2024年7月7日日曜日

大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX(更新中)】

大杉栄とその時代年表

大杉栄が生きた時代(1885(明治18)年1月17日~1923(大正12)年9月16日)を年表で辿る。

この年表では、ところどころで、同行・伴走する以下の人物が登場します。それらの人物の、大杉栄が生まれた1885(明治18)年時点での年齢は以下の通り。

永井荷風(6歳)、樋口一葉(12歳)、幸徳秋水(15歳)、「七人の旋毛曲り」(18歳)夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨

尚、この1885年の前年(明治17年)11月9日には、秩父困民党軍が馬流の戦いで海ノ口に敗走し、野辺山原において解体する、そんな時代でした。

(参考)

★秩父蜂起インデックス 秩父蜂起に関する記事一覧


1885(明治18)年

1月

漱石(18)は我儘だけれど傑物だとの評判


「一月(推定) (月日不詳)、塩原昌之助に予め通知して昌之助・かつ、女中・婆やたちに外出してもらい、すき焼の材料をとり揃えて、用意だけして貰う。午後三時から、友人二、三人を連れて、すき焼を食べに行く。夜、昌之助とかつが婦ると、食べ散らかしたままになっていたのであきれる。金之助は、我儘だけれども傑物だという評判が立ち、昌之助・かつは喜ぶ。直克のほうでは、金之助を養子にやらなかったほうがよがったと残念に思い始める。(関荘一郎)」(荒正人『漱石研究年表』)


〈この時、漱石、大学予備門に在籍中〉

前年(明治17年)9月11日 漱石、子規、大学予備門(明治19年4月に第一高等中学校と改称)予科に入学。校長杉浦重剛、授業料1学期2円。同級に中村是公、橋本左五郎、芳賀矢一、山田美妙、菊地謙二郎、南方熊楠。


「首尾よく予備門に合格した。その入試のとき、彼は数学の問題だけは隣の人の答案を見て書いたと語っている(「一貫したる不勉強」)。隣の人とは成立学舎で一緒で、のちに札幌農学校(北海道大学の前身)教授となる橋本左五郎である。橋本は皮肉にもこの試験に落ち、再試験で合格はしたが、結局札幌農学校に行った。橋本とはのちに満州で出会い、旧交をあたためることとなる(『満韓ところどころ』)。金之助の「カンニング」を、橋本は自分が紙を机一杯に拡げでいたので、偶然見えたのだろうと回想している。」(岩波新書『夏目漱石』)


「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしてゐた事がある。其時は間代を払つて、隔日に牛肉を食つて、一等米を焚いて、夫で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵(こしら)へて、其中に浮かして食つた。十銭の牛を七人で食ふのだから、斯うしなければ食ひ様がなかったのである。飯は釜から杓つて食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余は此処で橋本と一所に予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本から教へて貰って、其御蔭でやつと入学した。所が教へた方の橋本は見事に落第した。」(『満韓ところどころ』)


「予備門では柴野(のち養子になり中村)是公や、芳賀矢一(一緒の船でヨーロッパへ留学)らと親しくなった。特に是公は、太田達人とともに生涯の親友で、後に南満洲鉄道(満鉄)総裁として名士となった。太田は成立学舎以来の友人で、東大物理学科を卒業後、地方の中学校長を歴任したので、是公のように華やかな経歴は持たないが、温厚篤実で、金之助とは気が合ったらしい。」(岩波新書『夏目漱石』)


「七人男たちの内で、大学予備門に進学したのは、紅葉、漱石、子規、熊楠の四人である。

紅葉だけが一足早く明治十六年九月。他の三人は、翌十七年の九月のことである。

このあたりになると、徐々に、七人男たちの、人生の、歩み方や生き方の違いが見えはじめてくる。大学予備門への進学が、その一つの大きな別れ道となる。ただし大学予備門に進学した四人も、ふつうのエリートとしての道を歩もうとはしなかった。四人の中で、大学予備門(在学中に第一高等中学校と名称変更)、そして帝国大学という学習コースをまっとうできたのは夏目漱石一人だけだった。」(『七人の旋毛曲り』)


〈予備門時代の漱石、子規、熊楠、紅葉、美妙〉


「山田美妙斎とは同級だったが、格別心易うもしなかった。正岡とは其時分から友人になった。一緒に俳句もやった。正岡は僕よりももつと変人で、いつも気に入らぬ奴とは一語も話さない。孤峭な面白い男だった。どうした拍子か僕が正岡の気に入つたと見えて、打ち解けて交るやうになった。上級では川上眉山、石橋思案、尾崎紅葉などがゐた。紅葉はあまり学校の方は出来のよくない男で、交際も自分とはしなかつた。それから暫くすると紅葉の小説が名高くなり出した。僕は其頃は小説を書かうなんどとは夢にも思つてゐなかつたが、なあに己だつてあれ位のものはすぐ書けるよといふ調子だった。」(漱石「僕の昔」)


笠井清『南方熊楠』には、美妙に対する熊楠の追慕の一文が引用されていて、その中で熊楠は美妙のことを「美妙斎と称せし名にそむかず白皙紅顔の人なりき」と回想している。


「ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなった。この人はその後間もなく美妙斎として世に名のつて出た。」(子規『墨汁一滴』)


12月(第一学期)の成績表(『漱石全集』月報、第十号、岩波書店、一九三六年八月)によれば漱石は塩原金之助の名で第四級(奨学生徒)に出ている。その成績表の表題は「明治一七年一二月(第一学期)東京大学予備門前本学第一、二、三級、及び第四級生徒試業優劣表」となっている。それによると平均点七三点で一一七人中二二番から順に漱石、芳賀矢一(国文学者)、小城齊(ひとし)と続いている。数学においては、小城は級のほぼ最上位を占めているが、彼の六女川瀬増子の記憶では、学生時代、夏目君から英語を習い、自分は数学を教えた、という話を父からよく聞かされたのを覚えているという。


