1907(明治40)年
9月14日
(漱石)
「九月十四日 (土)、高浜虚子宛葉書に、「寶生新君件委細難有候。早速始めたいが轉宅前はちと困ります。」と伝える。
(*寶生新)神田区駿河台北甲賀町十番地(現・千代田区神田駿河台四丁目)に住む。室生流脇師の家で、宝生家は徳川難府の御能方を勤める。
この前後に、河東碧梧桐・高浜虚子・宝生新と星岡茶寮で晩餐を共にし、宝生新に謡を教えて欲しいと頼む。その時宝生新は『熊野』か『蝉丸』を謡い、また高浜虚子の懇望あり、河東碧梧桐・高浜虚子は地をやり、『鷺』の仕舞をする。高浜虚子は、時時絶句したが、宝生新は謡い且つ舞う。」(荒正人、前掲書)
9月16日
神戸築港の起工式
9月17日
台湾守備隊司令部設置。
9月17日
東京音楽学校、邦楽調査掛設置。古邦楽の採譜、年表編集。
9月17日
東野英治郎、生まれる
9月18日
韓国、英人べセル、日本人の義兵弾圧は「文明の方式によらず、残忍野蛮の挙措」と暴露・非難(「大韓毎日申報」)。日本の抗議により、英領事、略式裁判で禁固3週間・保釈金2千$の処分。。
9月18日
陸軍管区表改正公布。13個師団から19個師団に増師。
9月19日
英仏協商カナダ貿易調整。
9月20日
清朝、資政院設置の詔、下る。
9月20日
(漱石)
「九月二十日 (金)、夜、鏡、鈴木三重吉とオペラを見に行く。(推定)
九月二十三日 (月)、狩野亨吉宛手紙に、今月中に転宅しなければならぬので、貸家を探しているが、適当なものが見当らぬので、北町(牛込区北町三十六番地) の持家を臨時に貸して貰えぬか、家賃は三十円出すと書く。
九月二十四日(火)、秋分の日。秋季皇霊祭。午前から昼にかけて、多摩川で行われた東京朝日新聞社の運動会に出席する。午後二時頃、千駄が谷停車場で森田草平と落合い、貸家を見に行く。
九月二十五日 (水) から二十八日 (土) の間(推定)、鏡、牛込区早稲田南町七番地(現・新宿区早稲田南町七番地) の貸家の差配人中山正之祐(牛込区早稲田両町八番地)に会い、漱石の名刺を出すと、家賃四十円を三十五円に負けてくれる。予算は三十円であったが、移転を予定する。
九月二十七日(金)、狩野亨吉が来て、借家のことを話合う。翌日、二十九日に移転することを葉書で伝える。」(荒正人、前掲書)
9月20日
啄木(21)。小国露堂より、近く小樽に創刊の「小樽日報」に転出の件薦められる。啄木が入社したのは第三次「北門新報」で、社長は村上玉砕(祐)、主筆上野隻履(貫一)で、社屋は大通西四丁目にあった。
23日、小樽日報社へ赴任の件きまる。
9月20日
仏軍、講和会談が頓挫した後、モロッコのカサブランカ反乱軍と戦闘再開。
9月21日
ドイツ領南西アフリカの反乱鎮圧。
9月22日
「大阪平民新聞」の森近運平、新宮の大石誠之助を訪問。
23日、末広座で講演会。大石・成石・森近。300人。
9月26日
専売局官制公布
9月26日
平磯海岸で療養中の独歩から斎藤弔花あてた手紙
「此のカラダでは当分廃人です。死ねば瓦礫です。/手取早くどちらともかたをつけて貰ひたいやうに思ひますが綱島君が十年病床に在りしを思へばノンキな気特になります。/手紙を下さーい。我が霊は情にウヱて居ます。」
9月26日
ニュージーランド、英植民地から英帝国自治領となる。
9月27日
啄木(21)、北門新報社を辞して小樽に向かう。中央小樽駅長官舎に姉夫妻を訪ね、家族としばらく滞在する。翌日より出社する。
9月28日
南京領事館開館。
9月28日
米国陸軍長官タフト、来朝。移民問題につき林菫外相と会談。
9月29日
漱石(40)、本郷の西片町より早稲田南町7へ転居。敷地340坪、平屋60坪。家賃35円。胃病に苦しむ。
(以下は読み易さのため適宜段落を施す。
