2024年11月14日木曜日

大杉栄とその時代年表(314) 1901(明治34)年1月5日~16日 鉄幹と晶子、粟田口で密会(晶子の転換点) 漱石、「下宿ノ爺」とロビンソン・クルーソーの芝居を見に行く 子規子規「墨汁一滴」(『日本』連載160回)   

 

『子規庵春秋』第12号、2012

大杉栄とその時代年表(313) 1901(明治34)年1月1日~9日 漱石、トテナム・コート街で89巻余の書籍を買う 「二年間精一パイ勉強しても高が知れたものに候書物でも買つて帰朝の上緩々勉強せんと存候處金なくて夫も出來ず少々閉口に候」(漱石の在ベルリンの芳賀矢一への葉書) より続く

1901(明治34)年

1月5日

米公使、対清賠償談判の地を欧州又はワシントンに移すことを提議。

8日、日本、それを拒絶する旨、高平小五郎駐米公使に訓令。

1月6日

鉄幹、神戸に出かける。前もって晶子には粟田口で会いたいとの手紙。神戸で歌会。

7、8日大阪。

9日、粟田口で晶子と密会3月23日「明星」11号に晶子の「おち椿」59首で逢引の詳細を伝える

3日、与謝野晶子(23)、浜寺で河井酔茗、鉄南、雁月らと歌会。3日、鉄幹は鎌倉で新詩社同人の会に出席後、西下。

6日、「関西文学」同人と新詩社神戸支部の発起による神戸大会が神戸山手倶楽部で開催、鉄幹出席。

7~8日、鉄幹は大阪へ行く。

9日、鉄幹は京都へ。晶子、鉄幹と京都粟田山に再遊。再遊を推察させる晶子の歌。

「なつかしの湯の香梅の香山のやどのいたどによりて人まちしやみ」(2月15日付鉄幹宛晶子書簡)

「道を云はず後をおもはず名を間はずここに恋ひ恋ふ君と我れと見る」(「明星」3月号)

「神にそむきふたたびこゝに君と見ぬわかれのわかれさ云へみだれじ」(同)

「鶯に朝さむからぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき」(同)

「君さらば粟田の春のふた夜妻またの世まではわすれ居給へ」(2月2日付鉄幹宛晶子書簡)。

晶子の性情の激変。

「罪おほきをとここらせと肌きよく黒髪ながくつくられしわれ(「明星」明治34年1月号)の歌から、「神にそむきふたたびこゝに君と見ぬわかれのわかれさ云へみだれじ」(同3月号)の歌の変化。

評論集「雑記帳」(大正4年5月、金尾文淵堂)の「私の貞操観」の「自分の処女時代は右の様にして終った。思ひも寄らぬ偶然な事から一人の男と相知るに至って自分の性情は不思議な程激変した。自分は初めて現実的な恋愛の感情が我身を焦すのを覚えた。其男と終に結婚した。自分の齢は二十四であった」という記述に符合する。

1月6日

横浜蚕糸銀行破綻。関東で恐慌起こる。

1月7日

北京外交団、12ヶ条応諾の勅諭ならびに全権委員署名の議定書を、改めて清国政府に要求。

1月7日

ロシア公使イスヴォルスキー、加藤高明外相と会談。列国共同保証の下に韓国の中立化を提案。日本拒否。7月ヴィッテ外相が駐露公使珍田捨己に再提議。日本は応じず。

1月10日

テキサスで油田発見。テキサス州ボーモントのスピンドルトップで石油噴出。

1月10日

~12日 ロンドンの漱石


「一月十日(木)、「獨り野外に散歩す温風面を吹きて春の如し」(「日記」) Demark Hill (デンマーク・ヒル、テムズ河の南方にある)付近は閑静で風雅である。気分がよい。今日と明治三十三年(一九〇〇)十一月二十三日(金)、長尾半平と Hampstead Health 

(ハンブステッド・ヒース)を散歩した時とが、 London (ロンドン)に来てから、最も気分の良い日である。夜、 Kennington Theatre (ケニントン劇場)の最上席で Pantomime (パントマイム)見て、感嘆する。料金も安い。

