潜らが参加して本格的な運動となる。同盟会は、民権運動の流れをくむ人々、社会問題に関心を寄せ社会主義思想へ接近しつつある若い論客たちの集団で、労働組合運動と密接な関係を持っている。

10月3日

幸徳秋水「労働問題と社会主義」(「万朝報」)。労働組合期成会での片山潜擁護。

10月4日

栃木県庁に出頭し、明治29年洪水後から30年、31年、32年に渡良瀬川治水にどれほど費やしたかの調査を行おうとしたが、知事の許可がなかったら張簿は見せられないとして出来ず(室田忠七の鉱毒事件日誌より)

10月6日

子規、大原恒徳宛書簡で「一カ月半前から毎夜三十九度以上、稀に四十度の発熱、衰弱」という。

10月9日

(第3段階)李長水(70)、朱紅灯に支援要請しその手勢10名と無実で捕縛の6人救出のため平原県岡子荘に向い、この日到着。李金傍はこれを平原県知県蒋楷に知らせる。

10月11日

(第4段階)岡子李荘の戦い。平原県岡子李荘。知県蒋楷率いる兵(騎馬隊10・兵100)、李長水捕縛に向うが、朱紅灯の神拳の支援を受けた李長水に敗北。

10月11日

川上一座、シカゴ着

10月12日

(第5段階)南郷の村長4人が派兵要請しないように要求するが、蒋楷は派兵を要求。15日迄に、歴城・済南より騎馬隊・歩兵隊と頭領袁世凱の騎馬隊が平原城に到着。

16日、神拳、教民の家13軒襲う。

10月12日

第2次ボーア戦争勃発

南アフリカ、ボーア人国家トランスヴァール共和国とオレンジ自由国共同で英に宣戦布告。

10月16日

清朝とフランスの間、広州湾租借条約が締結

10月18日

森羅殿闘争。袁世凱は騎馬隊20騎・歩兵1営(大隊、500)率い進発。蒋楷ら従う。森羅殿2kmの小馬荘で神拳に襲撃され、戦死3・負傷10余。恩県の騎馬隊が到着し挟撃。神拳は退却。

平原県知県蒋楷は、拳民弾圧の理由のため山東巡撫毓賢により更迭(25日)。毓賢は神拳が官に手向かわない限りこれを公認する考え。この闘争以降、毓賢は山東省の義和拳を鎮圧しなくなる(列強外交官は総反撥・抗議。総署はこれに屈し、12月6日、毓賢を罷免、袁世凱を後任に送りこむ)。

毓賢は、済南知府盧昌詒を平原県の義和拳に派遣し説得、山東各地の義和拳・大刀会に「民団」と改称するよう指示。これにより「義和団」と「扶清滅洋」スローガンが恩・平原・高唐・荏平県などの義和拳隊伍に広がる。

10月19日

アルバート・アインシュタイン、スイス市民権を得るために正式な申請をする。

10月21日

子規の発案により虚子宅で闇汁会。石井露月、牛伴、碧梧桐、坂本四方太、内藤鳴雪ら。

10月21日

雲竜寺事務所で、「河身大改復実行ノ請願ヲナスコト・衛生保護ノ件・免租継年期願ノ三件」を決議する。内務大臣宛の「町村会決議之要領書」を次のように定める。

「足尾銅山鉱毒事変ニ付、明治三十年松方内閣調査会ノ結果中、渡良瀬川河身大破壊ノ一ヶ条ハ即チ同内閣ノ閣議ヲ経テ当局内務大臣伯爵樺山資紀ノ時、測量調査結了セシモノニモ関ワラズ、河身全面ノ改復改造等ノ大工事ノ遷遠ニ付、沿岸ノ惨状旧日ニ数倍シ、生命ヲ刻ミ多クノ人畜ヲスニ至レリ。此レガ工事実行ノ急迫ナルニ付、催促請願ノ儀村会ノ決議ニ依リ請願仕候也」(室田忠七の鉱毒事件日誌より)

(翌年2月13日の第4回東京押出しの請願要求のベースになる渡良瀬川大改修・衛生保護・免租継年期願の三つが打ち出される。3番目の免租継年期願は10月30日の「各村共村会ノ決議」では、「村費欠額補助請願」に変わっている。いずれも渡良瀬川大改修あるいは渡良瀬川堤防改築請願が最初に取り上げられている。)

(渡良瀬川改修事業とは、明治30年松方内閣調査会(第一次鉱毒調査会)で渡良瀬川河身大破壊(大改修)が決議され、その後、樺山資紀が内務大臣の時に測量調査が完了したにも関われず、着工していないとして、この工事の早急な着工を求めた。)


10月22日 

4名の郡会議員を訪問し、「河身改良ノ実行」について郡会の決議を経て郡会より請願することを要請する。(同上)

10月22日

川上一座、オリリック座公演、好評


つづく

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