2023年4月7日金曜日

〈藤原定家の時代323〉建久10/正治元(1199)年8月20日~9月30日 定家(38)の瘧病・咳病 おまけに所有する庄園で洪水被害 「無理して出掛ければ、「甚雨、暗夜ニ松明ナシ。貧窮形ヲ現ハス」ということになる。笠なし、松明なし、牛なし、である。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)   

 


〈藤原定家の時代322〉建久10/正治元(1199)年8月1日~8月19日 定家、瘧発病 頼家、愛妾を奪おうとした頼家に怒った足立景盛を成敗しようとする 政子、頼家を諫言する より続く

建久10/正治元(1199)年

8月20日

・定家、瘧病に驗ありという、九条富小路の地蔵堂に詣でる。急ぎ帰るの間、発汗、漸くさめ、もとに復す。

8月21日

・定家、九条良経からその知行国・越後の土地(苅羽郷か)が給与される。この日より咳病を病む。

8月22日

・定家、22日、24日と、瘧病の護身のため、聖尊阿閣梨を招く。快くなり、「感悦極マリ無」く、牛一頭を贈る。しかし咳病はまだ癒らない。

この日、越後の小さな庄に、左衛門尉通遠を遣わす。「此ノ男、心操ヲ知ラズト雖モ、近年以後頻りに入り来タル。春、春日ノ遠路ニ相伴フ。日来、一事ノ恩無シ。仍テ、云ヒ付クル所ナリ。此ノ所、石六十許リナリト云々。極メテ、幾バクナラズ。只、名字ヲ以テ大切トナス」と、通遠を評し、この忠に報いるために派遣した。

25日、兼実、八条殿に参ずるに、供人皆故障、片路だけでも参ずべしとのこと、定家は、大略不食、身体苦痛、眩いのする状態だったが、牛を借りて出かける。人の噂では、今度の勅使、長途飢えに苦しみ、下人多く無力、又馬も多く盗まれ、帰洛するや、粟田口で深泥に落ち入ったという惨状である。この頃、後鳥羽院は、熊野御幸の途次、いささか御不予と。

8月26日

・法勝寺法印能円、配流先の備中で没。

「能円法師死去云々、其娘督殿(承明門院在子)猶昨日在禁裏」(「明月記」)。

8月29日

・定家の播磨越部庄、19日の洪水を告げる。

「越部庄、去ル十九日ノ洪水、山ヲ壊シ、陵ヲ襄(ノゾ)キ、一頃モ余シ残ス無キノ由。今日使者告ゲ来タルト云々。不運ノ身、乱代ニ遭フ、何ヲ以テカ余命ヲ支へンカ。哀シミテ余リ有リ」と欺く。

「西ヨリ東ヨリ、損亡ノ由ヲ聞ク。門々戸々愁悶セザルハ無シト云々。明年革命、已(スデ)ニ以テ眼ル在ルカ。・・・家中、今日以降、惣テ憑(タノ)ム所無シ。」(明月記)

9月4日、忠弘が損亡の体を見るため、越部庄に下向。

9月5日

・定家、鳥羽御幸に、財を尽して経営した八幡検校成清の逝去を聞く。「末代ノ運者ナリ」と。

7日、女房たちと嵯峨へ栗拾いに行く。甚雨によりその興なし。

8日、門を閉じ、病臥。「車馬ノ喧シキヲ聞カズ、聊カ心ヲ述ブ」。夕、小浴の後、心神殊に悩む。

9月12日

・式子の許に仕えている姉の竜寿御前が、健御前を訪ねて来る。この人の語るに、召仕の信濃という女房の虚言を白状させるため、大炊殿の車寄せの南の細所に入れる。この女房の言によれば、去年の七月の頃か、ひとりでこの場所に入ると、同形寸分違わぬ者六人が並んで坐り、問答する。そしてその詞の中に、御所のため〈式子〉、凶を成さず、奔り散ぜず、ここに坐せられれば、何事か在らんや。全く人に語るべからずという。委しいことは怖ろしいので、これを秘し、申せなかったという。

その六人は、「法師ニアラズ、尼ニアラズ、児ニアラズ」由を申した。この女房は、日頃、虚言など好まぬ者なので信用したという。

此を聞いて、定家は、稀代の奇特につき記し置くと書いている。

そして、「惣ジテ彼ノ所、事ニ㊥テ、此ノ如キ聞エアリ。院ノ御所タルノ時、女房等尼ヲ見、怖レヲ成スト云々。又斎院、先年御寝殿タルノ時、女房周防驚ク事アリ。其ノ事ヲ申スノ後、御寝殿ニアラズト云々。予、彼ノ御所二値遇スルコト十五年、禁裏卜云ヒ、射山卜云ヒ、槐門ノ椒房卜云ヒ、日夜ニ相馴ル。未ダ嘗テ不審ノ事ヲ見ザル間、此ノ事大イニ奇トシ驚ク者ナリ。殿下御坐スノ間、又女房達、時々怖畏ノ気ヲ称ス。今恩ヒ合ハスニ、頗ル云々ノ説等アルカ。後ニ之ヲ問フニ、全ク別事無シト云々。又云フ、民部卿参ズルノ間、周防ニ謁スルタメ、簾中ニ在ル間、尼来りテ傍ニ坐ス。別当殿来タル由ヲ存ジテ、驚カズ。又見ニ遣スノ時、忽然トシテ見ズト云々」

まことに奇怪な妖怪譚である。式子御所大炊殿は、後白河院の御所の頃以来、定家は、見慣れたところであった。兼実の住んでいた頃も、女房が怪異を見、今も経房さえ尼の出現を見たという。

9月15日

・定家は、笠がないので他出出来ない。狂った青侍が、霖雨の折り、盗んで打ち破ったという。

「無理して出掛ければ、「甚雨、暗夜ニ松明ナシ。貧窮形ヲ現ハス」ということになる。笠なし、松明なし、牛なし、である。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

9月17日

・定家(38)、慶忠法橋と和歌のことを談ず

17日、深更に及び、慶忠法橋が来訪、和歌のことを話す。「希代ノ逸物」「月夜ニ来臨、道ノ面目、歌ノ気味ナリ。珍味々々」と定家は喜ぶ。またつづけて、「明月蒼々、雲漸ク尽ク。秋月、雨隙ヲ得ズ。恨ミヲ含ムノ処、今夜適々病眼ヲ養ヒ、聊カ心緒ヲ述ブ」と、蒼月に対する思いを述べる。

9月20日

・定家の長姉八条院三条(52)出家。

9月21日

・定家(38)、数日来の咳病により灸治

9月22日

・早旦、定家の妻たちは東山に栗拾いに行く。良経より、越後の庄少郷を加えられた。

9月23日

・定家(38)、八条院の舎利講に参仕

9月26日

・頼家に鎌倉に招かれた栄西、大倉御所(幕府)において不動尊供養の導師を務める。

9月30日

・定家(38)、日吉社に参詣。戸津の浜に出て、小船を借り、三井寺大門の大路に入る。舟中の眺望に興を催す。そこより騎馬にて入洛。


つづく

0 件のコメント: