2024年9月30日月曜日

大杉栄とその時代年表(269) 1899(明治32)年8月15日~31日 森永西洋菓子製造所創業 ドレフュス釈放 別子大水害(土石流により死者513名以上) 漱石、山川信次郎と阿蘇旅行(『二百十日』の素材を得る) 「鉱毒被害民の建議」(「報知新聞」)  

 

マシマロー(森永西洋菓子製造所 明治38年)


大杉栄とその時代年表(268) 1899(明治32)年7月2日~8月12日 子規が回復し久しぶりに子規庵で歌会(「根岸短歌会」の発端) 虚子、転地療養先の修善寺から帰京 ニューヨーク市1899年の新聞少年ストライキ ヘミングウェイ・壺井栄・ヒッチコック生まれる 軍事探偵石光真清陸軍大尉、出発 より続く

1899(明治32)年

8月15日

森永太一郎、赤坂でキャンディー・ケーキの製造を開始。森永西洋菓子製造所創業、森永製菓の始め。

8月17日

神拳、教会襲撃、神拳6名逮捕

8月17日

「大韓帝国国制」(憲法)発布。絶対主義君主支配の国家統治体制。統帥権・立法権・恩赦権・官制制定権・行政命令権・栄典授与権・外交権を皇帝が大権として専有。

清国宗属関係を破棄した後、国際状況に対応する強力な国内体制(専制権力)確立するため)

「光武改革」実施。量田事業、鉱山・土地占有化、電気・電話・電信事業、官立各種学校、模範工場。

8月20日

仏、ドレフュス再審、ブルターニュのレーヌ

8月21日

ゴーギャン(51)、タヒチ、個人新聞『ル・スリール(微笑)』第1号発刊。 

8月23日

子規、虚子宅を訪問。


「明治三十二年八月二十三日、子規の気分は高揚していた。・・・・・

午後になって子規は人力車を呼んで猿楽町の虚子宅を訪ねた。三月以来、ほぼ半年ぶりの外出であった。近所に住む五百木飄亭も呼ばれ、虚子は西洋料理を供した。子規の食欲は衰えない。デザートのアイスクリーム、食後酒のベルモット、めずらしいもの好きの子規は、みなためらいなく平らげた。

庭には玩具の噴水があった。至るところ、幼い真砂子の遊び道具がちらばる虚子の家には貧乏臭さが感じられなかった。むしろ闊達な印象であった。夕方、突然降り出した雨を、一同そろって座敷から眺めた。雨がやんで子規は車に乗った。そして猿楽町から駿河台、さらに湯島、池之端、上野を走って帰宅した。朧月夜に、東京の街並が黒く沈んでいた。

熱は出ない。短時間なら座していられる。この夏は比較的調子がよい。杖にすがればいくらか歩けそうな気がする。八月二十八日、南隣の陸羯南宅を目ざして歩きはじめてみたが、やはり無理だった。途中でどうにもならなくなり、背負われて帰った。」(関川夏央、前掲書)


8月24日

宮中に帝室制度調査局を設置、伊藤博文を総裁に任命。

8月25日

仏、ドレフュス釈放。大統領エミール・ルーペの特赦。名誉回復は1906年

8月27日

東武鉄道の北千住-久喜間開業

8月28日

台風により別子大水害が発生。土石流により513名以上が死亡

別子銅山は、江戸時代から続く国内有数の銅山で、鉱山開発と人口集中、煙害の発生等により、付近の山々は森林が伐採されたり枯死するなどしてはげ山化となり、豪雨による災害の危険性が高まっていた。

鉱山周辺の環境劣化に対して、支配人伊庭貞剛は、森林復元計画を立案。1894年(明治27年)から植林活動を始め、水害の前年である1898年(明治31年)には工業所に山林課(現在の住友林業の源流の一つ)を設置した。

