2014年1月16日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(58) 「三十二 「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」」 (その2) 「雨でどぶがあふれる。そこにどじょうが泳いでいる。こういう風景は「隅田川を越えた濹東」ならではのものである。」

江戸城(皇居)東御苑 2014-01-16
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キヨシは「ぬけられます」の路地を遊び場所にしている。
路地の娼家からは女たちの「ちょっと」「ちょっと」「おあがりになってン」の声が聞えてくる。
娼家には女の顔だけが見える小さな窓がある。
「濹東綺譚」の挿絵を描いた木村荘八の随筆「銘酒店」(昭和21年)によるとこの「方三尺の呼び込み窓」は「目ばかり窓」と呼ばれ戦前の玉の井のひとつの名物だったという。
こういう小さな窓が作られたのは、監督当局が女と客の交渉を制限したためである。
総じて玉の井の銘酒屋は零細企業といっていいほど規模が小さくく抱えている女も二、三人だった。
お雪のいる銘酒屋もそうである。
はじめに「わたくし」が彼女の家に上がったときは、もう一人いた女は「住替(スミカヘ)」でいなくなり、いまはお雪ひとりになっている。
主人は別にいる。
お雪の言葉を借りれば「御主人は別の家よ。玉の井館ツて云ふ寄席があるでせう。その裏に住宅があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ」。
「玉の井館」は、大正通りの隅田バス車庫前にあった寄席。戦後は映画館になり、現在はセイフーというスーパーマーケットになっている。

「寺島町奇譚」を読むと電柱に実に多くの病院の看板が架かっているのに気づく。
これがいかにも玉の井らしい。
「原肛門科」「大久保病院」「瀧肛門科・婦人科」「大原医院・X線科・婦人科」「石子医院・婦人科・肛門科」、あるいは「もみりょうじ」「助産婦」、また薬屋の前には衛生器具「ダッチ・ペッサリ」の看板も見える。
昭和4年に設立された昭和病院(現在の向島保健所あたり)に私娼たちが定期検診に出かけて行く姿も描かれている。
色街だけに病院が目立ったのだろう。
「玉の井界隈0番地」という一篇では娼婦のひとりが突然盲腸になって苦しみはじめ、病院にかつぎこまれる。
「どぜうの命日」ではキヨシが学校の帰り、路地を歩いていると娼婦どうしが「気のせいかここんとこ痛くて……」、「あまり無理しないほうがいいわよ」「滋養のあるもんたべてからだに精をつけなきゃだめよ」と話している声が聞えてくる。”重労働”の娼婦には病気がつきものだったことは想像に難くない。

荷風は随筆「寺じまの記」のなかで、玉の井の商店のなかには「薬屋が多く」と、薬屋が多いことに着目している。
また私家版『濹東綺譚』には荷風自身が撮影した玉の井の写真十一葉(それぞれにキャプションがわりの俳句がつく)が付されているが、その一枚、東武鉄道の踏切を撮った写真を見ると、道路脇の電柱に「内科外科小児科花柳病科」の病院の看板が見えるし、もう一枚、町角のバスを撮った写真には、右側に私娼の検診所「民衆等院」が写っている。玉の井は場所柄、病院の多い町だったといえるだろう。
「濹東綺譚」のお雪は歯痛で歯医者に通うし、最後には病気で入院させられる。
「わたくしがお雪の病んで入院してゐることを知ったのは其夜である。雇婆から窓口で聞いたゞけなので、病の何であるのかも知る由がなかった」。
「濹東綺譚」がここで終っているのは痛ましい。

「寺島町奇譚」には当時の東武鉄道玉の井駅の絵が二枚入っている。
一枚は上り線のホーム、もう一枚は下り線のホームにあった駅舎。
どちらも二貢見開きの大きな絵で、それだけ滝田ゆうの想いがこもっている。
滝田ゆうは、「寺島町奇譚」を描くにあたって資料を使わず記憶だけに頼ったから自信がないと控え目にいっているが、この玉の井駅の様子は、荷風が撮影した私家版『濹東綺譚』所収の玉の井駅のホームの写真と比べても決しておかしくない。

「濹東綺譚」にあるように、東武鉄道が曳舟と鐘ヶ淵の間に新しく玉の井駅を設置したのは、昭和5年春、帝都復興祭が行なわれたころ。
夜12時まで雷門から6銭で人を運び、玉の井盛況の一因となった。
それでも駅周囲はまだ開けていなかったらしく、「線路の左右に樹木の欝然と生茂った廣大な別荘らしいものがある」と荷風は書いている。
それを受けるかのように滝田ゆうは、ホーム向こうに鬱蒼とした木々を描きこんでいる。

「日乗」昭和11年9月22日
「晡下また玉の井に往く。東武電車玉の井停車場の西方に樹木欝蒼たる別墅の如き一構あるを見、其の方に歩みを運ぶ。人に問ふに安田銀行の別荘なりと云ふ」とあるのが、「濹東綺譚」の「線路の左右に樹木の欝然と生茂った廣大な別荘らしいものがある」に対応している。
ただし、小針美男によれば、この樹々に囲まれた家は「安田銀行の別荘」ではなく、小倉石油社長小倉常吉の別邸だったという(『東京つれづれ画帖』創林杜、1986年)。広大な屋敷で、なかには池もあった。江戸から明治にかけて濹東が文人たちの別荘地だった名残りだろう。
荷風は「安田銀行の別荘」には確信が持てなかったらしく、「濹東綺譚」ではそのことを省いている。
また「線路の左右」とあるように、東武電車線路の右側にも、木々に囲まれた屋敷があったが、これは小島重太郎という大地主の家だったという。
当時の玉の井はまだ新開地ならではの田園の名残りをとどめていたのである。

滝田ゆうはあるインタビュー(「ガロ」昭和44年4月増刊号)で「(小説は)生涯に芥川の『河童』と荷風の『濹東綺譚』だけ」と答えている。荷風への傾倒ぶりがうかがえる。
「寺島町奇譚」の題名が「濹東綺譚」からとられていることはいうまでもない。
おそらく滝田ゆうは「寺島町奇譚」を描くにあたって「濹東綺譚」を熟読したに違いない。

玉の井の駅舎の絵は、雨の日のもので、駅舎の前はどぶがあふれ、傘をさした人間たちはズボンをまくって歩いている。雨が降るとどぶがあふれる。
これも荷風が「濹東綺譚」で書いている。玉の井の”名物”である。
「わたくし」がはじめてお雪の家に上がった日、突然の雨でどぶがあふれたらしく、路地には「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌が泳いでるよ」という声が聞えてくる。
このどじょうは魚屋から逃げてきたものか。あるいは近くの田んぼからまざれこんだか。いずれにせよ玉の井の場末の面白さをよくあらわしている。
雨でどぶがあふれる。そこにどじょうが泳いでいる。こういう風景は「隅田川を越えた濹東」ならではのものである。
当時、玉の井に住み、抱え主に搾取されている私娼たちの解放運動を試みた南喜一の「玉の井二十五年」(「中央公論」昭和15年3月号)によれば、大正のはじめのころの玉の井は「一面の蓮田(ハスダ)」だったというから、相当の湿地帯だったのだろう。夏になると蚊が大量に発したのはそのためである。
「濹東綺譚」では、お雪の主人が「わたくし」に「こゝはもともと埋地で、碌に地揚もしないんだから」と愚痴をこぼしている。

「寺島町奇譚」ではキヨシの父親がどじょうを割いたり、客に柳川鍋を出したりする。また娼婦が魚屋でどじょうを一匹もらい、それを金魚のように飼おうとするくだりもある。安価で滋養のあるどじょうは、玉の井で親しまれていたのだろう。滝田ゆうの号が「泥鰌庵(ドゼウアン)」だったのもいかにも濹東生まれらしく面白い。

 東武鉄道と並んで「濹東綺譚」にはもうひとつ印象的な鉄道が出てくる。
京成白鬚線である。京成電車が向島駅(曳舟駅と荒川駅のあいだにあった駅)から、左に枝分れし、改正道路を横切って、玉の井の私娼街の真ん中を走り、玉の井の駅の北(現在のいろは通りと東武線が交差するあたり)で東武線を跨いで、白鬚橋の東詰に至る。
駅の数は、向島、長浦、玉の井、白鬚の四つだけ。全長わずか一・四キロの私鉄ローカル線である。
『京成電鉄五十五年史』(昭和42年)によれば、昭和3年4月に開通したものの、利用客が少なかったため、昭和11年1月に廃止されたという短命の路線である。
もともと、白鬚橋を渡り、泪橋から三ノ輪橋に出て、王子電車(現在の都電荒川線)と接続する予定にあったという。
路線が廃止された昭和11年は、荷風の玉の井出遊がさかんになったときである。
この京成白鬚線の線路が土手の形になって残った。「濹東綺譚」の冒頭に出てくる線路跡がこれである。
「(東武鉄道の)線路に沿うて賣貸地の札を立てた廣い草原が鉄橋のかゝつた土手際に達してゐる。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかゝつた石段の上には取払はれた玉の井停車場の跡が雑草に蔽はれて、此方から見ると城址のような趣きをなしゐる」

 「わたくし」は夏草をわけて土手にのぼり、土手の上から玉の井の夕暮れの風景を眺める。
陋巷が眼下に広がっている。湯屋の煙突やネオンが見える。
場末の詩情を感じたのだろう、「わたくし」は足元が暗くなるまでその土手の上から町を眺めている。そして闇が深くなったころ、ようやく土手を降りて玉の井の盛り場に入って行き、そこではじめてお雪に会う。
いまはもう使われなくなった鉄道の線路跡。「わたくし」はその廃墟を経て玉の井に入る。
荷風の町の細部を見る目の確かさであり、さらには、廃墟をまず冒頭に置くことで、物語全体を現実から遠ざける絶妙の効果を作り出している。夏草がおい茂った、忘れられた線路跡とはいかにも荷風の好きそうな、すがれた風趣である。
よほどこの土手に惹かれたのだろう、私家版『濹東綺譚』には、その写真が収められ、「名も知らぬ小草の花やつゆのたま」の句が添えられている。
木村荘八も「濹東綺譚」の挿絵に、この土手の上に立つ荷風を描くのを忘れてはいない。
木村荘八は荷風の愛読者だっただけに「濹東綺譚」の挿絵の仕事を「東京朝日新聞」から依頼されたとき、「オレのウンメイは、これで極まった」と思ったほど感激したという(随筆「濹東綺譚」昭和22年)。そしてこの仕事に全力投入し、荷風に倣って玉の井に前後7回ほど出かけ、町の様子を丹念にスケッチした。京成電車跡の土手の絵はその成果だろう。

 当時の玉の井の子どもたちにとっては、この土手もまた格好の遊び場所になったようだ。
三遊亭円歌は前出「町も登場人物もみんな懐しい」のなかで、京成電車が走っていた跡の高台を子どもたちは「土手」と呼んでいて、よくそこで遊んだと書いている。
滝田ゆうも、ここには思い入れがあるのだろう、『私版昭和迷走絵図』のなかに「旧玉の井停車場跡」の絵を入れている。さびた鉄橋、壊れた石段、夏草のおい茂った土手。その向こうに低い瓦屋根が続いている。「わたくし」が昭和11年6月に見たのとほとんど同じ風景である。

 「寺島町奇譚」の一篇「鰯雲は西へ」では、キヨシの祖母が孫娘にあの「やま」は、もとの京成の停車場のことで、昔のことを知らない孫娘に「知らないのかいお前」「押上からずーっときて向島駅からこーきて東武の上を通って白鬚までいってたんだよ」と説明している。
こにも見開き2ページで「土手」の絵が措かれている。
戦前の玉の井で生まれ育った子どもにはこの「土手」が懐しい特別の場所になっているのだろう。滝田ゆうは「濹東綺譚」を読んでその記憶を豊かによみがえらせたのかもしれない。

 玉の井は昭和20年3月10日の大空襲で、そのほとんどが焼失した。
「寺島町奇譚」は、最後、玉の井が焼け野原になった絵で終っている。
現実の玉の井が廃滅し、ただ荷風が「濹東綺譚」で描いた”夢の里”としての玉の井だけが残った。「濹東綺譚」が今日、一篇の詩的散文として吃立しているのはこのためだろう。

 木村荘八の言葉を借りれば、「濹東-永井さんの名付けた濹東も、漸く伝説となり、昔がたりとなりましたが、戦争がなければ、戦災がなければ、こうも早く『伝説』とはならなかったでしょう」(「濹東の変遷」昭和26年)

 現在の玉の井には無論、どぶも銘酒屋もないし、「土手」もない。
京成白鬚線の名残りは、向島駅のホームの跡が、約10メートルにわたって、京成線の線路に残っているのみである。

(註)
荷風は戦後、玉の井を訪れ、焼亡した町の姿を見ている。
「日乗」昭和23年1月12日
「午後玉の井の焼跡を歩む。震災後二十年間繁華脂粉の巷今や荒草瓦礫の地となる。濹東綺譚執筆の當時を恩へば都(スベ)て夢の如し」

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