2013年11月11日月曜日

元亀3年(1572)9月~10月 信長、近江金ヶ森(守山市)の楽市・楽座令(3ヶ条)。 武田信玄・勝頼2万7千、甲府を出発、西上。 一言坂の戦い(家康敗走)。  [信長39歳]

江戸城(皇居)東御苑 2013-11-06
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元亀3年(1572)
9月
・信長、近江金ヶ森(守山市)の楽市・楽座令(3ヶ条)。
諸取引税の免除、国質・郷質などの抵当権執行を禁止(古い年貢滞納分や借米・銭の免除)、中山道往還物資を金森に入れる(軍事的検問)。
道西房善従が金森道場(善立寺)を開いて以来の門徒衆の拠点。
六角承禎に与し本願寺指令で信長に反抗(江南一揆の拠点)するが、流通拠点であり市場の経済力を評価して殲滅の対象にはならず。楽市・楽座令により、この地を織田権力の新たな経済流通体系の一環に組み込み一揆基盤を解体させる政策。
この年春、「金ヶ森・三宅へ出入り・内通」しない誓約書を湖岸一帯の村々に出させる。
7月、佐久間信盛らが攻撃、金ヶ森城落城。
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・三好氏、伊予・高峠城主石川通清と通じ伊予に侵入、妻取光家の川之江城を狙う。
河野通直は援軍として黒川通博、壬生川通国を先陣にして平岡通寄・通長、南通師、松末通仲・通為、土居通建・通利、井門通知・義安等を派遣、鷺森城に集結。
三好勢先陣は川之江城を攻撃、苦戦。
河野勢先陣は石川氏の高尾城を攻略。
河野勢の土居通利、戒能通森等は次に石川氏の高峠城を攻めるが、雌雄を決せず。
三好勢が西条まで兵を進めたため、通直は自ら西条に向う。
加茂川で両軍は激突、通直は三好勢を撃退。高峠城の石川通清も降伏。

一方、山岡対馬守等率いる織田勢・三好勢は堀江に上陸、村上吉高が守る葛籠葛城を攻略。
別の一隊、平手某等は三津浜に上陸、姫原に進出するが、土居清良、大野直昌の活躍により堀江に退く。
後、三津浜で攻防戦、展開、河野勢が勝利。
しかし、敗軍は霧に紛れて恵良城を攻め、占領。
土居清良、大野直昌等は苦戦しながらも三好・織田勢を追い払う。
三好勢増援が北条に上陸するが、引き上げる。
(「予陽河野家譜」、疑わしい
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・ルイ(オラニエ公ウィレム1世弟)、籠城中のモンス開城。
聖バルテルミーの虐殺でフランスの援助が期待できず。
アルバ公、北部の状況が急を告げているため最良の撤退条件をルイに提示。
ルイ軍、武器を持ったまま引き上げ。
スペイン軍、モンス占領、暴行掠奪、モンスは廃墟に。
アルバ公のスペイン軍、モンス開城後、北上、ブラバント・フランドル諸都市が次々に降伏。
スペイン軍、降伏した都市を暴行掠奪、抵抗した都市は皆殺し。

ナールデンの暴行掠奪(スペイン軍の約束は偽りで徹底抗戦以外の道はないと、抗戦派が主張する根拠となる)。
<経緯>
最初、ナールデンが、国王とオラニエ公ウィレム1世の為に城を守ると回答。
援軍が来ないのでスペイン軍に和平を求める。「市の鍵」を渡せば、住民の財産と生命は保全するとの条件で開城。
市民、スペイン兵を迎え入れ大宴会。
食事後、市民がタウン・ホールに集合させられ、カトリック僧が「死の覚悟」するようにと言い渡し、直後、スペイン兵が乱入、全員虐殺、建物放火。
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9月3日
・信長、宮部城増築、八相山増強。(誓願寺文書)
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9月10日
・顕如、武田信玄の宛てて書簡文案。
「信長と当寺の和平の儀について武家(将軍)御使者下し置かされ、信玄入魂あるべき趣、仰せ出され由候。信長に対し遺恨深重に候。然りといえども貴辺の儀、贔屓偏頗の御調略あるべからず候の条、これに従い、旨趣は使者を以って申し展ぶべく候。委細(下間上野)頼充法眼に申さすべく候間、詳しくあたわず候。穴賢。
九月十日
法性院(信玄)殿。
(末尾に)この御礼は信玄よりの大かた案文到来候畢。
内証の子細有り、この分也」(「顕如上人文案」)。

