1907(明治40)年
9月7日
バンクーバー、アジア人排斥デモ、中国人街・日本人街襲撃。
翌1908年1月2日、再開。
9月8日
孫文、民族主義政党国民党を結成。
9月8日
片山潜「社会主義鄙見」(「社会新聞」第15、16号)。
議会政策反対派は無政府主義者であり、社会主義者ではない。今後、これらとは議論しない、と言い切る。
9月8日
旭硝子株式会社設立(本社、兵庫県尼崎)。資本金100万円。社長岩崎俊弥。1909年10月開業。
9月8日
十勝線狩勝トンネル完成。これにより、落合~帯広間開通、旭川~釧路間全通。
9月8日
ローマ教皇ピウス10世、カトリック近代主義を非難。
9月9日
清国、第2次憲政調査団を英日独に派遣。
9月10日
樺太の日露境界割定発表される
9月10日
東京・北海道間の電話開通す
9月10日
(漱石)
「九月十日(火)、大谷正信(繻石)(本郷区駒込曙町十一番地、現.文京区本駒込一丁目)を訪ね、貸家案内して貰う。また、真宗大学(北豊島郡巣鴨村、現・豊島区巣鴫)で英語教師を求めているとのことで、家に帰ってから、戸川明三 (秋骨)・多須川良(明治三十一年率)・野間真綱(明治三十六年率)を候補として、大谷正信に知らせる。」(荒正人、前掲書)
9月11日
電機学校(東京電機大学の前身)創立。
9月11日
啄木(21)、大竹校長に辞表を提出
9月12日
在浦潮帝国貿易事務館閉鎖、領事館を設置。
9月12日
大阪の友禅染職工2,000人、賃上げ要求し同盟罷業。
9月12日
軍令第1号公示。
9月12日
札幌農科大学開校式挙行
9月13日
啄木(21)、函館を去って札幌に向かう。向井永太郎の斡旋で北門新報記者小国露堂(善平)の厚意により、同社校正係に就職のため。この日友人吉野自村の次男誕生、啄木は名付親となり浩介と命名する。
14日 小樽に途中下車し姉夫妻の家に立ち寄る。午後1時札幌に到着。向井と松岡露堂に迎えられてその下宿先である札幌区北七条西四丁目四番地の未亡人田中サト方に赴く。以後この家に下宿する。この家に18歳の娘ヒサと12歳の娘ヒデが居た。
16日 北門新報社に出社、入社早々「北門歌壇」を起こし、感想「秋風記」を掲載する。発行部数約6千部、6貢建の日刊新聞であった。"
9月14日
綱島梁川(35)、没。
綱島梁川の死は、近年の彼の思想的影響が大きかったので、知識階級人一般にとっての衝撃だった。
前年頃から梁川の病が重いことは伝えられていたが、彼は明治31年から絶えずその重症を伝えられ、しかも臥床したままで次々と仕事を続けていたので、どの程度の病気なのか、その真相は分らなかった。
徳富蘆花は、この年4月16日に一度だけ梁川を訪ねた。蘆花は5歳年下の梁川を尊敬していた。あのような人物は、有像の実在界から無象の精霊界へ往復しているようなものだから、いわば過去、現在、未来を賞いて常住しているようなもので、死も単に此処にある生から、彼岸にある生への移行だと考えてもいいわげだ。
本郷教会の牧師で、蘆花や兄の蘇峰の友人で、彼の従姉の夫でもある海老名弾正が編輯している宗教雑誌「新人」に梁川はしばしば文章を発表した。梁川は24歳の頃、神戸で療養中に神戸教会の牧師をしていた海老名を知った。
蘆花は、「予が見神の実験」をその雑誌で読んでいたし、「病間録」に収められた他の文章も愛読していた。
4月、木下尚江が彼の新居を訪れて、そのとき梁川の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体で恐れ入った元気だ」と言った。
4月16日午後、蘆花は牛込区大久保余丁町十七番地の綱島家を訪れた。
梁川は終生独身であったが、明治30年に郷里岡山県から母、弟、妹を呼び寄せて、牛込の原町に一家を構えた。一族ともに生活し、母の看病を受けて仕事をするというのか、彼の最大の願いであった。余丁町へはその翌年に引越した。彼の病気は全身にわたっていて、32、33年頃から結核は胸ばかりでなく腸と咽喉を畠していた。そういう身体で7年も8年も生き、絶えず読み、考え、述作するというのは人間業でないと見られていた。
案内された部屋は6畳ほどの室で、押入れの下半分を硝子戸の本棚にして、そこには金文字の書物がぎっしり詰まっていた。その本棚を背にして、蒲団の上に坐っている色の浅黒い男が、丁寧に頭を下げ、吸い込むようなかすれた声で初対面の挨拶をし、自分が梁川だと言った。その様子にはつゝましさがあったが、その黒い目が澄んでじっと動かぬさまは、その人の意志の強い性格を示していた。声はかすれて聞き取りにくく、その人に話をさせるのも気の毒こ思われたが、蘆花はいつのまにか打ち解けた話を交わしていた。
途中で、梁川の弟子で勤労的宗教生活団体を創立していた西田天香(てんこう)の訪問があり、三人の間で話がいろいろな方面に展開した。
その後も蘆花と梁川との間には文通があり、4月に出たばかりの梁川の「国光録」を贈られたりした。「国光録」は梁川の最晩年の思想を述べたもので、神秘主義的な信仰の告白だった。
そして、明治40年6月頃、梁川の思想、信仰に傾倒する人々によって梁川会が作られ、東京、秋田、京都、樺浜、神戸等に組織が出来た。8月、梁川は「我とは何ぞや」を発表した。その中で彼は法然・親鸞の他力本願の浄土宗系の思想に共鳴し、キリスト教と仏教との融和を認めるようになった。しかし、その稿は完成されなかった。
梅雨の頃から彼の病勢はつのっていたが、9月13日危機が迫って来た。彼は病苦の中で、母や弟夫妻に向い、
「心配し給うな。治って見せます。大丈夫だ、まだ死なれないから」と言った。
だが14日朝、危篤に陥り、夜半になって息絶えた。、
9月17日、梁川の葬儀の日。雨であったが、蘆花は粕谷村から4里ほどある新宿まで歩き、そこから電車で本郷に行った。海老名弾正の司会で葬儀が営まれた。教会は会葬者でー杯だった。やがて棺が余丁町から昇ぎ込まれた。海老名弾正は説教で、「美人の裸体はよい。然しこれに彩衣を諾せるとなお美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章で述べた人である」と言った。
棺は雑司ケ谷の墓地まで運ばれ、蘆花も棺の後について歩いた。葬式のあと、彼はいつの間にか俥に乗せられて、余丁町の綱島家へ行った。
そこには故人と親しかった人々が集っていた。西田天香、中桐確太郎、水谷不倒など蘆花の見知っている人もいた。面識のない人々の中には、明治36年第一高等学校在学中から梁川に私淑していた数え24歳の東大哲学科の学生安倍能成もいた。晩餐が出された。そのあと蘆花は新橋まで電車で行き、4里の泥道を歩いた。粕谷村の家へ着いたのは1時を過ぎていた。
その後しばらくして、梁川の遺文を集めた「寸光銀」が贈られて来た。その中で梁川はしばしば蘆花に言及し、蘆花のことをよく言ってあった。
つづく

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