2024年12月19日木曜日

大杉栄とその時代年表(349) 1901(明治34)年8月1日~3日 8月3日 ロンドンの漱石 「八月三日(土)、午前、池田菊苗を訪ね、昼食を共にする。その後、 Carlyle's House (カーライル博物館 24 Cheyne Road, Chelsea チェルシー・チェーニ路地二十四番地、旧十番地)を初めて見物する。粗末な感じを受ける。(「カーライル博物館」「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」はこの時の見物をもとにする。) Carlyle's House の少し東にある George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)と Dante Gabriel Rossetti (ダンテ・ガブリエル・ロセッチ 1828-1882)の旧居も尋ねる。前の庭園に D.G. Rossetti の胸像が噴水の上に彫られている。」

 

 Carlyle's House (カーライル博物館)

杉栄とその時代年表(348) 1901(明治34)年7月20日~31日 〈猛勉強する漱石〉 「余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。」 より続く

1901(明治34)年

8月

上海、東亜同文書院設立。

8月

浮田和民「帝国主義と教育」。

「過去の帝国主義」と区別し、「現今の帝国主義」には「多くの倫理的要素」があり、「軍事的」でなく「国民の経済的要求」であることをいい、経済的な膨張主義は容認。「国民」を主体とした立憲主義とその観点からの変革を唱えると同時に、帝国主義を再定義して、侵略武力ではなく、経済的な膨張をいう。浮田は、「倫理」をもつものとして経済的な帝国主義を肯定。

8月

高山樗牛「美的生活を論ず」(「太陽」)発表。美的生活ということばが流行語となる。

8月

岩野泡鳴「露じも」(「自家版」)

8月

堺利彦『家庭の新風味 一~六』(内外出版協会)刊行

この本には、「結婚論」と「夫婦論」が収録されている。結婚論では、装飾品のような上流階級の「お姫様」は別にしても、中等社会の娘はできるだけ早婚を避け、学芸を修めた後に職業を持つべきだ、結婚後も共働きをするはうがいいと述べている。そうすると結婚時期は若干遅れることになるが、「中等社会の娘は晩婚」と定めてしまいたい、とまでいう。

夫婦論では、「妾」についてかなり紙面を割いている。堺が入社する前年の1898年、『萬朝報』は、「弊風一斑 蓄妾の実例」を長期にわたって連載して大きな話題を呼んだ。この連載は、名士とされる男性が妾を囲っている事例を500例以上も紹介したもので、伊藤博文、山県有朋、犬養毅、鳩山和夫、森鴎外、北里柴三郎、西園寺公望、榎本武揚、高田早苗、末松謙澄、黒田清輝、西郷従道など、著名の士が続々登場する。この頃は、「蓄妾」や「妻妾同居」が公然と行われていた時代であった。堺は、妾を持つ男性に社会的制裁を加えた黒岩涙香に共鳴していた。

巻末には、附録として「春風村舎の記」が収録されている。これは、前年に雑誌『大帝国』に掲載されたもので、ここには、堺が考える〝理想の家庭″が描かれている。まもなく堺は、エドワード・ベラミーとウィリアム・モリスのユートピア小説を抄訳することになるが「春風村舎の記」は、ユートピアよりもっと素朴な田園で「生きる幸せ」を描いたもの。〝社会主義者以前〞の堺利彦が抱いていた理想の家庭観、社会観がよくわかる。

また、巻末に掲載された『言文一致普通文』の広告には「第七版」とあり、この本は2ヵ月弱で7刷になったことになる。山本正秀「堺枯川の言文一致活動」(『茨城大学文理学部紀要』第15号)によれば、『言文一致普通文』は12月までに14版に達し、3年後の1904年5月まで17版を重ねているという。合計では2万部は越えていると推測できる。

内外出版協会からはこの時期に、山田美妙の『言文一致文例』も刊行され、各社からも類書が次々に出ている。そのなかでは、堺と美妙の本が優れた指導書としてよく売れている。山田美妙は朝報社社長の黒岩涙香宛の書簡で、「枯川君の近作『言文一致普通文』は実に近来稀にみる傑作」と絶賛している。

8月

漱石、理論的な文学論構築のための最も初期と思われるノートを記す。


「八月から九月までの間、十年計画で著作を志す。(これは、日本に帰り、東京帝国大学で、「文学論」として講義し、後に『文學論』として刊行したものの原型である。)この頃から、第五高等学校に戻らないで、東京で仕事をしたいという意志が強固となる。」


「心理学や社会学の書物を熱心に読む。ノートをとり、自分の考えを少しずつ書き留める。

十年計画の著作を志したことと Dr. Craig の許に通わなくなったことは関係あるかもしれない。」(荒正人、前掲書)


8月

堺利彦「言文一致事業と小説家」(言文一致雑誌『新文』(1901年8月号)。尾崎紅葉率いる硯友社一派の小説家を手厳しく批判。


内外出版協会の山県悌三郎(号は仙郷学人);