1月6日

「秘聞録」の続編「傑士烈女魯国虚無党列伝」(「自由新聞」)

1月8日

この日付け子規(18)の竹村鍛宛ての手紙に子規の最も古い俳句がある。


「雪ふりや棟の白猫声ばかり」


1月9日

立木兼善仲裁により横浜の名望家海老塚四郎兵衛に伴われ武相困民党須長漣造・若林高之助(26)・佐藤昇之輔(18)・金子邦重、県庁に出頭。翌10日、県令邸に招かれ、解党申付けられる(県令邸には原田東馬も同席)。

須長漣造:

嘉永5(1852)年生。明治5年谷野一村戸長(20)。12年谷野など4ヶ村戸長。17年6月新聨合村制度により、隣村留所村の青木鎮郷に戸長職が移り、戸長辞任(32)。12年田畑・山林・宅地20町歩の豪農(自営農型)。19年には八王子不在地主の小作人に転落。23年前自由党幹部・東海貯蓄銀行頭取成内頴一郎と前自由党員・武蔵野銀行副頭取鈴木芳良の小作人(困民党と自由党のアイロニーが象徴される)。12年頃から武蔵野銀行など十数の債主と金融取引。15年は5度に分けて594円の借入れ(営業・納税資金、村民の滞納税立替など)。17年村の6割が税滞納か高利貸・銀行の追及を受ける状況。

1月14日には、相模原大沼新田に農民終結後県庁へデモ。原町田村漆谷付近で警官と衝突。首謀者、凶徒嘯衆罪逮捕。武相困民党解散

総監督中島小太郎、若林高之助、佐藤昇之輔、金子邦重、渋谷雅治郎、石井浅次郎らが拘引。須長漣造は2月に逮捕、18年7月横浜軽罪裁判所で無罪判決、出獄。須長は出獄後も村に残り、「年賦党ノ跡片付」のため債主との交渉継続。若林・佐藤は横浜で開業(佐藤は金貸・銀行を営む)。須長はやがて行商人となり九州~四国~北陸と歩き続ける。

権力側は若林らの動きを十分察知し(細野らの内報により)徐々に追詰め、一方で下部大衆を煽動し(その時点で、幹部は大衆から浮き上がる)、暴発一歩前で幹部逮捕、組織壊滅を図る?

2月17日、武相困民党、9・5事件判決。塩野倉之助・小池吉教、軽懲役6年など215名全員有罪。自由党広徳館の代言人小林幸二郎は公判で小池の弁護を担当。1審後は塩野のために「上告趣意書」を起草。自由党員細野喜代四郎ら仲裁人は負債党鎮撫に協力したとして神奈川県令沖守固より感謝状・記念品貰う。


1月9日

漢城条約調印(明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後約定)。特派全権大使井上馨、金弘集全権と甲申事変善後処理。朝鮮政府は国書により日本に謝罪。死傷者に賠償金11万円支払・犯人処罰・日本公使館再建を約束。同日付けで竹添公使召喚。

井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使宛て機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となったことを認め、交渉で事実究明を行ったならば「我行為の不是を表証するに均」しく、「我公使の体面を損し、主客其地位を顚倒」するおそれがあるので、朝鮮政府に対する「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べる。

1月10日

「東京横浜毎日新聞」、脱亜的条約改正論を批判。「清韓ニ対シテ得ルノ栄誉ハ亜細亜ノ一方ニ局スル者ニシテ世界ニ共認セラルゝノ栄誉ニ非ルナリ」と。しかし、大勢は脱亜的条約改正の方向に向っている。

1月17日

静岡県農民騒擾。1883年冬から騒動があいつぎ、この年2月駿東・君沢両部60ヶ村の借金党の農民1500人が伊豆銀行などに押しかける。3月4郡85ヶ村で借金党が成立するが、4月以後衰微。

1月17日

大杉栄、香川県丸亀市に生れる。大杉東(あずま)、豊(とよ)の長男。(戸籍は5月17日)

父は愛知県東海郡大字宇治の出身、旧家の三男で、志願兵となって兵卒から将校に進んだ篤実努力の人。栄の誕生の時は丸亀連隊の少尉。


つづく


【年表INDEX】

大杉栄とその時代年表(2) 1885(明治18)年 1月~3月 北原白秋が柳川に生れる 尾崎紅葉(18)が山田美妙・石橋思案らと硯友社結成 漱石と太田達人との交流 福沢諭吉「脱亜論」発表(「時事新報」)

大杉栄とその時代年表(3) 1885(明治18)年 4月~5月 中里介山・宮崎郁雨・正力松太郎・野上弥生子・武者小路実篤、誕生 尾崎紅葉『我楽多文庫』創刊 「全国的な飢饉ー酸鼻の極、草根木皮をかじり死馬を食う」(朝野新聞) 漱石、江の島へ徒歩遠足

大杉栄とその時代年表(4) 1885(明治18)年 6月~7月 大杉栄一家、東京府麹町区番町に移る 明治大洪水 子規(18)落第 漱石(18)遠泳参加 幸田露伴(18)北海道余市に赴任 都市下層民の「餓鬼道地獄」現出(「朝野新聞」) 『女学雑誌』創刊

大杉栄とその時代年表(5) 1885(明治18)年 8月~9月 子規、帰省中に秋山真之と親しくなる 木下杢太郎・若山牧水・鈴木文治生れる 逍遙(26)「小説神髄」 漱石、虫様突起炎を患い、実家に戻る 子規と熊楠

大杉栄とその時代年表(6) 1885(明治18)年10月~12月 東海散士(柴四朗)「佳人之奇遇」 山下奉文生まれる 植木枝盛「廃娼論」 大阪事件発覚 幸徳秋水(15)、仮釈放の林有造を訪問 大政官制廃止、内閣官制導入  熊楠、大学予備門の期末試験に落第

