東京 和田倉噴水公園辺り 2012-11-10
*長和2年(1013)
4月
・この頃の賀茂祭の行列は華麗を増す傾向があり、しばしば華美を戒める命令が出された。
この年4月19日、実資のもとに蔵人頭が来て、祭使の従者の人数の制限、衣服の華美の制限の2項目を下令せよとの勅を伝えた。
蔵人頭に聞くと、人数制限は道長が奏上し、衣服の制限は天皇自身の考えであるという。
実資は早速その手続きをとった。
しかし、実際の祭になってみると、禁令など無視した華美なものだった。
人数制限、美服禁止は、全く守られないばかりか、例年にも増して華麗を極めた。
しかも、実資を憚って、実資が見ているところでは車に隠れたり、別の道を通ったりして、実資の前を過ぎると大手を振って行列に加わり、意気揚々と練り歩くという憎いやりかたをした。
実資は憤慨して、道長は華美の禁止を奏上しておきながら、陰では禁令を無視せよと人々に命じたのだと日記に書いている。
少なくとも道長に華美禁止の熱意がなかったことは、彼の日頃の言行から見て疑いなく、人々は敏感にその意向をキャッチして平然と行列に加わったのであろう。
華美の者を取り締まれとの命令があったにもかかわらず、この日、検非違使は一切活動しなかった。
祭のあと4日して、天皇は道長に対し、祭使や検非違使の違反を実資に糾問させるようにとの命を下し、その命令は実資のもとに伝えられた。
実資は違反者から始末書を取って道長を経て奏上したが、その始末書も間もなく返却されて事は収まった。
道長も正面から天皇に楯突く訳ではなく、陰で嫌がらせをしている。
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5月25日
・この日付け藤原実資の日記『小右記』に紫式部の名が見える。
「資平をして去夜密々(みつみつ)皇太后宮に参らしめ、東宮(敦成親王)御悩の間、仮(け)によりて不参の由を啓せしむ。今朝帰り来たりて云はく、去夕、女房に相達ふ(越後守為時の女。此の女を以て前々雑事を啓せしむるのみ)。彼の女云はく、東宮の御悩重きに非ずと雖も、猶未だ尋常に御さざる内、熱気未だ散じ給はず。亦左府(道長)聊か患ひの気あり、てへり」(『小右記』長和2年5月25日条)。
「昨夜、資平(実資の養子、実は甥)を皇太后宮に内密で遣わして、東宮の病気ではあるが、引きこもり中なので、お見舞には参上致しかねる、との断りを申し上げさせた。けさ資平が帰って来ての話では、昨夜皇太后の女房に逢ってそのおもむきを伝えたが、彼女の話では、東宮の病気はたいしたことはないが、まだ多少熟がある、また、左大臣(道長)も少し加減が悪いようです、ということであった」
東宮敦成親王の病気見舞いの話であるが、実資は越後守為時の娘である女房(紫式部)を通じて、常々皇太后彰子に雑事を申し上げているとみえる。
長和元年から2年、実資はたびたび皇太后彰子が住む枇杷殿を訪れているが、紫式部が取り次ぎ女房であったことがわかる。
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6月
・この月、道長の子頼通が権大納言に、教通が権中納言に昇進したとき、2人は道長の言いつけ伯父道綱のところに挨拶に出かけたが、道綱はこの頃、源頼光の婿になって頼光の一条の家に住んでいる。
2人は頼光の家などに挨拶に行くのは嫌だから、道綱の本邸の大炊御門邸に行って、上がらずに挨拶だけして帰った、という。
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7月6日
「戌剋の頃、中宮(藤原妍子)の御方(土御門第)から女方(源倫子)が来て云ったことには、「中宮が産気付かれました」ということだ。驚いて参入した。・・・子剋に、平安かに女皇子(禎子内親王)を降誕された。」(『御堂関白記』長和2年(1013)7月6日条)
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7月7日
「暁方、人々が云(い)ったことには、「中宮(藤原妍子)の産気は、平安に遂げられました」と云うことだ。そこで(藤原)資平を参らせた。・・・」
「・・・しばらくして、(藤原)資平が帰って来て云(い)ったことには、「相府(藤原道長)は、すでに卿相や中宮(藤原妍子)の殿人と会っておられません。悦ばない様子が、甚(はなは)だ露(あら)わでした」と。」
(『小右記』長和2年(1013)7月7日条)
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8月
・この月、相撲節(すまいのせち)が行なわれ、天皇の前で左右に分かれて数番の取組みがあった。
数日後、天皇は実資の兄懐平に、
「相撲の日、伊勢皇大神宮に祈念して、もし皇位が安泰ならば一、二、三番とも左が勝ちますようにと祈ったが、幸いにそのとおり左が勝った」
と密かに漏らしたという。
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8月
・この月、道長、前年の病気をうけて五壇法を修した。
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9月
・入宋の天台僧寂照の弟子念救が帰国。
道長に『白氏文集』の版本と天台山図が贈られる。
また天台山国清寺から日本延暦寺へ、天台大師智顗(ちぎ)の像、彼が使用した袈裟と如意、茶垸(ちやわん)、壷などが贈られる。
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8月
・この月、相撲節(すまいのせち)が行なわれ、天皇の前で左右に分かれて数番の取組みがあった。
数日後、天皇は実資の兄懐平に、
「相撲の日、伊勢皇大神宮に祈念して、もし皇位が安泰ならば一、二、三番とも左が勝ちますようにと祈ったが、幸いにそのとおり左が勝った」
と密かに漏らしたという。
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8月
・この月、道長、前年の病気をうけて五壇法を修した。
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9月
・入宋の天台僧寂照の弟子念救が帰国。
道長に『白氏文集』の版本と天台山図が贈られる。
また天台山国清寺から日本延暦寺へ、天台大師智顗(ちぎ)の像、彼が使用した袈裟と如意、茶垸(ちやわん)、壷などが贈られる。
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9月8日
「夜に入って、権中納言<(藤原)隆家>が来て、談(かた)って云(い)ったことには、「病悩している目は、10分の7、8に減じました」ということだ。」(『小右記』長和2年(1013)9月8日条)
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12月10日
「帥宮(そちのみや/敦康親王)の許に、故中務卿宮(具平親王)の女子が嫁してきた。・・・「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に、故中務卿宮の女子が参入した」ということだ。枇杷殿の西対の北面を、婚儀の場とした。」(『御堂関白記』長和2年(1013)12月10日条)
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【エピソード】藤原実資が皇后である彰子の御殿へ行くと、いつも同じ女房が取次ぐ。 長和2年5月25日には、日記『小右記』に「今朝帰り来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う」 と、この女房を「越後守為時の娘」と説明、紫式部だ。筆まめな実資により存在を確認出来た。#光る君へ #大河ドラマ pic.twitter.com/Dvybhb5jCO
— “fumi_fumi” (@3710fumio) May 14, 2024
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