1899(明治32)年
9月
朝鮮、「韓清通商条約」調印。近代的国家間外交。
12月、「韓清互換条約」調印。
9月
台湾銀行、開業。
1897年4月台湾銀行法公布。この年5月株式公募。資本金500万円の1/5を政府が引受け、公募には4倍近い応募。結局、同行は500名近い都市商人・地方地主が政府信用を媒介に結集して行なった植民地への資本輸出であるといえる。開業とともに、政府借入れ銀貨200万円を兌換準備として銀行券を発行するが、民間貸出は少なく、初期の活動の中心は台湾事業公債引受けと総督府貸上げにおかれる。1903年に至り漸く民間貸出が中心となり、金銀比価変動による投機を避けるぺく翌04年7月から金貨免換の銀行券の発行(幣制改革)に踏み切り、台湾の日本通貨圏への編入が完了。
9月
最初の劇映画「稲妻強盗」製作。柴田常吉撮影。横山運平は日本人俳優の第1号と言われる。
9月
漱石と高田庄吉・房(異母姉)夫婦との間で月々の援助(3円)をめぐる悶着。
「金之助がお房に月々三円の仕送りをしているのは、四谷の夜店で泣いていた赤ん坊のころの彼を、生家に連れ帰ってくれた異母姉のやさしさの記憶のためにすぎない。
彼はおそらくこの関係を、ある厳密なものに限定しようとしていた。兄弟から切りはなされ、肉親の外にこぼれ落ちて育って来たことの自覚から生れる、ある無償のやさしさ。それは、自分もまた彼らの一員であることを思い出してほしいという控え目な求愛であるが、同時にまた控え目な非難をも含み、ただ繊細な感謝によって受け取るはかないものである。いったん他の兄弟たちが、金之助を粗い肉親関係の網の目にすくい上げ、彼のやさしさを具体的な「義理」でおきかえようとした瞬間に、彼は限りなく焦立ちはじめる。それは逆に彼の宿命的な孤立を意識させ、指定された関係に虚偽と悪意を嗅ぎつけさせるからである。・・・・・」(江藤淳『漱石とその時代2』)
9月
寺田寅彦、東京帝大理科大学物理学科に入学。
漱石は、
時くれは燕もやがて帰るなり
という詠む。
「寅彦の来訪をきっかけにして再開された彼(*漱石)の句作は、いつの間にか熊本在住の文人たちにいわゆる「新派俳句」熱を植えつけはじめていた。寅彦をはじめ、厨川千江(肇)・蒲生紫川(栄)らの五南の教え子のあいだにおこった新俳句の運動は、やがて川瀬六走・渋川玄耳・広瀬楚雨・池松迂巷らの校外の有志にひろまり、この秋紫溟吟社という結社が生れるにいたったからである。同人の句作は次々と熊本の新聞に掲載され、旧派の月並俳諧しか知らなかった九州の俳壇をおどろかせた。九州の各地に新派の俳句会がおこったのはこれ以後のことである。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
9月
二葉亭四迷、東京外国語大学教授高等官七等となる。明治35年5月中国に渡る迄の3年間が彼の人生の最も穏やかな日。
9月
与謝野鉄幹(26)、浅田信子との間に女児誕生(8月6日)、まもなく没(9月17日)。信子と別れる。
10月末、林滝野と同棲始める。
11月3日、新詩社設立。
○ここまでの鉄幹。
明治22年7月、次兄赤松照幢を頼り山口県徳山の徳応寺へ行き、赤松家経営の徳山女学校教師となり、ここで後に同棲する教え子浅田信子と林滝野に出会う。
明治25年夏、上京、落合直文を知り、後、井上哲次郎、大町桂月、森鴎外などと交友関係を広める。