大杉栄とその時代年表(7) 1886(明治19)年1月~2月 子規、野球に熱中する 川上音二郎出獄 斎藤緑雨「善悪押絵羽子板」 二葉亭四迷、東京商業学校を退学し坪内逍遥を訪問 平塚らいてう・石川啄木生まれる 幸徳伝次郎(16、秋水)、板垣退助歓迎の宴に出席

大杉栄とその時代年表(8) 1886(明治19)年3月~4月 松井須磨子生まれる 物集高見『言文一致』 坪内逍遙「内地雑居未来の夢」 二葉亭四迷「小説総論」 宮武外骨『屁茶無苦新聞』(発禁) 一葉(14)の復学断念

大杉栄とその時代年表(9) 1886(明治19)年5月~6月 末広鉄腸「夢ニナレナレ」(のち「二十三年未来記」と改題) 全米労働者、8時間労働・8時間休息・8時間教育求めデモ(メーデーの発端) 高村智恵子・石坂泰三・岡本一平生まれる 雨宮製糸場女工ストライキ

大杉栄とその時代年表(10) 1886(明治19)年7月~8月 坪内逍遥(27)、加藤センと結婚 漱石、腹膜炎に罹る(留年) コレラ流行 谷崎潤一郎生まれる 徳富蘇峰(23)と植木枝盛(29)が高知で会う 一葉、萩の舎に入門

大杉栄とその時代年表(11) 1886(明治19)年9月 「郵便報知」の大改革 漱石、江東義塾の教師となり、寄宿舎に転居 吉井勇生まれる 一葉、田邊花圃と出会う 

大杉栄とその時代年表(12) 1886(明治19)年10月~12月 関西法律学校開校 ノルマントン号事件 藤田嗣治・大川周明生まれる 米山保三郎が正岡子規を訪問 子規は2歳年下の米山の博識に「四驚」を喫する 『我楽多文庫』活版第1号 基督教婦人矯風会発会 南方熊楠(19)渡米

大杉栄とその時代年表(13) 1887(明治20)年1月~2月 一葉(15)日記「身のふる衣 まきのいち」(稽古歌会を記録) 葛西善蔵生まれる 一葉(15)、新年発会で第一等の点を取る  徳富蘇峰「国民之友」第1号

大杉栄とその時代年表(14) 1887(明治20)年3月~4月 中山晋平生まれる 啄木一家、渋民村に転住 宮武外骨(21)『頓智協会雑誌』発行 伊藤首相官邸で大仮装舞踏会開催 伊藤博文(47)と戸田伯爵夫人極子(31)のスキャンダル報道

大杉栄とその時代年表(15) 1887(明治20)年5月~6月 板垣退助・後藤象二郎・大隈重信・勝海舟に伯爵辞令 伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎ら憲法草案検討に着手 長崎造船所、三菱に払い下げ 二葉亭四迷(25)「浮雲」

大杉栄とその時代年表(16) 1887(明治20)年7月~8月21日 子規(21)俳諧を学び始める 井上外相の対英軟弱外交(条約改正案)非難 江口渙・山本有三・片山哲・重光葵・荒畑寒村生れる 明治憲法「夏島草案」完成 養子に出した漱石の夏目家への復籍交渉 幸徳伝次郎(17)故郷中村出奔

大杉栄とその時代年表(17) 1887(明治20)年8月25日~9月 幸田露伴、勤め先の北海道余市から東京へ逃げる(途中徒歩200km) 漱石、予科一級に進む 子規、第一高等中学校予科進級 漱石、急性トラホームを患う

大杉栄とその時代年表(18) 1887(明治20)年10月~11月16日 後藤象二郎、丁亥倶楽部結成、大同団結運動に乗り出す 植木枝盛、三大事件建白書起草 旧自由党派「三大事件建白派」、独自の動き開始

大杉栄とその時代年表(19) 1887(明治20)年11月18日~12月 山田美妙『花の茨、茨の花』 坪内逍遥(29)、宮武外骨(21歳)の仲介によって依田学海(55)に初めて会う 子規、野球に興じる(『筆まかせ』「愉快」) 保安条例施行(自由党関係者、東京から追放) 一葉(15)の長兄泉太郎没

大杉栄とその時代年表(20) 1888(明治21)年1月~2月 漱石(21)夏目家に復籍 時事通信社創立 中江兆民「警世放言」(「東雲新聞」) 星亨ら秘密出版で投獄 大隈重信外相就任 一葉、家督を相続し戸主となる

大杉栄とその時代年表(21) 1888(明治21)年3月~4月 各地に女学校創設の気運 三宅雪嶺ら雑誌『日本人』創刊 「市制」「町村制」公布 第2代内閣黒田清隆内閣成立

大杉栄とその時代年表(22) 1888(明治21)年5月~6月 「朝日新聞」(村山龍平)、「めざまし新聞」(星亨)を買収 小泉信三・安井曾太郎・神近市子生まれる 一葉(16)一家、兄虎之助の借家に同居 大同団結運動機関誌「政論」創刊  田邊花圃『薮の鶯』発表 一葉に強い影響を与える 一葉の父・則義、事業失敗 松岡好一「高島炭坑の惨状」

大杉栄とその時代年表(23) 1888(明治21)年7月~8月 漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業 子規ら、長命寺境内の桜餅屋月香楼で夏休みを過す 子規『七艸集』完成 「東京朝日新聞」発行 里見弴生まれる 磐梯山大爆発 子規(21)、江の島で喀血 二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」 三池炭鉱を三井組へ払下げる

大杉栄とその時代年表(24) 1888(明治21)年9月~10月 森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国 漱石・子規(21)、第一高等中学校本科第一部(文科)進学 二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」 皇居落成 ゴーギャンとゴッホの共同生活 スエズ運河条約締結

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る

大杉栄とその時代年表(26) 1889(明治22)年1月 漱石(22)の新たな決意 漱石と子規の出会い 石原莞爾生まれる 「大阪公論」社説、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる

大杉栄とその時代年表(27) 1889(明治22)年2月 幸田露伴『露団々』 石橋正二郎生まれる 大日本帝国憲法発布 「吾人は直に憲法の改正を請はざる可らず」(幸徳秋水「兆民先生」) 森有礼暗殺 大赦令公布 衆議院議員選挙法公布 陸羯南、新聞「日本」創刊 大隈外相、アメリカと条約改正調印 宮武外骨、「骸骨が研法を下賜する図」により重禁錮3年罰金100円

大杉栄とその時代年表(28) 1889(明治22)年3月~4月 岡本かの子・和辻哲郎・チャップリン・ヒトラー生まれる 光緒帝(19)親政 森鴎外(27)結婚 後藤象二郎入閣 エッフェル塔完成 北村透谷「楚囚之詩」 尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』

大杉栄とその時代年表(29) 1889(明治22)年5月1日~22日 第一高等中学校に国粋主義を標榜する結社(漱石・子規、加入するも積極的行動はとらず) 子規『七艸集』脱稿 大同団結運動分裂 子規喀血 「卯の花をめがけてきたか時鳥」 「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を作り、以後「子規」と号す 漱石、子規を見舞い、のち子規を励ます手紙を書く

大杉栄とその時代年表(30) 1889(明治22)年5月25日~31日 漱石、子規『七艸集』評で初めて「漱石」と署名 山本宣治・内田百閒生まれる 大杉栄(4)一家、東京麹町から新潟県北蒲原郡新発田本村へ移る

大杉栄とその時代年表(31) 1889(明治22)年6月 稲から米が出来るのを知らなかった漱石 漱石、学年試験・宿題などの子規の問い合わせに答える 「東京朝日」、大隈条約改正反対を表明 三木露風生まれる

大杉栄とその時代年表(32) 1889(明治22)年7月 一葉(17)の父、病没 与謝野鉄幹、徳山女学校教師となる 東海道線全線開通 子規帰省 子規、 河東碧梧桐にキャッチボールを指導 陸羯南の新聞「日本」、「条約改正論熱度表」掲載

大杉栄とその時代年表(33) 1889(明治22)年8月 室生犀星・石井光次郎生まれる 漱石(22)、房総を旅行 二葉亭四迷(25)内閣官報局雇員となる

大杉栄とその時代年表(34) 1889(明治22)年9月 志賀直哉(6)、学習院予備科6級(のち初等科1年)入学 子規「啼血始末」執筆 幸田露伴『風流仏』 漱石(22)、房総旅行の漢詩文紀行『木屑録』脱稿し、松山の子規に送る  子規は跋文を書きこれを絶賛  漱石・子規、第一高等中学校本科一部二年(三之組)に進級 子規上京

大杉栄とその時代年表(35) 1889(明治22)年10月 鴎外『しがらみ草子』創刊 緑雨「小説八宗」 中江兆民・幸徳伝次郎、東京で活動再開 子規「水戸紀行」 大隈襲撃・重症(玄洋社社員来島恒喜がダイナマイト投擲) 黒田清隆首相辞任 条約改正延期

大杉栄とその時代年表(36) 1889(明治22)年11月 漱石「山路観楓」 久保田万太郎生まれる 子規「言志会」をおこす 黒岩周六「都新聞」主筆 中江兆民「自由党諸子の大会に就て」 帝国大学文科大学ベース・ボール大会(子規ら参加)

大杉栄とその時代年表(37) 1889(明治22)年12月 坪内逍遥・尾崎紅葉・幸田露伴、読売新聞社入社 子規「ボール会」設立 饗庭篁村、東京朝日新聞社入社 漱石と子規の論争(「オリジナルの思想」と「文章」をめぐり) 愛国公党設立決定(板垣・植木) 中江兆民上京 第1次山県内閣(後藤・陸奥閣内)

大杉栄とその時代年表(38) 1890(明治23)年1月 森鴎外『舞姫』 子規『銀世界』 日本最初の文士劇 富山で米騒動(4月からは他地域にも波及) 現存する一番古い子規の漱石宛書簡 再興自由党結成

大杉栄とその時代年表(39) 1890(明治23)年2月~3月 徳富蘇峰「国民新聞」創刊 「東京朝日」急速に部数を伸ばす 北村透谷「時勢に感あり」 渋谷三郎・野尻理作が共に一葉一家から離れてゆく 丸の内一帯の三菱への払下げ決定  駿河台にニコライ堂が開堂(ジョサイア・コンドル設計) 南方熊楠、博物学を本格的に志す 子規、常盤会寄宿舎のベースボール大会(第4回)を決行

大杉栄とその時代年表(40) 1890(明治23)年4月 「新作十二番」(春陽堂) 第三回内国勧業博覧会 『博覧会他所見の記』(読売新聞 逍遥・紅葉・露伴) 皇紀2550年を記念して橿原神宮が創建 民事訴訟法・商法公布

大杉栄とその時代年表(41) 1890(明治23)年5月~6月 郡制・府県制公布 欧米各地で世界初のメーデー 愛国公党組織大会 雑誌『江戸むらさき』創刊 鴎外(28)陸軍二等軍医正 佐渡相川暴動

大杉栄とその時代年表(42) 1890(明治23)年7月 チェーホフのサハリン島調査 第1回衆議院議員選挙(民党が過半数なるも大合同ならず) 紅葉『伽羅枕』 漱石・子規、第一高等中学校本科及落 露伴「造化と文学」 東京でコレラ(~11月) 集会及政社法公布 ゴッホ(37)没

大杉栄とその時代年表(43) 1890(明治23)年8月 鴎外『うたかたの記』 子規と虚子の出会い 子規、大津に旅行 再興自由党・愛国公党・九州同志会・大同倶楽部解散 厭世的な気分に陥る漱石 子規の励ます手紙に傷つく漱石(のち子規はこれを謝罪) 箱根に滞在する漱石 渡良瀬川沿岸大洪水