この返状は信玄が指示した文案の通りのものであることが記されて、しかも、内証の子細があるとされている。
あくまでも信玄と義昭の顔を立てたもので、本願寺が本心から和平を願ったものではないことがわかる。

本願寺と武田信玄の同盟を嫌った信長は、逆にこれを利用して、信玄を通じて本願寺に信長との講和を図るよう働きかけた。
信長は、将軍の威光を利用して、信玄にこれを命じる形式をとった。
将軍義昭は、大和淡路守と竹田梅咲軒を使者として信玄のもとに送って、本願寺に信長と講和を結ぶことを勧めるように諭した。
一方で、顕如にも信長との講和を勧め、信玄が仲介する旨を告げた。
信玄は、将軍義昭の命を受けて本願寺に使者を送って、信長との和平を勧めた。しかも、信玄に返す返状の内容にまで指示していた。

このときの将軍義昭と信玄の斡旋が和平に結びついたか否かは不明。
信長から本願寺に送った「十一月十八日」付の書状に、天下の名茶器「白天目」を拝受したとあり、この年(元亀3年)11月頃に和平が成ったとする説がある(『顕如上人伝』)。

しかし、井上鋭夫氏は「白天目」が本願寺から信長に贈られたのは、翌年(天正元年)ではないかと、当時の情勢と越前大町の専修寺賢会の「賢会書状」から指摘している(『一向一揆の研究』)。
仲介当事者の将軍義昭が、この直後に信長から「異見十七ヶ条」を突きつけられて、将軍の権威を剥奪されている。
信玄もこの直後の10月に甲斐の府中を出立して、駿河を経て三河・尾張へ西上する動きをみせていることから、おそらく交渉は途中で放棄されたと考えられる。
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9月10日
・村井貞勝と島田秀満から吉田社へ人足の催促があった。
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9月14日
・細川藤孝・三淵藤英、近江北郡より上洛。
15日、明智光秀、上洛。
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9月16日
・信長・信忠父子、虎御前山守備を木下藤吉郎に命じ、横山城より岐阜に戻る。
武田信玄西上対応を家康と打合せ。
「信長公記」では、この記述個所より秀吉に羽柴姓をつける。
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9月17日
・飛騨の上杉勢中心江馬輝盛、武田方木曽義昌部将山村左衛門良利父子に屈し、越中に逃亡。
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9月18日
・上杉謙信、武田信玄が春日山城大手口に侵攻するとの報に、春日山城の警備を厳命。
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9月19日
・信長、山城天龍寺塔頭の妙智院へ、院領山城西院安弘名を直務させる旨命令。
詳細は武井夕庵が伝達(「妙智院文書」乾)。

