2024年9月27日金曜日

大杉栄とその時代年表(266) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉 母の死 父を連れて上京(二度目の東京生活)『実業新聞』入社 『実業新聞』廃刊 父の死 生活態度を改める 堀美知子と結婚 『福岡日日新聞』入社   

 

大杉栄とその時代年表(265) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉 浪華文学会設立され、堺利彦はこれに加わる 小学校教師を辞め『大阪毎日新聞』(2ヶ月) 『新浪華』入社 より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉

1893(明治26)年4月、紅葉らを迎えて巌谷小波が関西文学会を開催

4月12日、尾崎紅葉(硯友社のリーダー、『読売』文芸部主任)は硯友社の江見水蔭(本名・忠功)、中村花痩(本名・壮)、渡部乙羽(本名・又太郎)と共に、『京都日出新聞』の巌谷小波に会う目的で関西旅行をした。その機会に巌谷小波が開催した関西文学会には、関西在住の若手文士やジャーナリスト、東京から来た紅葉ら4人も出席した。

1894年7月、日清戦争が始まると、堺は『新浪華』に連載していた「生ぬるい小説」を中止して、代わりに戦争美談を載せるほど、当時の風潮に染まっていた。

1894年末、6年ぶりに上京、元旦から兄とともに房州多々良に滞在

兄乙槌は『大阪朝日』に借金がかさみ退社。結果、家庭不和となり、妻子は豊津に引き揚げ、乙槌は身一つで東京へ流れていく。その乙槌からの手紙を読み、堺は東京への憧れを募らせる。折よく機会があり、1894年暮、堺は6年ぶりに東京を訪れた。かつての知り合いたちと再会し、羽目を外して連日ドンチャン騒ぎをくり返す。ところが、借りていた下宿が火事で焼けてしまったため、堺は乙槌と一緒に大晦日の夜に船に乗り、1895年元旦から房州の多々良(現・千葉県南房総市富浦町多田良)に滞在する。

東京に戻ると、母コト危篤の電報が届いており、急いで大阪に戻る。大阪に戻ると幸いにも母はまだ生きていた。暫くして兄も戻ってきて、兄弟2人で母を看病する。

1895年2月23日、「二夫婦」(兄弟合作、『大阪朝日』連載)

筆名は「某氏」で、いかにも急ごしらえの感じがする。この「二夫婦」が、堺と乙槌の兄弟合作の小説である可能性が高い。堺によればこれも西洋小説の翻案で、その原稿料で母の医療費を支払うことができた。

1895年2月24日、母コト没

兄乙槌は東京に戻って『都新聞』に入社する(『都新聞』主筆の田川大吉郎と乙槌は、長崎に遊学したときからの知り合い)。給料は30円。生活はそれまで以上に放縦になる。

7月に「女喰い』、10月に「刀痕浪人」を同紙に連載。

1895年9月、父を連れて上京、『実業新聞』入社

田川大吉郎が改進党機関紙『改進新聞』を受け継いで『実業新聞』を創刊することになり、堺は乙槌の推薦で同紙に入ることになった。1895年9月に堺は父を連れて上京する。堺にとって二度目の東京生活

「堺枯川」の名前は東京でも知られるようになっていく。

堺はこのころ博文館が創刊した『少年世界』にいくつか短篇小説を書いている。博文館は『太陽』と『文芸倶楽部』と『少年世界』の三誌を一度に創刊し、文学を志す若者たちに大きな期待を抱かせた。創刊時の『少年世界』の編集主任には、京都から呼び寄せられた巌谷小波が就任している。巌谷小波は京都にいたとき、浪華文学会に参加していたので、堺は自分の作品を『少年世界』に売りこんだのだろう。

荒畑寒村は、堺枯川という名前を記憶したのは、『少年世界』で作品を読んだのが最初だった、と述べている(『うめ草すて石』)。とくに、堺の「百物語」の数篇は強く印象に残ったという。「百物語」は、古ぼけた山高帽や折れ釘が、役立たずの状態で放置された自分の身の上を嘆くという話だが、荒畑寒村がそこに、すでに堺の「社会主義的人生観」の片鱗を感じ取ったというのは興味深い。もちろん、当時の堺には、自分が社会主義者だという意識はまったくなかった。

堺の給料は25円(当時の新聞記者としてはまずまずの金額)。編集局には年配の三品蘭渓(本名・長三郎、戯作者)や、まだ若い岡本綺堂(本名・敬二)がいた。

堺は『実業新聞』で小説や雑報を書きながら新聞の編集もした。小説「いろは」を連載。挿画は当時は無名の日本画家の寺崎広業で、この小説はとくに評判にはならなかった。

その後、堺は一面の「時論一斑」欄を担当する。これは各新聞の論説の大意を3~5行に要約して掲載するもので、横浜の英字新聞も含まれていた。

1896(明治29)年2月、『実業新聞』廃刊と父の死

1896(明治29)年2月、『実業新聞』は廃刊する。さらに月末には父得司が突然昏倒して、意識を取り戻さないまま、翌日息を引きとった。失業したために無一文に近い状態だった彼は、書きかけだった原稿を堀紫山の世話で『読売新聞』に買い取ってもらい、ようやく父の葬式を出すことができた。その原稿は、両親に愛されて育ったなつかしい豊津のことを書いた「望郷台」だった。

当嘩堺はかつての浪華文学会のメンバーで、その後上京した加藤眠柳、上司小剣、堀紫山らと「落葉社」という俳句の親睦団体をつくって句会を催していたが、落葉社の人々も葬儀の費用を分担してくれた。初七日の晩には霊前で書画の合作をし、それぞれが思い思いに詩歌や俳句を書きつけたが、堺が大書きしたのは「不孝児」という三文字である。

母を失った翌年に父も亡くし、さすがに心の底から悔悟と慙愧の念が起こった。ずいぶん回り道をしたが、以後、堺は別人のような人生を送ることになる

1896(明治29)年4月6日、堀美知子と結婚

堺は堀紫山の妹美知子(23)と婚礼を挙げた。「私は、忽然として、生れかはつた様な幸福の人となつた」。しかし、すぐに生活費に困窮し、仕事を探す必要を感じ始める。


1896年5月、『福岡日日新聞』記者となる

豊津時代、堺が崇拝していた征矢野半弥(衆議院議員、『福岡日日新聞』社長)の誘いを受ける。

二人は、橋口町(現・福岡市中央区天神)の橋のたもとにある福岡日日新聞社の社屋の近くの借家に住む。堺はすぐに編集部になじみ、主に小説を執筆し、随筆や雑報記事も書いている。


「何しろ東京新下りの文学者と云ふわけで、『枯川』の名が多少の評判になつてゐた。東京を立つ時、尾崎紅葉君が『これなどはチヨット面白い』と云つて餞別に呉れた英文の小説も、翻案の役に立つた。その頃、私の崇敬してゐた小説家は、新しい紅葉、露伴、一葉の三人であった。(中略)私は耻(はず)かしながら、いつか必ず小説家として売りださうといふ『大望』を持つてゐた。」

『福岡日日』にでは5月に短篇を書き、5月末から翌年春までほぼ連続して「女独身宗」「朝顔籬」「狂胡蝶」「怪談警固村」「短篇十種」「人不知」などの小説を連載している。「朝顔籬」は短編の連作で、1896年7月14日から8月14日まで10篇が20回掲載された。

連作最後の「女の忍耐」の第1回の末尾には「是は伊太利国の昔話、ボツカシオの『デカメロン』とて名高き物の一節なり。一字々々を追ひたる正しき訳にはあらず、筋を摘みて書きつけたるのみ」と書かれている。

これは、『デカメロン』の第十話とストーリーが同じで、登場人物の名前も原作通りだった。堺の「女の忍耐」の1年前の一1895年7月には、紅葉も同じく『デカメロン』を翻案して、「冷熱」「鷹料理」「三箇条」という3つの小篇を書いている。このことから、紅葉が堺に餞別として渡した英文小説の本は、『デカメロン』の英訳版だったと考えてほぼ間違いないだろう。紅葉がその本を贈ったのは、堺に翻案を勧めるためにはかならず、地方では洋書が入手しにくい、という事情も汲んだ上での厚意だったのではないか。

過去の放縦な生活の反動で、堺は克己節制に努めるようになる。禁酒をし、冷水浴を始め、『論語』や『孟子』を愛読する。内村鑑三の著書を初めて読み、強く心を惹かれるようになった。博多には中洲や柳町など風流の地が多かったが、堺はもはや以前のように遊ぶことはなかった。


つづく

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