この日。台風が別子銅山を襲い、1時間も満たない間に300mmを超える雨量の集中豪雨が発生した。このため、はげ山から流出する土砂が土石流化して谷間を流下。鉱山施設とともに谷間の社宅を押し流し、山内で513名、新居浜市側で54名とも数えられる死者を出す大災害となった。

山元の精錬施設や居住施設の一部は放棄され、施設の移転が進められていた四阪島への集約が加速した。

一方、はげ山の回復も、銅の復旧と同時並行的に進められた。1901年(明治34年)3月の帝国議会において、当時、足尾銅山の鉱毒問題を追及していた田中正造は、別子銅山が推進する植樹活動を賞賛する演説を行っている。

1904年(明治37年)、伊庭貞剛の後任の鈴木馬左也は、森林計画を立案して鉱山周辺部の造林事業に着手。植物の生育に適さない鉱山周辺の痩せ地にはカラマツやニセアカシア、クロマツを、その周辺部にはスギやヒノキなどの造林木が植樹された。

現在、植林された木々は山々を覆い、はげ山の面影はない。

8月29日

8月29日~9月2日 漱石、一高に転任しようとしている山川信次郎と阿蘇へ旅行。

『二百十日』の素材を得る。


「熊本から内牧まで馬車を利用し、旧登山道路を行くうちに、二人は大薄原で道に迷った。おりしも二百十日で、荒れた阿蘇山は黒い火山灰をまきちらし、二人は雨の中で難渋した。山はにごった黒雲の上にそびえ、「黒い夜を遇い国から持つてくる」ような風が、たえ聞なく吹きおろしていた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)


「漱石は同僚とともに新年は宇佐八幡や耶馬渓、日田地方に遊び、夏には山川と阿蘇山に登り別れを惜しんだ。それに因む多数の句を子規に送ったが、その中に「ニッケルの時計とまりぬ寒き夜半」という一句がある。旅先か自宅かは不明だが、夜中、ふと目覚めて枕元の時計を見ると、愛用のニッケル時計が停まっていた。「寒さ」は肌に感じた季節の寒さだけではあるまい。おそらく彼にとっては時間が停まり、このまま「目的」も果たせずに生きていくのかという不安が、心を襲ったのである。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

「八月二十九日(火)、山川信次郎と共に阿蘇に赴く。戸下温泉(烏帽子岳の西南。阿蘇への入口)に泊る。(推定) 「重ぬべき單衣も持たず肌寒し」「山里や今宵秋立つ水の音」

★八月三十日(水)、戸下温泉を出発し、馬車で立野を経て、内牧温泉(現・阿蘇温泉)養神亭(現・山王閥)に泊る。

★八月三十一日(木)、阿蘇神社に詣でる。「朝寒み白木の宮に詣でけり」と詠む。また、明行事に行き、鍛冶屋を眺める。中岳(一千三百二十三メートル)の頂上近くまで登ったと推定される。養神亭に泊る。

★九月一日(金)、二百十日。内牧温泉を出発する。仙酔峡道路を降りるか、中岳の麓から西に向う狭い道二つのどちらかを通り、立野に着く。立野の馬車宿に泊る。

★九月二日(土)、馬車宿を出発し、馬車で熊本に帰る。(『二百十日』の材料になる)直矩宛手紙に、「最初此事件相生じ候節より中間に御立ち被下候は御覚悟の事と存候そば大兄より始めて口を開いて此事件を喚び起され候故に候」と塞く。龍田庄吉に嫁いだ異母姉ふさ、直矩を通じて経済的援助を仰いで来たのに、高田庄吉からは何も云って来ないので腹を立てる。」(荒正人、前掲書)

8月31日

「鉱毒被害民の建議」(「報知新聞」)

「河身大破壊の復旧は、人命を未来に保護し又田宅を保護するの要旨を含有するものなれば、三十年内閣計画の通り大至急施設実行あらんことを重ねて奉請願候以上」

(既に策定された渡良瀬川改修事業の早急な着工を求めている)


つづく


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