明治28年4月、鮎貝槐園に招かれ渡韓、10月末の閔妃事件に関連し出国、再び渡韓。
翌29年帰国、明治書院編集部に勤め、跡見女学校教師にもなる。同29年9月2日母ハツエ没。
30年、3度目の渡韓。
翌31年4月末頃帰国し、8月15日、礼厳没の直前、家督相続。17日、礼厳没、喪主として葬儀をし(徳山にて)、京都で本葬を行なう。浅田信子は鉄幹より年長で、父義一郎は汽船会社共栄社創立者1人。
明治32年8月6日、鉄幹との子ふき子出生、9月17日、ふき子は没。脳膜炎で死亡したという。信子は鉄幹と別れ、東京国語伝習所、東京女子高等師範学校を卒業、大阪のプール女学校教師を勤め83歳で没、生涯独身。10月、鉄幹は林滝野を伴い上京、同棲を始める。林家も徳山では資産家で、林家の養子になる条件で滝野との同棲を父小太郎は認めたと推測される。
9月
布施辰治(20)、神田ニコライ堂の学僕となり、付属ロシア正教神学校入学を保証されるが、返上してニコライ堂をさる。この秋、明治法律学校(後の明治大学)入学。
生活は、新聞・牛乳配達、納豆屋、臨時の車夫、住み込み書生などのアルバイトで支える。
明治大学:
創立者岸本辰雄(パリ大学で学ぶ)が弁護士のかたわら教壇にたつ。同じくフランス留学帰りの元大審院判事磯部四郎講師とともに「刑法改正不要論」を展開。「明治13年刑法」のフランス革命に影響をうけた罪刑法定主義を守る戦い。結局「明治40年刑法」ができ、司法官の権限が強化され刑罰裁量範囲が広がる。
9月
菊池幽芳「己が罪」(「大毎」連載)。
9月1日
室田忠七の鉱毒事件日誌より
9月1日 県庁に出頭し、河身全面大復旧工事請願書の添書をもらう。
9月2日 内務省に出頭し、土木局長に面会して「河身浚渫大復旧工事実行願書」を提出して陳情したところ、「局長ハ至テ冷淡ナルアイサツナリ、一同怒テ引取レリ」。
(これ以降、被害地住民は、4回目の東京押出しに向けて動き出す)
9月4日 内務省に出頭し、土木局・衛生局・地方局に請願に対する処分の実行を請求する。その後、内閣総理大臣に面会を求めたが面会できず。
9月5日 農商務省に出頭し、農務局長に面会する。内務大臣に面会を求めたが面会できず。
9月7日 雲竜寺事務所で「被害民死活-途ニ関スル最後ノ方針ヲ協議スルタメ大集会」を開く。
9月12日 各村から「全権ヲ有スル委員」が雲竜寺事務所で会合し、次のことを決定する。
「最後之運動方法ニ就キ大運動必用ヲ見留メ就テハ各村参謀長選任シ、二十日迄ニ死亡調査表及上京スル人名等記シ、事務所ニ集会スルコト」
(第4回東京押出しの方針を決定)
9月1日
大杉栄(14)、名古屋陸軍地方幼年学校の第3期生として入学。新入生は50人。
9月4日
半年近く柏原文太郎の家に同居した梁啓超は、明治32年9月4日、牛込区東五軒町35番地に転居して一人暮らしに入った。その後、東京に華僑子弟のための高等学校「東京高等大同学校」を設立したほか、神戸にも「同文学校」を作って、華僑子弟の教育に力を注いだ。
東京高等大同学校は、のちに同志の麦孟華が「日文専修学校」と改名して経営するが、経営資金に行き詰まり、柏原文太郎が引き取って明治33年に「東亜商業学校」として再開。しかし、それも経営に行き詰まり、清国駐日公使の蔡鈞が改めて「清華学校」として運営した。明治41年までは清国政府から補助金が出ていた記録が確認できる。
同書によると、清華学校は日本語以外に英語や代数、三角、幾何、物理、化学などの全科履修生がいたほか、1科目だけ選択する専科履修生もいた。蒋介石も一時在籍したことがある。
9月5日
漱石、「秋暑し癒なんとして胃の病」と詠む。
また、「赤き烟黒き烟の二柱眞直に立つ秋の大空」他一首を詠む。
子規宛に句稿その三十四を送る。
9月5日
午後、寺田寅彦、子規庵を訪ねる。子規、帝国大学時代の漱石との交遊や中村不折の精進談、音楽談をする。夕刻辞退。(寺田寅彦「根岸庵を訪ふ記」(『ホトゝギス』第3巻第1号、10月10発行))
9月5日
山川信次郎、第一高等学校に赴任。
9月6日
米、ジョン・ヘイ国務長官、英独露3国に「門戸開放通牒」送る。米国は中国における各国の勢力範囲は認めるが貿易の機会は均等にすべしと主張。
9月7日
田中正造、この月(1日~10月1日)、被害地を巡回、「鉱毒非命死者の談話」を行う。この日、雲竜寺大集会。
12日、雲竜寺で秘密集会、最後の大運動方針決定。非命死者調査と第4回押出し方針。
27日、足尾鉱毒被害民7千余、政府に請願のため上京。
9月10日
子規「墓」(「ホトトギス」第2巻第12号)
「斯(こ)う生きて居たからとて面白い事も無いから、一寸死んで来られるなら一年間位地獄漫遊と出かけて、一周忌の祭の真中へヒョコと帰って来て地獄土産の演説なぞは甚だしゃれてる訳だが、併し死にッきりの引導渡されッきりでは余り有難くないね。」
「僕が死んだら道端か原の真中に葬って土饅頭を築いて野茨を植えてもらいたい。石を建てるのはいやだが已む無くば沢庵石のようなごろごろした白い石を三つか四つかころがして置くばかりにしてもらおう。(……)若し名前でも彫るならなるべく字数を少くして悉く篆字にしてもらいたい。楷書いや。仮名は猶更。」
9月15日
函館で大火。2500余戸が焼失。
9月17日
(第2段階)神拳が教民を襲撃。李長水・李金傍の友人楊伝文も李金傍の家を襲撃。
22日、平原県知県蒋楷配下が神拳逮捕に向うが、抵抗強く、恩県騎兵隊の支援を得て、神拳とは無関係の6人を逮捕。
〇岡子李荘の戦いまでの土地争いの前史
(第1段階)1880年代、岡子李荘の李長水が同村の李金傍に金を貸し、5畝の土地を差押える(3年期限)。後、李金傍は返済しようとするが、李長水は期限切れとして受付けず。李金傍は知県に訴え、知県は李金傍を勝訴とする。李長水もこれを受入れるが、両者は不仲となる。後、李金傍は教会に、李長水は神拳に入る。
9月23日
オーストリア首相トゥーン、辞職願い。帝国内紛争鎮められず。チェコ・ドイツ人対立、ハンガリー人の二重帝国内での暗躍など。
9月28日
子規、風景を見て歌を作るべく人力車で近郊を探訪し、5年来の思いを満たす。
9月29日
「鉱毒被害民の決議」(『万朝報』)
「栃木群馬埼玉三県鉱毒被害民の委員等ハ此程群馬県鉱毒事務所に会合し下の決議を為し、今回ハ死を決して目的を達せんとする趣を声言し居れり。
1.渡良瀬川河身改良即ち大復旧工事施設費予算編入のこと
1.鉱毒による被害人民生命救助の事
1.途中は野宿の心得にて食料及び天幕を用意する事
1.行進中は凡て指揮者の命に従ふ事
1.警察に行進を差止めらるヽときは何事たりとも其場所に止まる事
1.警察官に拘引せらるヽもの有るときは之れを奪ひ返す事
1.一致団結して運動するを差止めらるヽときは各道を異にして上京する事」
つづく
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