一月十一日(金)、西洋通を批判する。

一月十二日(土)以前、下宿の主人 Harold Brett と共に、芝居に行く。 ""Robinson Crusoe"" を見る。 Harold Brett から、事実か小説かと聞かれ、驚く。十八世紀の小説であると答えると、そうかと云って急に話題を転じる。

一月十二日(土)、濃霧。「英國人ナレバトテ文學上ノ智識於テ必ズシモ我ヨリ上ナリト思フナカレ、」(「日記」)で始る観察・批評・意見を記し、「(上略)會話ハ自國ノ言語故無論我々鯱立シテモ及バヌナリ然シ所謂 Cockney ハ上品ナ言語ニアラズ且分ラヌナリ倫敦ニ來テ是ガ分レバ結構ナリ倫敦上流ノ言語ハ明晰ニテ上品ナリ Standard ナランカ是ナラ大抵分ルナリ、」(「日記」)長尾半平(この時はホテルに滞在していたらしい)を訪ね共に門野重九郎を訪ねて牛鍋を馳走される。午後十一時頃、下宿に帰る。」(荒正人、前掲書)


1月12日の日記

「濃霧、春夜の朧月の如し。市内皆燭照して事務をとる。」(1901年1月12日「日記」)


1月12日 漱石、「下宿ノ爺」とロビンソン・クルーソーの芝居を見に行く。


「彼が第三の下宿・ブレット家に不快を感じはじめたのは早くも一月、十二日の日記には「下宿ノ爺」とロビンソン・クルーソーの芝居を見に行ったところ、爺さんがこれは実話か小説かと聞き、十八世紀に出来た有名な小説だと答えると、「左様カト云フテ直チニ話頭ヲ転ジ」てしまったと記されている。狩野らへの手紙には「亭主もいゝ奴だが頗る無学で書物抔は読んだ事もあるまい」として、ロビンソンの件が繰り返されている。しかしこの爺さんは好人物で、まもなくヴィクトリア女王の葬儀がハイド・パークであったとき、大群衆の中で彼を肩車して見せてくれた。不愉快なのは女学校の先生だった妻の方で、文学のことは知らないくせに、「生意気ニテ何デモ知ツ〔タカ〕振ラスル」し、「クダラヌ字ヲ会話中ニ挟ミテ此字ヲ知ツテ居ルカ」と問いかけたりする。「倫敦消息」によると tunnel や straw 程度の字である。「怒る張合もない」と漱石は書いている。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


1月12日

天津にロシア租界設置。

1月12日

木村伊兵衛、誕生。

1月14日

閣議、日露漁業条約案決定。4月7日、珍田捨己駐露公使が露に提出するが露が応じず中止。

1月16日

清国全権、正式署名の議定書及び上諭を列国代表に送付。

1月16日

インド、社会改革者・判事M.G.ラーナデー、没(1842年1月18日~)。

1月16日

フィリピン、マビニら降伏拒否者、グアムに流刑。

1月16日

子規「墨汁一滴」(『日本』~7月2日)。休載は4回のみ全160回。

執筆動機について・・・・・

「年頃苦みつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強くなりて今ははや筆取りて物書く能はざる程になりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。斯くては生けるかひもなし。はた如何にして病の牀のつれづれを慰めてんや。思ひ思ひし居る程にふと考へ得たるところありて終に墨汁一滴といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかゞひて其時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されど斯(かか)るわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見(まみ)えんとにはあらず、朝々病の床にありて新聞紙を披(ひら)きし時我書ける小文章に対して聊か自ら慰むのみ。(一月二十四日)」(「墨汁一滴」1月24日)


「 病める枕辺まくらべに巻紙状袋(じょうぶくろ)など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾(わかざり)をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶(しだ)の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙(だいだい)を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据すゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨(そこつ)の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林(きつりん)黒竜江(こくりゅうこう)などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何いかに変りてあらんか、そは二十世紀初はじめの地球儀の知る所に非(あら)ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱(ほうらい)なり。

枕べの寒さ計(ばか)りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも

(一月十六日)」(子規「墨汁一滴」)


つづく



0 件のコメント: