2023年9月26日火曜日

〈100年前の世界075〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉗ 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉② 「こうして、標的なき銃丸のために、または「山」と聞かれて、返事がなかったために、または格構(ママ)が鮮人に似ているというだけのことで、どれだけ数多くの同胞が倒れたことであろう。」    

 

関東大震災の朝鮮人虐殺…“ファクト”否定したい人たちを助長する都知事(RKB毎日放送)

〈100年前の世界074〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉖ 〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉① 「とうとう二人だけはつかまえられてしまって、松の木へしばりつけられて、頭といわず顔といわず皆にぶたれた。気の立っている人々はそれでもまだあきたらず、血だらけになった鮮人を山中ひきずりまわした。そして、夜になったら殺そうと話していた。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉗

〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人〉②

十五円五十銭     壷井繁治

〔二日〕わたしは牛込区弁天町〔現・新宿区〕の居出の下宿に避難した。彼は早稲田の法学部を卒業後も学生時代の下宿に陣取り、そこから海軍省へ通っていた。その避難先でも朝鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込みまわっているとか、社会主義者が暴動を起こそうとしているとかいう噂で持ちきりだった。つぎの日の昼ごろ居出と連れ立って矢来下から江戸川橋の方へ歩いていった。そして橋の手前に設けられた戒厳屯所を通り過ぎると、「こらツ! 待て!」と呼び止められた。驚いて振り返ると、剣付鉄砲を肩に担った兵士が、「貴様!朝鮮人だろう?」とわたしの方へ詰め寄ってきた。わたしはその時、長髪に水色のルパーシカ姿だった。それは戒厳勤務に就いている兵士の注意を特別に惹いたのであろう。その時まではそれほど気にしていなかった自分の異様な姿にあらためて気がつき、愕然とした。わたしは衛兵の威圧的な訊問にドギマギしながらも、自分が日本人であることを何度も強調し、これから先輩を訪ねるところだから、怪しいと思ったらそこまでついてきてくれといった。わたしはその時生方敏郎のことを思い浮かべていたのだが、傍の居出もしきりに弁明に努めてくれたので、やっと危い関所を通過することが出来た。

わたしは滝野川の岡本の安否が気になったのと、人目を惹き易いこの異様な身なりをなんとかしなければならぬと思ったので、江戸川橋の袂で居出と別かれ、護国寺の方へ向かって急いだ。すると向こうからラッパ卒を先頭に騎兵隊が行進してきた。音羽通りをびっしりと埋め尽すほどの騎兵の大部隊は、暴動の鎮圧に出陣しているかのような殺気だった雰囲気をあたりに撒き散らした。左側の大塚警察署の前までくると、その掲示板に「暴徒アリ放火略奪ヲ逞シウス。市民各位当局こ協力シテコレガ鎮圧ニ努メラレヨ。」という貼り紙がしてあった。

岡本の家は幸に地震には潰されていなかったが、別の危険がその家を取りまいていた。つまり日ごろから一風変った人間が、絶えず出入りすることで近所から怪しまれていたので、このドサクサに乗じて何をされるかわからなかった。わたしは岡本から浴衣と袴と黒いソフト帽を借り、その帽子で長髪を出来得るかぎり隠してまた居出の下宿へひき返えした。途中宮坂辺で野次馬に取り囲まれ、背中から鳶口を打ち込まれている人夫風の男を見た。それは朝鮮人と見られて、そういう惨虐なテロに遭っていたのであろう。

(→5日に続く)


大震災に直面して     友納友次郎

〔二日午前〕一時を過ぎ二時を過ぎたかと思うと、不意に街路でガヤガヤと人のうごめく声がする。

「〇〇〇〇襲来、〇〇〇〇襲来。」という声が聞える。その中に前の戸をドンドンと叩いて、

「○○が二、三〇名、今淀橋の方に襲来して乱暴を働いています。こちらの方へも押寄せて来るそうですから、だれか男の人一人武装して出て下さい。」という。

(略)