「西片町の家主が、最初は二十七円、まもなく三十円にし、十か月も経たぬうちに十月から三十五円に値上げするというので憤慨していた。漱石は印を誂えるのが好きで、印ができると部屋中捺す。また、家賃値上げを怒り、立ち退く時、損害賠償をすれば何をやってもよいというので、八畳の客間で小用を足したという。(難波秀吉(鉄道省電化課長)談)
早稲田両町の家は、どういう手順で見付けたかよく分らぬが、生れた場所とは、三、四百メートルの一筋道でつながっている。昔を懐かしく思う感冊が湧く。室数は七間。面積は三百四十坪。中央にハ十坪の平屋建て。家賃三十五円。和洋折衷の建築である。
漱石が十六、七歳の頃、沈雲眠假草堂(山堂)主人として、漢詩を交換していた奥田必堂のアメリカ滞在中の友人三浦篤次郎という人物が、明治三十五年頃建てた家屋である。(松岡譲)その後、銀行の支店長が住み、当時は阿部龍夫という医者の所有でめる。阿部龍夫は、第一高等学校時代から松岡譲とも顔見知りで、歌人でもある。
漱石没後、夏目家に二万円で護る。廊下の三方にベランダをめぐらす。初めは浴室もなかったが、後に瑚築する。(鏡)庭には苔が生えている。
漱石は晩年この家を余り気に入らなくなる。隣りに「貧民長屋」があったからである。通りを隔てて、正面に中山正之祐医院・風呂屋・車屋(六さん)など並ぶ。正面に向って左手は、どぶ川を渡り、通りに出る。左手には、車屋や長屋がめり、墓地に続く裏側に、宗参寺(牛込区弁天町一番地)があり、大きい榎が立っている。長屋では、夫婦喧嘩が繰り返され、垣根を作ると、それが抜かれて、焚き付けになる。垣根から一段低い台所を見下ろして何のかのと批評する。環擬がよくない。そんなわけで、鏡がこの借家を貿おうかと云うと、漱石は反対する。しかし、自分の子供たちに世の中にはこういうあさましい場所もあるということを知らせるにはよいと云うこともある。漱石が嫌になり何処かへ引っ越そうと云いだす時には、鏡のほうで引っ越し荷物のことを考え、同意しない。お互いに幾度か繰り返し切り出すが、そのまゝ延ばされる。(鏡)辰野隆も、父親の辰野金吾に設計させるからいつでも云って欲しいと勧める。
引っ越しは、鈴木三重吉・小官豊隆・野間真綱・皆川正禧ら手伝う。引っ越しをする前にこれまでの例にならい受け取った手紙を大部分焼いてしまう。
一段落して野上豊一郎も混えて二、三人で喜久井町の銭湯に行く。倶梨伽羅紋々の男が立ったまま水を被ったおり、漱石の頭にかかる。漱石は、怒鳴りつけて湯桶をつかんで立ち上る。(野上豊一郎) また、鏡は漱石がこの家で生涯を終ったのは、丑の年の丑の日に引っ越したからだと思い込む。(但し、この日は辛巳である)
漱石没後、客間 (十畳) と書斎 (十畳の板の間) を兼ねた二間続きの居間は、母屋から独立して保存されていたが、空襲で焼かれ、後に売り払われる。現在、都営アパートが建てられ、アパートの横に木棚で囲まれた八坪程の 「猫の墓」 があり、植込みも深く、四つ脚の台石の上に九層十二個の自然石を重ねた供養塔が建っている。「史蹟漱石山房跡(猫の墓)」と標識建つ。その横に、「明治文壇の巨匠、夏目漱石が明治四十年来本郷西片町から移って大正五年十二月九日死去するまで居住した処である。机は.板の間から畳の間のほうに向い据えられている。ここで『坑夫』『三四郎』『それから』等の名作が書かれた。「猫の墓」はi小説『吾輩は猫である』の主人公になった三毛猫の墓である。昭和三十二年三月新宿区役所」 と記されている。(実際は平凡な黒猫であった) また、この家では植木を入れるために、植辰という植木屋に頼む。植辰は伸六の物心のつく頃には、毎日、朝八時頃から夕方五時頃まで、何をするということもなく通って来ていた。漱石は、この男を嫌っていたが、それを知っていながら鏡が使っていることに一層腹を立てていた。(夏目伸六『父と母のいる風景』)」(荒正人、前掲書)
9月30日
初代野村徳七(57)、没。
9月30日
チリに公使館開設

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