1895(明治28)年
10月8日
乙末事変(閔妃殺害事件)そのⅢ
〈裁判〉
小村寿太郎は、三浦梧楼公使、杉村公使館員、岡本朝鮮政府顧問など被疑者40数名を帰国させ、日本で裁判を受けさせることになった。他に関与した軍人は広島の第5師団で軍法会議にかけられることになった。
10月17日に三浦梧楼は解任・召喚、翌18日に三浦、安達を含む約50名近くに退去命令が下され、三浦ら関係者は広島地方裁判所に起訴された。
朝鮮では日本に対する不信の増大を背景に大院君と親日派は力を失い、訓錬隊は解散となり、閔妃廃妃の詔勅も撤回された。12月1日、閔妃の死が正式に発表され、葬儀が執り行われた。同時にその死因は訓錬隊と日本公使館、そして日本人壮士の王宮襲撃にあったことが発表され、その処罰がなされることになった。金弘集政府は事件の収束を早めようと裁判を急ぎ、朝鮮王朝法部は謀反事件の犯人として朴鉄、李周会、尹錫禹の3名を逮捕し、12月29日に死刑判決が出された。彼らはいずれも計画には参加していないと主張したが、実行に加わったことを自白したため、有罪とされた。日本人実行犯に対しては、日朝修好条規が日本人に治外法権を認めている不平等条約であったので、日本人を裁く事はできなかった。
朝鮮で朝鮮人3人の犯行と確定したことを受け、1896年1月20日、広島地方裁判所の予審において三浦前公使以下は事件への関与は認定されたものの、閔妃殺害の実行に関しては証拠不十分として免訴となり、広島の軍法会議でも全員無罪となった。領事裁判権の時代だったので漢城の日本人に対する領事裁判も行われたが、取り調べる側の領事にも王宮侵入に加わった者がいるありさまだった。
出獄の日、三浦は「アノ邊の有志者の歓迎会に招かれた。それから汽車で帰ったが、沿道至る処、多人数群集して、萬歳々々の声を浴びせかけるらいな亊であった」と回顧し、自身の犯罪意識はなかったように見える。
〈新聞関係者の事件への加担;朝鮮における日本人経営の近代新聞発行の経緯概要〉
1881年(明治14年)12月、朝鮮で初めて釜山在住日本人のための新聞『朝鮮新報』発行(「在釜山商法会議所」、大石徳夫、3回/月)。
1890年(明治23年)1月28日、仁川で『仁川・京城隔週商報』(2回/月)が発行。これは、翌91年9月1日に『朝鮮旬報』と改題、92年4月1日、『朝鮮新報』(先の『朝鮮新報』とは別)とした。同紙は日清戦争中は休刊したが、戦後、青山佳恵によって『朝鮮新報』として復刊。
日清戦争に際しては、日本の新聞記者が朝鮮各地に足を運んでいる。なかでも、『国民日報』の菊池謙譲は漢城に滞在して取材し、熊本国権党機関誌『九州日日新聞』の佐々木正之は取材の傍ら日本軍の通訳をも務めていた。
1892年10月に釜山に渡った「国権党」の安達謙蔵は、釜山総領事室田義文の依頼で、同年11月27日に釜山商業会議所会頭榊茂夫(郵支店長)や宮本龍(会議所書記長)らの協力で400円を借りて同年12月に『朝鮮時報』を発刊した。これは、のちに『釜山商況』『東亜貿易新聞』と改題し、その後廃刊、復刊のあと廃刊した。
『九州日日新聞』の高木正雄は、穂積寅五郎が仁川で発行していた『新朝鮮』の編輯事務役を引き受けた。
当時朝鮮には熊本国権党所属の記者が多く、国権党の前身「紫溟会(しめいかい)」の会員らであった。紫溟会は、1881年9月1日、幕末維新期の学校党、実学党、敬神党が合体した結社で、右翼的な性格を持ち、規約には主権在君の反民権論を明確にしていた。紫溟会は、『紫溟雑誌』(1882年3月1日創刊)・『紫溟新報』(1882年8月7日創刊)を発行していたが、『日本新聞』(1881年10月創刊、82年1月27日『不知火新聞』と改題)と統合し、1888年10月9日『九州日日新聞』と改題した。また、「紫溟会」は1880年「国権党」へ組織を変え、「国権党」の記者らは朝鮮などで外務省の機密費を受け取って新聞を創刊し、日本の大陸支配の広報的役割を果たした。
一方、熊本「国権党」の安達謙蔵は、井上馨が朝鮮公使として着任した際、面談の席で朝鮮人を啓発するために「朝鮮諺文(おんもん)による新聞を発行する要ありと力説」した。井上はこれに共感し、一等書記官杉村濬(ふかし)に新聞発行に必要な検討を支持した。1891年12月1日、井上は外相陸奥宗光に朝鮮における新聞発行の費用を要請した。この要請に対して、12月7日、外務省機密費1,200円が送られてきて、新聞発刊を急ぐことになった。1895年2月17日、安達謙蔵と佐々木正之は、朝鮮語と日本語で旧駐韓日本公使館の機関誌役を担う『漢城新報』を発行するに至った。
『漢城新報』はタブロイド2倍判で1~2面は朝鮮語、3~4面は日本語を使って隔日発行、主筆国友重章、編集長小早川秀雄。日本外務省は1895年3月から毎月130円、7月からは170円、翌年7月からは300円の補助金を支給し、『漢城新報』は日本外務省の機関誌的役割を担った。
その後、これらの経済的援助が一因となり、社長安達謙蔵、主筆国友重章、編集長小早川秀雄、佐々木正之以下の社員全員、釜山語学校出身の鈴木順見、『国民新聞』特派員菊池謙譲、『日本新聞』特派員山田烈聖、『報知新聞』通信員吉田友吉が加担して、日本公使三浦梧楼とともに閔妃暗殺事件を引き起こすことになる。
この事件は、知識人層の記者らが殺人を緻密に計画した前代未聞のインテリ集団による大事件であった。王宮で夫人らを殺害する際、居合わせた外国人に英語で王妃の居場所を問う場面もあり、その始末も巧妙であった。
〈閔妃暗殺事件直後の外交官堀口九萬一の書簡〉
2021年(令和3年)11月、堀口が親友である新潟県中通村(現長岡市)の漢学者武石貞松宛に送った、1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の8通の書簡が見つかった。
95年10月9日付の6通目には現地での行動が細かく書かれており、王宮に侵入したもののうち、「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と王宮の奥に入り王妃を殺したことや、「存外容易にして、却てあっけに取られ申候」という感想が記されていた。
堀口九萬一;
閔妃暗殺事件に関与した廉で三浦梧楼公使・杉村濬一等書記官らとともに帰国・非職処分となり、容疑者の一人として予審取調を受けた。翌1896年(明治29年)1月の予審結果は証拠不十分で全員免訴とされ、2月に復職。1925年(大正14年)3月末、依願免官。以後、講演・執筆活動に専念。
*「外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料」(朝日新聞2021年11月16日)
つづく
外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃暗殺事件で新資料 https://t.co/wj66uND5Hh
— 朝日新聞(asahi shimbun) (@asahi) November 16, 2021
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