2024年6月20日木曜日

大杉栄とその時代年表(167) 1895(明治28)年10月8日~15日 一葉の文名が上がり大西祝や依田学海が会いたいと言ってると告げられる 松山で子規の送別会 一葉随筆「雁がね」「虫の声」 漱石に兄直矩より見合い写真が送られてくる  

 


大杉栄とその時代年表(166) 1895(明治28)年10月8日 乙末事変(閔妃殺害事件)そのⅢ 〈裁判〉 〈新聞関係者の事件への加担;朝鮮における日本人経営の近代新聞発行の経緯概要〉 〈閔妃暗殺事件直後の外交官堀口九萬一の書簡〉 より続く

1895(明治28)年

10月8日

漱石の菊池謙二郎宛て手紙では、山口高等学校から参事官宛に招聘の交渉があり、辞退したところ、また別の方法で招聘するつもりだからといって来たことを述べる。

同日、京城事変起り、共感を示す。

10月10日 漱石、子規の「名所読みこみ句会」に出席。

10月8日

朝から雨やまず。明日は萩の舎の月次会なので、道は悪いが銭湯にゆく。帰ると車夫が関如来の使いで昨日貸した傘を返しに来た。今夜再び上田敏を訪ねるみちすがらこちらをお返しする。上田の後に谷中の大野酒竹の庵に用事があるので、手紙にて失礼。今朝、依田学海が「にごりえ」を上出来の作と称えて、是非一度お会いしたいと言っていたので、一度訪ねるとよいなどと書いてあり、中には「月曜附録」のこともあった。最後には、縁談のこと、心よりよろしくお願い申しあげますなどと書いていた。真剣な書きぶりに皆で笑う。

朝鮮の王宮に突入した日本公使館守備隊、公使館警察官、日本人壮士らが、閔妃を殺害した、乙未事変起きる。

10月8日

ファン・ドモンゴ・ペロン、ブエノスアイレスに誕生。

10月9日

一葉、午前から萩の舎月次会。伊東夏子から、大西祝が是非会いたいと言ってるらしいという旨伝えられるが、こうしたのも一時の人気ではないかと空恐ろしくなる。

夜、中町の金清堂に原稿用紙を買いに行く。安井哲子が岩手から貰ったという大きな林檎を持ってくる。夜、手紙を2通。一つは関如来へ、「月曜附録」のことなどについて。もう一つは、孤蝶へ、長く音信不通なのでご機嫌伺い。夜も大層更けたので、その他は特になく就寝。関如来より原稿の再催促。

10月10日

朝鮮、「廃后の詔勅」、官報に発表。

内外の反撃強く、11日、「廃庶人の閔氏に嬪号を特賜する」と発表。

各国公使の反論強く、26日、「廃后の詔勅」取消し。

10月10日

台湾、混成第4旅団 (旅団長:貞愛親王) 布袋嘴より上陸

10月11日、第2師団 (師団長:乃木中将) 枋寮より上陸

10月10日

一葉に、大嶋みどり子が歌を詠んでくれと頼みに来る。その他は安井哲子と野々宮菊子らが稽古に来たのみ。田中みの子から2通と本願寺から1通の手紙。

10月11日

一葉に宛てて、この頃、孤蝶から写真を同封した手紙が来る。

10月12日

朝鮮、第4次金弘集内閣成立。反閔氏・反ロシア派。

10月12日

松山二番町の花廼家で子規の送別会。


「・・・・・送別会には子規、漱石を含め、十八人が出席した。小万という芸妓がひとりだけ呼ばれた。


十八人女とりまく夜寒哉   子規


小万は、この年三月十六日、松山にやってきた子規のために旧友らが催した従軍行送別会にも呼ばれていた。そのとき参じた十五人のうちのひとりから、「新派」すなわち「日本派」俳句の真髄はなにかと問われた子規は、以下の一句をしめした。


僧や俗や梅活けて発句十五人


「俗」「発句」、それから十五人の連なる「座」が、主たる条件としてそこに盛られていた。」(関川夏央、前掲書)


漱石、子規を送る五句を作る。


疾く帰れ母一人ます菊の庵

秋の雲只むらむらと別れ哉

見つゝ行け旅に病むとも秋の不二

この夕野分に向て分れけり

お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花


子規は、席上で漱石の雅号を詠み込んだ俳句を作る。「石女(うまずめ)の蕣(あさがお)の花にうがひかな」。別に、「行く我にとゞまる汝に秋二つ」も贈る。

10月14日

一葉、『読売新聞』月曜付録に随筆「雁がね」「虫の声」を掲載。

樋口一葉『あきあわせ』(青空文庫)の中の2編


10月中旬

漱石に兄直矩より見合い写真が送られてくる。


「十月中旬、漱石のもとに兄夏目直矩から見合い写真が送られてきていた。貴族院書記官長中根重一の娘、鏡子の写真である。漱石の十歳下、明治十年生まれの満十八歳とあった。

福山藩士族であった中根重一は、大学南校でドイツ語とドイツ法を学んだ。新潟開港場の病院でドイツ人院長の通訳をつとめたのち、行政官に転じた。中根重一の父、鏡子の祖父にあたる人が牛込矢来町に住んでおり、囲碁仲間のひとりが以前、牛込郵便局で直矩の同僚で、彼らの雑談からこの縁談は起こった。

中根重一が調べてみると、漱石の評判はよい。写真交換へと進んで、漱石自身大いに乗り気になった。早くも十月二十日頃には、下宿を訪ねてきた柳原極堂に、「嫁をとるんだ、写真結婚だ」と自慢している。」(関川夏央、前掲書)

10月15日

朝鮮、弁理大使任命小村寿太郎(外務省政務局長)、横浜地裁検事正安藤謙介、仁川領事官補山座円次郎、海軍大佐伊集院五郎、陸軍中佐田村怡与造、海軍少佐安原金次、陸軍少佐渡辺鉄太郎、同原田輝太郎の調査団、漢城到着。

17日、小村は西園寺へ「この事件の使嗾者は三浦公使にて、大院君と同公使との間を周旋したるは岡本柳之助と察せらる」と報告。


つづく

0 件のコメント: