2023年4月8日土曜日

〈藤原定家の時代324〉建久10/正治元(1199)年10月 頼朝政権確立過程における梶原景時の役割

 


〈藤原定家の時代323〉建久10/正治元(1199)年8月20日~9月30日 定家(38)の瘧病・咳病 おまけに所有する庄園で洪水被害 「無理して出掛ければ、「甚雨、暗夜ニ松明ナシ。貧窮形ヲ現ハス」ということになる。笠なし、松明なし、牛なし、である。」(堀田善衛『定家明月記私抄』) より続く

建久10/正治元(1199)年10月~翌正治2(1200)年1月

頼朝が急死したこの年(建久10年/正治元年(1199))10月から翌年1月にかけて、頼朝政権確立に主要な役割を演じた梶原景時が没落する。

その過程に入る前に、梶原景時の事績を確認しておく。(山本幸司『頼朝の天下草創』(講談社学芸文庫)による)

〈頼朝政権における梶原景時の役割

梶原氏は坂東に根を張った桓武平氏の一流三浦氏-大庭氏の系譜を引き、後三年の合戦で勇名を残した鎌倉権五郎景政(景正)の子孫に当たる一族。

景時について一般的に流布している人物像は、義経のことを頼朝に讒言して義経の悲劇的な死を招いた陰険な策謀家というものだが、そうした景時悪評を生み出すもととなったのが、軍記物における義経との「逆櫓」争論である。

『源平盛衰記(げんぺいじようすいき)』によると、元暦2年/文治元年(1185初頭、屋島に拠る平氏軍を攻撃するため義経が軍議を開いた際、景時が船の地先に逆櫓を立てて自在に進退できるようにしようと進言すると、義経は予め逃げ支度をして軍に勝つことなどできるものかと一蹴してしまう。それに対して、景時が後先をも顧みずやたらに敵を討つことばかり考えるのは猪武者だと反論するが、義経は重ねて、死にたくないと思うなら初めから戦場には出ないほうがよい、景時が大将軍なら逃げる準備に百挺でも千挺でも逆櫓を潰てればよいが、義経の船に立てるつもりはないと断固として退け、満座の中で景時に恥を掻かせる。この一件で景時は義経を深く恨んで、頼朝に平家なき後の義経の脅威を讒言したため、頼朝も義経に対して警戒心を抱くようになったという。

『吾妻鏡』にも、景時が頼朝に飛脚を送って西海の合戦の様子と義経の専横を訴え、早く帰りたいと申し出た話が見える。

義経と景時の確執は事実だろうが、その原因は、頼朝中心に将軍権力の強化を考える景時と、頼朝の兄弟という地位の相対的独自性を強調する義経との立場の違いにあった。

この将軍権力の強化という点において、景時は大きな役割を果たしていたと推察される。『吾妻鏡』を見ると、景時が頼朝の側近として演じていた役割は、以下のように分類できる。

①情報蒐集・伝達、使節・交渉、②頼朝の身辺警護・随従、③軍(いくさ)奉行・軍目付・諸国守護、④警察・検察、⑤頼朝家の家司的役割を含む雑事の奉行、などである。ここからは景時の任務の多様性が窺えると同時に、幕府の主要行事のほとんどに彼が参画していた事実も浮かんでくる。しかも景時は「言語に巧み」な士として、弁舌ばかりでなく歌才によっても頼朝の信頼を得ていたのであり、終生頼朝に忠実な側近随一というべき存在であった。

『吾妻鏡』やや軍記物でも、景時が頼朝に随うきっかけは、石橋山の合戦で敗れた頼朝が椙山(すぎやま)の山中に潜んでいた際に、平家方の大庭景親(かげちか)に属していた景時が、頼朝を温情をもって見逃したことにあったとしている。軍記物では、巨木の洞(うち)に隠れていた頼朝を景時が見て見ぬふりをして逃す有名な場面である。だがその後、景時が正式に頼朝に属したことを伝える治承5年/養和原燃(1181)正月11日の『吾妻鏡』では、前年末に土肥実平(さねひら)が連れてきた景時が、初めて頼朝の御前に参上し、文筆の能はないが弁舌の才に長けた人物として頼朝の思し召しにかなったと記されているだけで、助命の件については全く触れていない。

他方、『愚管抄』には「サテ治承四年ヨリ(頼朝が)事ヲオコシテウチ出ケルニハ、梶原平三景時、土肥次郎実平、舅(しゆうと)ノ伊豆ノ北条四郎時政、コレラヲグシテ東国ヲウチ従へントシケル」という、頼朝の旗挙げの当初より景時が参画していたことを窺わせる記事があり、むしろこちらの方が信憑性が高い。

伝承的ではあるが、景時の地位を示唆する史料として『沙石集(しやせきしゆう)』がある。『沙石集』の著者無住(むじゆう)は景時の子孫といわれ、そのせいか『沙石集』には梶原一族にまつわる話がいくつか載っていて、その中に景時が討たれた後、その妻が栄西に慰められて追悼のために塔を建てたという話がある。この話からは景時の妻が寺塔を建てられるほどの所領を持っていたことが知られ、間接的に景時の勢威の大きさが推測され、同時に注目されるのは、栄西が「故大将殿ノ御時、万(よろず)ノ軍(いくさ)ノ謀(はかりごと)ヲバ仰せ合ハセシカバ、人ノ亡ビ失セシ事、然ルベキ事卜云ヒナガラ、彼(景時)ノ計(はか)ラヒニヨル」、また妻も「故梶原大ナル者ニテ侍リシカバ、罪モ定メテ大ナルラン」と語っている個所で、景時が幕府政治において相当な権力を振るっていたと想定できる。

景時の事績の中でまず特徴的なのは、合戦における降人の助命・扶持に関して景時が積極的に関わっている事例が多いことである。

その典型が『諏訪大明神絵詞』に見える諏訪下宮の神官金刺盛澄(かなさしもりずみ)の話である。盛澄は源義仲と縁が深く、義仲が討たれた後、頼朝に召し出されて死罪に定められ、景時に預けられていた。だが、盛澄は弓馬の名人なので、召し使わないで殺してしまうのは惜しいと景時は頼朝に言上したが、頼朝は許さない。そこで景時は盛澄の技を見てから死罪にするようにとさらに進言して、召し出させる。盛澄が参上すると、頼朝は先ず八的(やつまと)を射よと命じ、密かに癖馬(くせうま)を与えるが、盛澄は見事に射通す。そこで頼朝は、すでに射た的の割れ残ったのを射よと命じ、盛澄が重ねて射ると一つも外れない。さらに頼朝は的を立ててあった串を射よという難題を課したので、盛澄は一旦辞退したが、景時に諌められて出場し、すべての串を射切って通ることができた。この神技に感じて頼朝は盛澄を放免し、加えて義仲の一党60余人も同様に許してほしいと景時が言上したため、皆赦免され、盛澄と一緒に国へ帰ったという話である。

景時が追討されたとき、その与党として捕らえられた勝木(かつき、香月)則宗(のりむね)も元来は平家方の武士であった。則宗は筑前鞍手(くらて)郡の出で、平家方で活躍した山鹿秀遠の縁戚に当たるが、伝承では範頼とともに西海に遠征した景時に降って鎌倉に赴いたとされる。

盛澄・則宗以外にも、武藤資頼が奥州合戦の際に許されて従軍したという『武藤系図』の記事や、『吾妻鏡』にある義仲の家来皆河(みながわ)権六太郎が赦免された話、あるいは『古今著聞集』の都筑平太経家や渡辺源次番(つがう)の話などから、景時が降人を預かり、その助命と活用に尽カしていた様子が窺える。

そうした降人たちの中でも特筆すべきは城長茂(じようながもち)と本吉高衡(もとよしたかひら)の二人である。

越後の城長茂は平氏が藤原秀衡とともに懐柔して、頼朝の背後を衝かせようと画策したほどの有力武将で、平家方として義仲と戦ったが敗れ、頼朝方に囚われて景時に預けられた。景時は頼朝が奥州合戦に進発するに当たって、長茂を従軍させるよう進言し、それが容れられて長茂は自らの旗を用いて進軍したところ、奥州も近い新渡戸駅でその郎従は200余人にも及んだと伝えられる。こうして景時に受けた恩義のせいか、長茂は景時の滅亡後、ほぼ1年を経た建仁元年(1201)正月、軍兵を率いて京都における小山朝政の宿舎を包囲し、ついで仙洞御所へ闖入して鎌倉幕府追討の宣旨を出すよう要求したが、勅許がないまま逐電し行方しれずとなるという事件を起こしている。この事件は景時の事件と同種のもので、長茂は景時の遺志を継いだと見ることができる。長茂とその一党は、追捕の結果いずれも誅殺されるが、事件はさらに越後に飛び火して城資盛(じようすけもり)が反乱を起こし、5月前半に鎮圧されるまで猛威を振るう結果となった。

この事件で長茂と行を共にしたのが本吉高衡である。彼は藤原秀衡の四男で、奥州合戦で降人となって相模国に配流されているが、そこから高衡も景時との関係が生じたと推測される。長茂と高衡は、城氏と奥州藤原氏の関係で以前からの知り合いであった可能性も否定できないが、この一件での共同行動は景時との縁によるものと考えられる。

景時がこのように多くの降人を預かったのは、軍奉行・軍目付という職務に基づくものではあるが、単に職務を超えた積極的な意図も存在したのかもしれない。降人たちの顔ぶれは、もと平家方に属した武士たちだけに、出身は信濃・越後・摂津あるいは奥州・九州方面など、それまでの頼朝軍の中核である 東国在地武士層とは異なる地域の出身者が多い。これらの降人たちを助けて再び軍事力として編成し、景時を経由して頼朝に直属するものとすれば、それまで一貫して頼朝に従っていた東国武士たちとは異質な軍事力が、直属軍として新たに組織される事態も生じ得たのであり、それは東国の有力御家人たちとは無関係な将軍権力の一つの要素を形成するものといってもよい

その他、例えば上総広常誅殺のように東国武士団の枠を超えた景時であればこそ、それが実行しうるという役割もあった。

上総介広常が朝廷を軽視する発言をしたために頼朝に誅殺されたという『愚管抄』の記事によれば、景時が広常と双六を打ちながら、さりげなく盤を越えて広常を討ち、首を掻き切って頼朝のもとに持参したことになっている。ここで景時が討手に選ばれていることは何を意味するのか。広常は頼朝の勝利に貢献した東国の有力豪族で反骨精神の持ち主だった。そうした広常を討つには、誅殺の正当性に疑問を抱いていては難しく、頼朝の考え方を理解し、従来の東国武士の発想から脱却した人間でなければならない。単身でこの任務を遂行した景時の振る舞いには、彼がそうした条件を満たした人間であったことが示されている。

この事件のほかにも、御家人の認定の問題で、西国に遠征した頼朝軍に現地の武士が属した時に景時が発給した奉書をもって、後年に御家人の証としている例が見られるように、西国武士の組織化に当たって景時が奉行の役割を果たしていることも、幕府権力の全国展開を考える上では無視できない。

 

つづく


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