秀吉、天竜寺妙智院領の西院(右京区西院)安弘名(やすひろみょう)の百姓に「妙智院への直納、年貢・諸公事物の指出帳面(土地台帳)を作成し妙智院への提出、隠田や上田を薄地とするごまかしは厳しく処罰する」と命令。
翌天正元年には「帳面にまかせて」(帳簿通り)年貢を納めるよう命令。
織田政権が、荘園領主に代って土地台帳の作成・提出を農民に直接命じ監視する。
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9月22日
・「信玄近日御出馬あるべく、注進せしめ候」(「誓願寺文書」)。
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9月24日
・ペルー副王(総督)フランシコ・ド・トレド、新インカ帝国征服を企ててビルカバンバへ攻め入り、マンコの子で新インカ帝国皇帝トパク・アマル1世を捕えクスコで処刑。
これにより40年続いたインカ帝国の抵抗は終わり、インカ帝国は滅亡。
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9月26日
・信長、上杉謙信へ、小谷城に籠城する朝倉義景を必ず討取ると意志表示(米沢市立図書館所蔵「新集古案」)。
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9月26日
・島津義久、伊地知重興・肝付兼続・禰寝重長3人を隅州の凶徒として攻撃決定。
この日、島津歳久を大将に禰寝氏領小浜古塁を攻め落とす。
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9月26日
・武田信玄、美濃郡上の遠藤胤勝に信濃100貫文の地を与え、織田陣営から武田方へ誘う。
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9月26日
・フランス、ナヴァール王(アンリ・ド・ベルアン、アンリ4世)、強制的に旧教に改宗。76/2/3の脱出まで監視下におかれる。
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9月28日
・信長、足利義昭へ全17ヶ条の異見「条々」を提出(「尋憲記」元亀4年2月22日条)。
失政を諌める。信長は義昭との決別を決意。
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9月29日
・武田信玄、山県昌景に5千預け、北条援軍合せ3万数千で信濃伊那より三河に向かう
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10月
・富山城の一揆勢は依然強力。
9月、謙信は一旦兵を退き、抵抗を続ける椎名康胤の篭る松倉城を攻め、10月頃、松倉城を落とす(康胤は落ち延びて富山城の一揆勢に加わる)。
松倉落城により抑えに割かれていた魚津城の兵を加えた上杉勢は勢いを盛り返し、尻垂坂の戦いで神保・一揆勢を破る。
一揆勢も織田勢に対するため徐々に兵を引き抜かれ、富山城の一揆勢は3、4千にまで減少。
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・備前をめぐって争う浦上・宇喜多・毛利3氏、和睦。
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10月1日
・信玄、十月朔日付で浅井長政・久政と朝倉義景に書状。
出兵を連絡し、浅井・朝倉両氏が協力して信長方にあたることを申し入れ(「南行雑録」)。
同日、越中の勝興寺に対し上杉氏への備えを依頼。
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10月1日
・加賀・越中の一向宗徒、蜂起して越中を攪乱、上杉謙信が富山城を落としこれに対抗。
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10月3日
・武田信玄・勝頼2万7千、甲府を出発。
西上の兵発す。
本願寺・松永久秀・朝倉・浅井とも連絡を取合い、将軍義昭を奉じる手筈。
10日、信濃から青崩峠越え遠江侵入。かねてより内通の犬居城天野景貫の案内で遠江中央に進む。
家康方遠江飯田城陥落。
山県昌景、三河侵攻、家康の支城二俣城を攻める。秋山信友、東美濃へ。
12日、家康方遠江只来(たたら)城を落とす。
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10月7日
・信長、山城妙心寺へ壬生西五条の田および塔頭領を安堵(「妙心寺文書」)。
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10月13日
・家康3千、浜松城出て東海道見附(磐田原台地南端)に進出。
内藤信成包囲されるのを本多平八郎(25)救援。
家康窮地逃れる。
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10月14日
・武田信玄、遠江合代島に布陣、家康方二俣城(中根正照、500、天竜市二俣町)を囲む。
19日、二俣城攻撃。山県昌景別働隊5千、浜松北方井出城落とし家康の二俣への援軍派遣遮断。先手山家三方衆(作手奥平貞勝・田峯菅沼定忠・長篠菅沼正貞)。
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10月18日
・越中の椎名康胤が降伏を申し出るが、謙信、許さず帰国。
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10月20日
・吉田宗桂(61)、病歿。京の医者、2度明に渡り皇帝世宗に薬を献上。
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10月22日
・一言坂の戦い。
徳川家康(31)、侵入した武田軍3万2千余を一言坂に迎え撃つ、包囲されて敗走。
本多平八郎忠勝、対馬場信春隊に於いて殿軍。
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10月22日
・信長、家康へ、三方ヶ原決戦を前に作戦を申し含めた簗田広正を派遣した旨を通知(「田島文書」)。
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10月25日
・村井貞勝と島田秀満から吉田社へ藁を提供するよう依頼がくる(『兼見卿記』)。
この時期になっても、信長邸宅はまだ完成していない。
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