1895(明治28)年
10月16日
台湾、第2旅団、鳳山を占領
10月16日
愛媛県尋常中学校住田昇校長休職を命ぜられ辞任。横地石太郎教頭、校長事務取扱いになる。
4年生の今井嘉幸が首謀者といわれ、住田昇校長排斥のストライキ起る。漱石は、生徒たちの態度に不快を覚える。
10月17日
政府、三浦公使の解任・召喚、小村の後任公使任命を決める。
10月18日
朝鮮、三浦梧楼ら事件関係者(48人)全員日本召喚命令。~22日。広島刑務所未決監の収監。
翌明治29年1月14日、第5師団軍法会議で楠瀬中佐以下全員無罪。
20日広島地裁の予審で全員免訴。
25日帰京。「沿道到る処、多人数群して、万歳万歳の声を浴せ掛け」られる(三浦談)。
杉村濬書記官は、広島の法廷で、この行動は「大鳥、井上両公使ノ所為卜同一ニシテ、其ノ手段ハ遙ニ昨年七月ノ挙ヨリ穏和ナリシ」と主張、今回の事件を「過失卜為シ、若クハ罪戻卜認メナバ、何故ニ昨年ノ挙ヲ是認シタルヤ」と開き直り、「政府ハ既ニ昨年ノ挙ヲ是認シタル己上ハ、後任(三浦梧楼)公使ガ其例ニ倣ツテ行ヒタル本年ノ挙モ亦是ヲ貴ムルヲ得ザルモノト確信」すると論じる。
事変は、朝鮮に対する「戦争」は継続中との認識のもとに出先機関が引き起こしたものであるが、日本政府指導者も共通の認識にたつ。事変後急派された井上馨大使は、小村寿太郎公使と連名で「我兵ヲ王宮ニ入ルルハ安寧秩序ヲ維持スル必要手段」と三浦公使らの行動を擁護し、もし、彼の行動を否定するならば、「我兵ヲ此ノ国ニ駐屯セシムルハ何ノ為ナルヤ」と問い、「甚ダ了解ニ苦シム」と述べる。日本がこの態度を改めるには、国際世論の圧力と朝鮮民族の抵抗の激化が必要。
送還者名簿に「領事官補堀口九万一、従者与謝野鉄幹」あり。
鉄幹は事件当時不在で、広島で簡単な取調べのあと釈放(関係者の家族と同じ程度の扱い)。この年4月渡韓(日本語学校、乙未義塾教師として)。22歳。領事館に仮住まいして堀口と親しくなる。鉄幹はその後2度渡韓。明治30年の3回目は、欧州留学の資金稼ぎのため民間人には禁じれている朝鮮人参売買に手を出し、散々な目にあう。晶子に出会うのは明治33年。
関係者のその後:
三浦梧楼:枢密顧問官。
堀口九万一:ブラジル公使など歴任。
安達謙蔵:内務大臣、逓信大臣。
柴四郎:前後7回代議士当選。
小早川秀雄:九州日日新聞社長。
楠瀬幸彦:陸軍大臣。
岡本柳之助:明治45年上海で客死。
堺益太郎(巡査):統監府警保局警視として旅順監獄で安重根を取調べ。安を親切に取り扱い、安に「安応七(重根の別名)歴史」を書かせたと言われる。
10月19日
台湾民主国大将軍劉永福、ドイツ商船に乗って厦門(アモイ)に逃亡。兵は四散する。
10月19日
西園寺公望外相臨時代理、陸奥外相に「朝鮮一件」は「一大獄」となると思うと書く(陸奥宗光宛西園寺公望書状、10月19日)。実際には、三浦の免官のみ。
10月19日
子規、この日朝9時、西予丸で松山を出立、宇品に向う。広島、大阪、奈良を経て帰京。(21日須磨保養院、22日大阪、26日奈良、29日再び大阪、東京に向かう)
大阪での句
朝寒や蘇鉄見に行く妙国寺
妙国寺は堺にある日蓮宗の寺で、「本能寺の変」の時に徳川家康が滞在し、森鴎外『堺事件』の現場でもある。フランスの水兵と堺警備の土佐藩士が衝突し、10人を超えるフランス側の死者を出したため、幕府がフランスに賠償金を払うとともに、土佐藩士に切腹を命じた。フランスの立会人がこれを見るにしのびず、11人で切腹は中止された。樹齢千百年という蘇鉄も切腹を見ていた。
10月20日(推定)
柳原極堂が漱石を訪問。漱石は「嫁をとるんだ」という、「夫りや宜いな」と云うと、「寫眞結婚だ」と云った。(柳原極堂「寫眞結婚だ」 『渋柿』漱石忌記念号
大正六年十二月十二日)
10月21日
台湾、第2師団、台南に入城。29日、安平入り。
台湾の組織的抵抗終結。
10月22日
子規、22日に大阪に突いた頃から左腰骨に強い痛みを感じ歩行困難となる。
「それから東京へ帰る時分に、君払つて呉れ玉へといつて澄まして帰つて行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せといふ。何でも十円かそこら持つて行つたと覚えてゐる。それから婦りに奈良へ寄つて其処から手紙をよこして、恩借(おんしやく)の金子は当地に於て正に遣ひ果し候とか何とか書いてゐた。恐らく一晩で使つてしまつたものであらう」(『正岡子規』)
10月25日
外相臨時代理西園寺公望、列強に対し、将来日本は朝鮮を撤退し、内政に干渉しないと通告。遼東還付も終結せず、台湾平定も完了しないこの時点で、朝鮮でも列強の疑惑を惹起するのは得策でないという判断。
朝鮮の内政に「無干渉ノ方針ヲ執ル」と声明し、朝鮮が「単独ニ秩序ヲ維持シ、外国人ヲ保護シ待ルニ至ル」場合、「駐屯セル軍隊ヲ召還スべシ」と宣言。
朝鮮における侵略政策の挫折と台湾の作戦終了により、大本営はようやく翌1896年3月に大本営を復員。完全な意味で平時に復す。
10月25日
京都、第1回時代祭り
0 件のコメント:
コメントを投稿