四辻に提灯が二つ三つ見えるので、それを目当てに駈けつけると、そこにはもう近所の人がみんな集って、思い思いに獲物を携えている。日本刀を手挟んでいる者もあれば、鉄棒を握っているものもある。中には竹を引っ削いで竹槍をこさえて、それを小脇に掻い込んでいるものもある。まるで戦国時代のようである。

「〇〇〇が隊を組んで押寄せているそうです。東京市内があんなに焼けるのも、〇〇〇が爆弾を投げたためだそうです。東京を焼払ったら隣接の町村にも押寄せて来るという報せがありましたので、お互いに力を致して、それに備えなければなりません。」と団長気取の人が言う。

(略)

夜は不安のうちに明けた。余震はやはりひっきりなしに来る。流言蜚語はいよいよ甚しくなる。

「〇〇〇が二千人、隊を組んで、長野県の方から押寄せて来るそうだ。」

「千葉県の方からも○○が隊を組んで押寄せて来る。もう途中の村々はみんな○○の手に焼払われてしまった。」

「○○が女を捉まえて凌辱した上惨殺した。」といったような流言が、余震の間を縫って、ひっきりなしに伝わって来る。

「本当でしょうか、淀橋の方から来るといえば、真っ先にこの高台は襲われるに違いありません。どうしましょう。」と家内が脅えながら言う。

「ナアニそんな事があるものか、○○の中には悪い者もいようが、そんなに多数隊を組んで来襲するようなことはない、心配するな。」と慰めてみたものの、やはり不安である。

「○○が井戸に毒を入れて歩きますから、井戸の水を飲まないようにして下さい。」と自警団から知らして来る。

「それはどこから、そんな通知があったのですか。」と問い返すと、

「警察から一般に知らしてくれるように通知がありました。」

「警察からですか、警察がそんな事を言いましたか。」

「ハイ確かに警察からです。お巡りさんが今あちらで触れ回っています、用心してください。危険ですから。」と言い捨てて、また隣りの木戸口を開けて、同じような事を触れて歩いている。

[勤務先の寺島第一小学校(現・墨田区)で被災。1日夜、戸山ケ原(現・新宿区)の高台にある自宅へ帰る]

(友納友次郎『教育革命 焦土の中から」明治図書、1925年)


遭難とその前後     西河春海

〔二日〕陽は午後になった。その頃だ。あの恐るべき噂は風の如く速に伝えられた。この白昼「朝鮮人が攻めて来るそうですから………」という囁きが、不思議なものであるとさえ、護れも感ずるものはなかった。略奪と放火と姦淫と殺戮と、或は飲料水に毒を投じ、または数百名団を為して押寄せるというその噂は、地震と焔との惨憺たる事実に直面して、脅え切り、混乱し切った人々を、不安と絶望の那落にまで墜落せしめたのだった。

俺と高岡とは何よりも先に、日本刀を掘り出すことになった。

「まさか朝鮮人が来もすまいがね。」

「しかし、地震で折角助かったのに、鮮人に殺されては、つまらないからな。」

「鮮人が仇を取ろうというのだろう。」

二人は話し合いながら、この辺に置いたと思うあたりの屋根に穴を開け、ようやくにして取り出した。日本刀は少し曲っていたが、抜差しには差支えなく、仕込杖の方は満足だった。

二人は、白日の下に日本刀を抜いて振回した。

[略]恐るべき鮮人襲来の噂と共に、夕暮が来た。

水道貯水池の丘に立った一人の男が、「男のある家では、一人ずつ出て下さアい………」と怒鳴っている。やがてその傍の空地へは、大勢の男が、手に手に何かの武器を持って集まって行った。それは軍隊ででもあるように何個小隊かに分たれた。そしてこの丘へ登る道筋の要所要所を堅めることになった。

あるものは猟銃を携えていた。

あるものは日本刀を背負った。

またあるものは金剛杖の先へ斧を縛りつけた。

竹槍、鳶口、棒の先へ短刀を縛ったもの、鉄棒、焼跡から拾った焼けた日本刀、かくの如く雑多な武器が、裸体に近い避難者の手に握られて、身を護ろうとする一心と、闘争を予期する恐怖とに、極端の緊張を以て道を守り、その辺を巡回しているのは、物凄い光景である。

[略]巡査が抜剣して馳って来た。

「ワーツ…………ワーツ…………。」

一方に喊声が上る。それは鮮人発見の声なのだ。その声は全部の丘陵に伝わり、大燥音となって、しばらくは鳴り止まない。そのあとにはまた恐ろしい沈黙が来る。また喊声があげられる。

突然、最も近い水道山に喊声があった。

ポンポン・・・・・ポンポン・・・・・。

ハッと思うと、それは銃声なのだ。どこで放って何の方向へ向っているか分らないので、銃丸はどこへ飛んで来るか解らないのた。十発、二十発と、それは、だんだん殖えて行く。この銃声はさらに人々の心を引締めた。

一本松小学校〔横浜市〕の方から来た男が、「ピストルを持った二人の朝鮮人を遁してしまった。」といって話している。巡査が「この谷へ遁げ込んだのだろう」といって坂を下って行った。

やがて帰って来て言った。

「追いつめてみたら、日本人の略奪者だった。」

一人の男は猟銃を持っていた。そして言った。

「向うの家の二階へ遁込んだらしいので、二発うち込んでみたがいないようだった。」

こうして、標的なき銃丸のために、または「山」と聞かれて、返事がなかったために、または格構(ママ)が鮮人に似ているというだけのことで、どれだけ数多くの同胞が倒れたことであろう。

僕は巡査に聞いた。

「朝鮮人の押寄せて来るというのは、ほんとうなのか。そして彼等は、何か体系的な行動を取っているのか。そうして何の目的を持っているのだ。」

「ほんとうらしい。集団して来るかどうかは解らないが、今日藤棚の方でつかまった奴は、「何々方面」などと書いた紙片を持っていた。久保山の電柱へ縛りつけて殴り殺した奴は呼子の笛を持っていた。中村町の方にいた三十人ばかりの労働者は、水のように見せかけて、揮発油を缶に入れて持っていたというし、井戸水へ硫酸銅を投じた奴もあるそうだ。」

「そういうんなら、連絡を取っての行動だね。」

「ウム」

根強く秘められている情熱を持って、目的のためには平気で死ぬと聞いている朝鮮の民族精神を思うと、ありそうなことにも思われる。

地図は一挙に塗替えられる。しかし民族精神まではなかなか塗替えられないのた。ああ、今むくわれているのではないか。そして今後永遠にむくわれるのではないか。

断間なしに喊声が上がる。高岡の細君が子供の泣くのに乳をやろうとしで蝋燭をともすと、「あかりを消せ・・・・・火を消せ、しツ・・・・・」と向うの丘で悲痛な声で怒鳴る。燈があると鮮人の標的になるというのだ。

「乳もやれませんヮ。」

何というみじめさだ・・・・・。かくて不安と恐怖の夜は更けて行く。しかし敵はいつまで経っても見えなかった。

[略]ああこの自然の暴虐と飢餓とを背景とした混沌境に、漠然とした対象の敵が、口から耳へと伝えられる。そして相会う人々は、まず敵か味方かを確かめねばならないとは・・・・・。そしてそこには、無数の私刑が行われたのであった。・・・・・自分はいまその恐ろしき私刑について、親しく見聞した事のうちから、二・三を(話しは少し前後するかも知れぬが)記さねばならない。それはわれわれ自からを嘲笑する言葉であり、侮辱する言葉である。しかしわれわれは、この厳然たる事実の前に立ちて、自からへの侮辱と呪誼とを語る勇気と良心とを持たねばならないのだ・・・・・

→【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言 (1)中村川、堀割川にそって」につづく

[当時東京朝日新聞記者]

(横浜市役所市史編纂室編『横浜市震災誌・第五冊」横浜市役所)


つづく

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