教育家・文筆家として世に出た後、『学海之指針』『少年園』『少年文庫』『文庫』『青年文』などの雑誌を刊行。フィリピン独立運動に注目して、東京に来たフィリピン人留学生の面倒をみていた。堺の同僚で『萬朝報』の英文欄を担当していた山県五十雄は、この山県悌三郎の実弟。堺は山県五十雄を介して山県悌三郎と知り合ったと推測できる。妻の治療費による経済的苦境にいる堺のことを知った山県が、『言文一致普通文』『家庭の新風味』執筆を勧めたのではないだろうか。

堺の日記には、「山県が色々B00k Makingをすゝめてくれるからチトこしらへで見ようと思ふ、言文一致の本が出来たら其の次には婦人向の本を色々やつて見やうと思ふ、是れは必ずしも悪い意味のBook Makingではあるまい」(1901年5月16日)とあり、この「山県」は、内外出版協会の山県悌三郎である。

8月

大阪、鉄工労働者を中心に関西労働組合期成会結成。

9月、大日本職工教育会と合同して労働青年会結成。

8月

米価、8月上旬より高騰、各地の米穀取引所で売買停止に。

8月

高平小五郎駐米公使、桂太郎首相の訓令によって米での公債発行に関して米資本家と協議。

8月

アンコーレ、英によりウガンダに併合。

8月1日

8月1日~8月2日 ロンドンの漱石


「八月一日(木)、 ""Life's Dialogue"" (英詩)を作る。池田菊苗から手紙来る。前日留守をしていたが、八月三日(土)なら午前中から都合よいと書いてある。鈴木禎次・時子から、日本銀行を通じて、三ポンド送金して来る。何のためか分らない。日本銀行に受取を出す。

八月二日(金)、池田菊苗・鈴木禎次・Mr. Sweet (スウィート)・芳賀矢一へ手紙を出す。池田菊苗には、三日(土)午前中に訪ねる旨の返事をする。文部省と鈴木時子から手紙来る。」(荒正人、前掲書)


8月3

中江兆民、『一年有半』脱稿

幸徳秋水が「万朗報」に発表した「夏草」によると、8月2日に夜汽車に乗った秋水は、翌日の午前に大阪梅田に降り、翌4日の朝8時前に汗を拭き拭き兆民の寓居に駆け込んだ。

「其容貌は去三月の末に東京を発たれた時と、左程の変りは見えないで、元気少しも衰えず、快談平生の如くであるが、頚部の腫物は既に気管を圧して居る、呼吸は僅かに喉頭の.切口から成されて居る、そして先生は莞繭として数帖の半紙の草稿を取出し、是れが学者の本分として、社会と友人への告別、又は置土産だ、死だら公げにしろと言って示された」 


秋水が生前出版を打診すると、兆民は、「君の一存でよろしく取りはからってほしい」と答えた。兆民は、秋水が記者をしている『万朝報』に掲載されることを望んでいたようだ。

7日、秋水は東京へ帰り、小山久之助に生前出版の件を相談したところ、小山も大賛成、そこで博文館の大橋新太郎に依頼し、出版することになった。『万朝報』掲載の場合には当然長期連載となるから、それより一冊の単行書として刊行する方がまとまりがあってよいと判断したのであろう。秋水の妻(師岡千代子)は、『一年有半』の原稿を清書した(『風々両々』)、

10日付けの兆民の手紙は、「出版のことは、相なるべくとりいそぎくだされたく、病中相たのしみおり候」とある。また、兆民は千代子の協力に謝意を表している。

8月3

8月3日 ロンドンの漱石


「八月三日(土)、午前、池田菊苗を訪ね、昼食を共にする。その後、 Carlyle's House (カーライル博物館 24 Cheyne Road, Chelsea チェルシー・チェーニ路地二十四番地、旧十番地)を初めて見物する。粗末な感じを受ける。(「カーライル博物館」「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」はこの時の見物をもとにする。) Carlyle's House の少し東にある George Eliot (ジョージ・エリオット 1819-1880)と Dante Gabriel Rossetti (ダンテ・ガブリエル・ロセッチ 1828-1882)の旧居も尋ねる。前の庭園に D.G. Rossetti の胸像が噴水の上に彫られている。」(荒正人、前掲書)


「四階へ来た時は縹渺(へうべう)として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいといふよりはどことなく妙であった。こゝは屋根裏である。・・・・・カーライルは自分の経営で此室を作つた。作つて此を書斎とした。書斎としてこゝに立籠つた。・・・」(『カーライル博物館』)


「カーライルの家 - 最上階からの眺め

・・・・・彼はこの後も三度、ここを訪問している。先に触れたように、カーライルは若いころから彼が親しんだ文学者であり、一高時代の英作文では、夢にカーライルが現われて、自分の文章を真似するなと欝告した文章を書いたことがある。やがて『吾輩は猫である』 では、苦沙弥先生が、「あのカーライルは胃弱だったぜ」と、「自分の胃弱も名誉であると云つた様な」ことを言って自己弁護をしている。

そのカーライルの家に入り三階・四階と上って、漱石が感動したのは四階の屋根裏部屋、自分で設定した四角な家の最上階である。カーライルは「此天に近き一室」を書斎として、思索と著述に耽った。夏に窓を開け放つと、街路の物音、近所合壁の騒音が喧しいので、彼は約二百ポンド(当時二千円)の大金を投じてこの書斎を作り、窓ごしに天を仰ぎ、路上を見降していたという(「カーライル博物館」)。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


つづく

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