大杉栄とその時代年表(44) 1890(明治23)年9月 坪内逍遥(31)、東京専門学校の文学科新設に尽力 尾崎紅葉、東京帝国大学退学 漱石、東京帝国大学文科大学英文科に入学 子規は哲学科に入学 立憲自由党結党大会

大杉栄とその時代年表(45) 1890(明治23)年10月~11月23日 鴎外(28)離婚 星亨帰国、立憲自由党入党 初代貴族院議長伊藤博文 帝国ホテル開業

大杉栄とその時代年表(46) 1890(明治23)年11月25日~12月 第1回帝国議会召集 山県首相は対外進出・軍拡の必要性を強調 「国会」創刊 犬養毅・尾崎行雄ら「朝野新聞」退社 ウンデッド・ニーの虐殺

大杉栄とその時代年表(47) 1891(明治24)年1月~2月 鴎外『文づかひ』 博文館「少年文学」叢書 内村鑑三不敬事件 帝国議会議事堂全焼 子規、帝国大学文科大学哲学科から国文科に転科 土佐派の裏切り(立憲自由党脱党) 中江兆民議員辞職(「無血虫の陳列場」)

大杉栄とその時代年表(48) 1891(明治24)年3月 子規と虚子の文通始まる  河東碧梧桐上京 尾崎紅葉の結婚 川上音二郎(27)、横浜伊勢崎町の蔦座で「オッペケペ」上演 ニコライ堂開堂 立憲自由党、自由党と改称 子規の房総旅行

大杉栄とその時代年表(49) 1891(明治24)年4月1日~15日 大杉栄(6)、新発田の尋常小学校入学 南方熊楠、フロリダに向かう(その後、キューバ~ハイチ~ベネズエラ) 一葉日記(「若葉かげ」)始まる 一葉、半井桃水を訪問、以後頻繁に訪問

大杉栄とその時代年表(50) 1891(明治24)年4月18日~30日 漱石、子規の房総旅行の紀行文に感激する 子規、哲学の試験準備が全く手につかない 一葉、桃水より新聞小説(通俗小説)の手ほどきを受ける

大杉栄とその時代年表(51) 1891(明治24)年5月 カーネギーホール開場 松方正義内閣成立 大津事件(警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)がロシア皇太子を斬付ける) 田山花袋、尾崎紅葉を訪問 ミルン一座、「ハムレット」上演(浜ゲーテ座)

大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる

大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山

大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士

大杉栄とその時代年表(55) 1891(明治24)年9月 田中正造の日記に「鉱毒」が出始める 上野・青森間鉄道全通 硫黄島を日本領とする 子規、ようやく追試に及第 一葉日記「蓮生日記」と改題 津田三蔵(38)獄死

大杉栄とその時代年表(56) 1891(明治24)年10月 中嶋歌子に見て貰うための小説創作に苦労する一葉 一葉と妹くにが開橋したばかりのお茶の水橋を見に行く 近衛文麿生まれる 泉鏡花(18)、紅葉に弟子入り 逍遥(32)『早稲田文学』(第一次)創刊 濃尾地震(死者7,273) 桃水の勧めで筆名「一葉」を使い始める

大杉栄とその時代年表(57) 1891(明治24)年11月 雑誌「足利之鉱毒」創刊・たちまち発禁 露伴『五重塔』 漱石・子規「気節」論論争 「人なき小室の内に、長火桶一ッ間に置てものがたりすることよ .....、あやしかるべき身にも有哉。ましてかたみに語り合ふことなどいとまばゆしかし」(一葉「よもぎふ日記」)

大杉栄とその時代年表(58) 1891(明治24)年11月 瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』の中の「日記の謎」について(なぜ、一葉は明治24年11月24日の日記を途中で処分したのか?)

大杉栄とその時代年表(59) 1891(明治24)年12月 漱石、『方丈記』英訳・解説 逍遥・鴎外の没理想論争 子規、小説「月の都」の執筆着手 子規、「俳句分類丙号」着手 広津和郎生まれる 田中正造、第2議会に「足尾銅山鉱毒の儀につき質問」

大杉栄とその時代年表(60) 1892(明治25)年1月~2月 南方熊楠、西インド諸島巡回からフロリダ州ジャクソンビルに戻る 伊藤博文、新党結成に動く 堀口大学・西条八十生まれる 子規、小説「月の都」脱稿 一葉(20)結核発現の最初の兆候 植木枝盛(35)没 足尾の鉱毒被害者示談工作進む 幸田露伴と根岸派の人々

大杉栄とその時代年表(61) 1892(明治25)年2月1日~2月4日 子母沢寛生まれる 出口ナオ(57)大本教開教 一葉、桃水より同人誌『武蔵野』発刊の計画を聞かされる 「種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一篇あまばやの腹稿なる」

大杉栄とその時代年表(62) 1892(明治25)年2月5日~29日 一葉「闇桜」完成 第2回衆議院総選挙(大干渉にも拘らず民党勝利) 日本初日刊紙「東京日日新聞」(現毎日新聞)創刊 伊藤博文、新党結成断念表明・枢密院議長辞職撤回 子規の小説「月の都」、露伴からも四迷からも評価されず

大杉栄とその時代年表(63) 1892(明治25)年3月 芥川龍之介・野坂参三生まれる 一葉「闇桜」(『武蔵野』第1編) 一葉「別れ霜」(『改進新聞』) 試験が近づいても勉強に身が入らない子規

大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う

大杉栄とその時代年表(65) 1892(明治25)年5月 田中正造、再び鉱毒事件質問状提出(第3議会) 漱石、東京専門学校(現・早稲田大学)講師 一葉「五月雨」完成 池辺三山(28)パリに向かう 子規「かけはしの記」(『日本』)

大杉栄とその時代年表(66) 1892(明治25)年6月 一葉(20)、桃水との仲を噂され歌子の助言もあり桃水との師弟関係を絶つ 花圃の仲介により「都の花」への作品掲載の話が纏まる(文学的転機) 子規「獺祭書屋俳話」(『日本』38回)

大杉栄とその時代年表(67) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅰ) 一葉と桃水の恋愛関係は人々の噂になりつつあった 借金申し込みに見える一葉日記の小説的創作要素 一葉に対する桃水の経済的支援

大杉栄とその時代年表(68) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅱ) 一葉の桃水に対する疑惑、耳打ちされる「醜聞」 伊東夏子、師匠の中嶋歌子から桃水と手を切るように忠告される一葉

大杉栄とその時代年表(69) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅲ) 一葉、桃水に師弟関係解消を申し出る 後悔する一葉 文学者としては必然のめぐり逢いであり別離であった

大杉栄とその時代年表(70) 1892(明治25)年7月1日~16日 漱石、文科大学貸費生(年額70円) 漱石・子規の京都旅行(後半、漱石は岡山へ、子規は松山へ)、帰途に再度京都へ 一葉、花圃の仲介で『都の花』への小説掲載決まる 「松山競吟集」第1回

大杉栄とその時代年表(71) 1892(明治25)年7月17日~8月8日 子規、松山で落第通知を受け取る 漱石、子規の退学決意を引き留める手紙 「松山競吟集」第2~5回 漱石、岡山洪水に遭遇 一葉「五月雨」(『武蔵野』第3編) 松方内閣総辞職 第2次伊藤内閣(元勲内閣、挙国一致) 鉄幹(19)本郷駒込吉祥寺に寄宿

大杉栄とその時代年表(72) 1892(明治25)年8月10日~24日 漱石、岡山から松山に子規を訪ね、虚子・碧梧桐らに会う 一葉の桃水宛て手紙 一葉一家を裏切った渋谷三郎が一葉宅を訪問 一葉との結婚話は母がそれを断る

大杉栄とその時代年表(73) 1892(明治25)年8月26日~9月30日 漱石・子規、松山から東京に戻る 熊楠、ニューヨークからロンドンに移る 松原岩五郎、国民新聞社入社 一葉、「うもれ木」完成 規と漱石、逍遥を訪ねる 子規『早稲田文学』俳句欄担当

大杉栄とその時代年表(74) 1892(明治25)年10月1日~25日 子規、大磯で転地保養 漱石『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』 子規「大磯の月見」「旅の旅の旅」 一葉「経つくゑ」

大杉栄とその時代年表(75) 1892(明治25)年10月26日~11月6日 子規、東京帝大退学 子規「日光の紅葉」「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」「第六回文科大学遠足会の記」 黒岩周六(30)「萬朝報」発行 大井憲太郎、東洋自由党結成

大杉栄とその時代年表(76) 1892(明治25)年11月9日~17日 子規、京都で虚子と紅葉狩り 子規、神戸で母八重・妹律を迎え京都見物をして共に東京に帰る 一葉、桃水と再会 宮武外骨、石川島刑務所を出獄 

大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件

大杉栄とその時代年表(78) 1892(明治25)年12月1日~28日 漱石「中学改良策」 子規『海の藻屑』『笑話十句』(『日本』俳句時事評) 漱石、東京専門学校講師退職を決意(その後撤回) 一葉、花圃を介して『文学界』への寄稿を依頼される 一葉一家、「朧月夜」原稿料で久々の安らかな年末

大杉栄とその時代年表(79) 1893(明治26)年1月1日~31日 子規と漱石、坪内逍遥を訪問 一葉(21)「雪の日」完成 漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」講述(「哲学雑誌」掲載) 「文学界」創刊 日比谷公園開園

大杉栄とその時代年表(80) 1893(明治26)年2月1日~28日 北村透谷・山路愛山「人生相渉る」論争 子規、『日本』に俳句欄を設ける 時局救済に関する詔勅 「恋はあさましきもの成けれ。」(一葉日記) 一葉(21)「暁月夜」(『都の花』第101号)

大杉栄とその時代年表(81) 1893(明治26)年3月1日~31日 宮武外骨『文明雑誌』創刊 一葉(21)のもとに平田禿木(2歳)が来訪(初めて会う『文学界』同人) 子規「文界八つあたり」(新聞『日本』連載) 一葉、「糊口的文学」から訣別しようと決意

大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版)

大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉)

大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」)

大杉栄とその時代年表(86) 1893(明治26)年7月1日~12日 「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮併呑を主張 一葉、萩の舎の会に参加するための着物を売却して手元資金に充てる 漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業、帝国大学大学院に進学 狩野亨吉との交際が始まる

大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(88) 1893(明治26)年7月19日 漱石の友人小屋保治が大塚楠緒子と見合い 子規の東北旅行(1) 各地の有力な俳諧宗匠を訪ねて俳話を楽しむという目的は期待外れ 

大杉栄とその時代年表(89) 1893(明治26)年7月19日 子規の東北旅行(2) 「松島の心に近き袷(あわせ)かな」 「秋風や旅の浮世のはてしらず」 「われは唯旅すゞしかれと祈るなり」

大杉栄とその時代年表(90) 1893(明治26)年7月19日~30日 子規の東北旅行(3) 鮎貝槐園との交歓 旅費の工面 商材仕入れのための5円の金が手元にないと歎く一葉 黒田清輝、フランス留学から帰国

大杉栄とその時代年表(91) 1893(明治26)年8月1日~11日 漱石、就職の目途がつかず落ち着かない日々を過ごす 龍泉寺での一葉の荒物店開店(すぐに駄菓子もおくようになる) 一葉が買い出し、妹邦子が店番 一葉、幼年時代を顧る

大杉栄とその時代年表(92) 1893(明治26)年8月12日~9月28日 8月下旬~9月上旬、一葉、頭痛で寝込む日がしばしばある 漱石、東京専門学校講師 一葉、商売は軌道に乗り、売り上げは順調だが、利益は厳しい

大杉栄とその時代年表(93) 1893(明治26)年10月1日~31日 漱石(26)東京高等師範学校(英語嘱託) 一葉、店は邦子にまかせ連日図書館に通う 一葉日記「塵中日記 今是集」 平田禿木が一葉を再び来訪、『文学界』との関係が復活  「二六新報」発刊(社主秋山定輔)

大杉栄とその時代年表(94) 1893(明治26)年11月1日~25日 明治座開場 チャイコフスキー(53)没 子規「芭蕉雑談」 森鴎外(31)陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員 一葉、買い出しと図書館通いの毎日 「琴の音」成稿

大杉栄とその時代年表(95) 1893(明治26)年11月26日~12月31日 第5議会、星亨除名決議可決 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ」(一葉日記) 一葉、ぎりぎりの金策の末、どうにか年越しができる

大杉栄とその時代年表(96) 1894(明治27)年1月1日~31日 三菱1号館竣工 一葉の店の向い側に同業が開店 星野天知(32)が始めて一葉を訪問 「男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(97) 1894(明治27)年2月1日~11日 子規、終の住処「子規庵」へ転居 一葉(22)の年始廻り 絵入り新聞『小日本』創刊(編集主任子規) 子規の月給は30円に上がる 不評だった小説「月の都」掲載

大杉栄とその時代年表(98) 1894(明治27)年2月14日~25日 朝鮮で古阜民乱 商売は行き詰まった一葉の捨て身の行動(久佐賀義孝から援助を引き出す工作) 「「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」

大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号)

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典

大杉栄とその時代年表(102) 1894(明治27)年3月12日~27日 馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問、一葉は好意的評価 一葉、久佐賀に物質的援助を請う 子規『一日物語』  一葉、転居費用調達と桃水訪問

大杉栄とその時代年表(103) 1894(明治27)年3月28日~4月 日本に亡命していた朝鮮の独立派政治家金玉均(44)が上海で暗殺される 全羅道で東学党蜂起 一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)日記を書かず

大杉栄とその時代年表(104) 1894(明治27)年4月1日~5月1日 対清強硬(戦争)論高まる 愛知県庁の工場労働者、「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態 一葉、丸山福山町に転居 「水の上」時代  「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来

大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死

大杉栄とその時代年表(106) 1894(明治27)年5月17日~31日 朝鮮駐在代理公使杉村濬の出兵上申 袁世凱、出兵準備を李鴻章に電請 参謀本部、出兵必要と決定 東学農民軍、全州占領。朝鮮政府は袁世凱に出兵救援を依頼 宗銀、内閣弾劾上奏案可決(総辞職か解散かを迫られる)

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内)

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える

大杉栄とその時代年表(111) 1894(明治27)年7月1日~8日 ラフカディオ・ハーン、五高を退職 イギリスの仲裁に清国が受け入れ難い項目を入れる(筋書き通り調停不調) 一葉、父方の従兄弟の死に衝撃を受ける 大鳥公使、朝鮮政府に改革綱領を提示 アメリカのプルマンスト鎮圧 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令


































大杉栄とその時代年表(145) 1895(明治28)年4月11日~13日 子規、遼東半島に上陸、金州に入る 「たまたま路の傍に一二軒の破屋がある。屋根も壁もめちやめちやにこはされてある。戦争の恐しさは今さらいふ迄も無いが此等の家に住んで居た人のゆくへを考へて見ると実に気の毒なものぢや」(「我が病」)










































トランプが免責ならウォーターゲート事件も「チャラ」だった──元ニクソン法律顧問 ; <「唖然とした」と、ニクソン元大統領の法律顧問だった弁護士が言うほど、今度の最高裁判決は「トランプ寄り」だった> — ニューズウィーク日本版

大杉栄とその時代年表(184) 1896(明治29)年3月16日~4月6日 子規、腰痛はリュウマチではなく脊椎カリエスだと知る 第一回のカリエスの手術 漱石の第五高等学校転任発表 星亨、駐米公使に任命

 

1896年アテネオリンピック(第一回オリンピック)開会式

大杉栄とその時代年表(183) 1896(明治29)年3月1日~15日 一葉の肺結核かなり進行 改進党を母体にして進歩党(党首大隈重信)結成 佐藤紅緑、子規庵句会に初参加 日本郵船、欧洲定期航路を開始 より続く

1896(明治29)年

3月17日

子規、往診にきたリュウマチの専門医に、これは結核菌が腰骨に食い入っているカリエスだと宣告される。

この日付け子規の虚子宛て手紙。


「子規の腰痛はリュウマチではなかった。それが脊椎カリエスであることを医者から知らされたとき、子規は、「五秒間」茫然としてわれを忘れ、やがてその自失状態のなかで、


「世間野心多き者多し。然れども余(お)れ程野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるゝ者多し。されど余れ程の大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句の上に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどそれさへも未だ十分ならず。縦(よ)し俳句に於て思ふまゝに望を遂げたりとも、そは余の大望の殆んど無窮大なるに比して僅かに零を値すのみ。」(三月十七日付虚子宛)


と思ったと記している。」(江藤淳『漱石とその時代1』)


「三月一七日、歩行の自由を失うまでになっていた腰痛について、リウマチ専門の医師の診断を受け、リウマチではなく結核によって骨質が破壊されるカリエスであることが明らかになり、子規は大きな衝撃を受ける。この診断を受けたときの衝撃を、帰省中の高浜虚子に同日付の手紙で知らせていた。医者から結核性脊髄炎という宣告を受けた子規は、自らの生きることの出来る時間が残り少ないことを、はっきりとつきつけられたのである。

医師が帰った後、「十分許り何もせず」という状態になるほど衝撃は強く重かった。そして、自分の社会的野心の強さを「余レ程の大望を抱きて地下に逝く者ハあらじ」と明言したうえで、「俳句の上」においては「多少」はその思いを実現しているものの、「余の大望」の「無窮大」に比べれば、「零」でしかないとも述べている。自分の絶望と落胆を子規は虚子に素直に告白している。同時にこの手紙の中で、高浜虚子や河東碧梧桐らがつくった回覧小説集『菜花集』に収められている虚子の『糊細工』という小説を読んで、「一切の事物を忘れてしまふやう」な「笑ひ」によって「慰め」られたと記してもいる。文学的営為の中でこそ子規の生きる力が出て来るのだ。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

3月19日

午後2時、虚子庵で「俳譜散心」第1回開かれる。

3月23日

堀合節子、盛岡仁王尋常小学校卒業。早春の頃、伯父の許より盛岡市新築地二番地に住む従姉海沼ツヱの家に移る。当時ツヱは海沼家の戸主で、母のイヱ(啄木の伯母)と長男慶治と三人暮しであった。

3月24日

航海奨励法・造船奨励法、公布。大型鉄鋼汽船に対し奨励金を交付。

3月25日

田中正造、第9議会において永久示談の不当性を追及

3月25日

啄木(11)、盛岡高等小学校1年修業証書授与式。当時の成績は善、能、可、未、否の五段階で示されたが、啄木の修了成績は「学業善・行状善、認定書」の好成績であった。

3月26日

(旧暦3月3日)大刀会の劉士端、2度目の「唱戯」開催。山東省曹県西3kmの火神廟。4日間、5~6千人集合。知県・知府への威嚇・警告(強大な大刀会を討伐しようとする)。

「唱戯」の後、韓楼教会攻撃未遂事件。劉士端・曹徳礼らが曹県知府李銓と共同で曹県城南の韓楼の教会を攻撃し匿われている盗賊を捕らえようとする。曹州知府毓賢が知府李銓を説得したため、教会包囲威嚇で止まる。先に大刀会が盗賊岳二米子を討った時、残党が大挙して天主教の庇護のもとに走ったため(天主教は信者を増やすため無頼の徒も受入れる)。

3月26日

一葉、高瀬文淵から原稿の催促を受ける。

3月27日

子規、佐藤三吉医師の執刀によりカリエスの手術を受ける。


「二十七日佐藤三吉博士の執刀で第一回のカリエスの手術を行なう。佐藤は大垣藩士で、ベルリンで学び、当時、東京帝国大学の外科教授。子規の従弟藤野古白のピストル自殺の際も蘇生措置をほどこしたのはこの佐藤であった。この人も満十四歳で大学東校に入学しており、森鴎外より五歳年上である。当時としては一流の外科医であり、よく名前を見る。

碧梧桐が立ち会った。背中の隆起に銀色の管を突き刺す。そして中の膿を誘い出すが、場所が当ず、二度刺し替えた。しかし軽快感は一週間と保たず、刺したあとも癒着せずに穴から膿汁が出ていた。子規は一月歩けなかった。」(森まゆみ『子規の音』)

3月30日

愛媛県尋常中学校第4回卒業式。漱石の第五高等学校転任が発表される。

「自分は松山を去るものだ」と前置し、学問であろうが芸術であろうが、一苦労せねば出来上るものではない、と述べ、校長排斥運動をした生徒たちに警告を与える。

3月31日

拓殖務省官制・台湾総督府条例により台湾民政移行。

3月31日

臨時軍事費特別会計終結。陸軍13師団に拡張。

3月31日

一葉、戸川秋骨に手紙。秋骨が、小出粲に「うらわか草」の題字を書いてもらえるよう一葉経由で頼んできたが、一葉としては直接頼みに行くことができないので暫く待つように返事する。「うらわか草」は、「文学界」が大衆化するのに反抗して、同人幾人かで企画した雑誌。結局、一葉の依頼は通じて、小出は大きさの異なる何種類かの題字を書いてくれた。


4月

清国政府が日本への初の官費留学生を派遣

4月

史上初のキスシーンを描いた映画『M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻』公開

4月

星亨、駐米公使に任命され、翌5月、妻と養子の光を伴い、ワシントンへ出発。

星は土佐派主導の提携には不満だが、代議士数の少ない星派は劣勢で主導権回復は容易でない。彼は党運営に加われず、外国行きを希望、それは政府にとっても好都合。提携が伊東・林ラインで既定路線となった時点で、彼の存在はかえって危険。星にとってアメリカは3度目。日米間には重大な懸案事項はない。

4月

一葉、喉に腫れを覚える

4月

坪内逍遥(37)、創立された早稲田中学校の教頭となり、以後、倫理教育に情熱を注ぐ。

4月

中里弥之助(介山、11)、西多摩小学校高等科2年終了ののち、同校教員助手となる。少年夜学会を主宰。

4月

後藤宙外「小説界の前途」(「早稲田文学」)

4月

アンリ・マチス(27)、ソシェテ・ナシオナル・デ・ボザール展に4点の作品を発表。『読書する少女』が国家買い上げとなりランブイエ城に飾られる。また同展の準会員に推挙される。

4月1日

広島大本営解散

4月1日

堀合節子(後、啄木と結婚)、盛岡高等小学校入学。渋民村出身の金谷のぶを知る。

4月2日

朝鮮、高宗、ロシア公使館より宮廷に戻る

4月3日

イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ・デロ・スポルト」創刊

4月4日

森鴎外父静男、没。

4月4日

高野房太郎乗船マチアス号、済物浦(仁川)着

4月5日

一葉、高瀬文淵から、3日以内に「裏紫」続稿を送るよう差し即されるが、結局原稿は出来上がらず「新文壇」は5月で廃刊となる。

4月6日

アテネ、第1回オリンピック、開催。13ヶ国。~4月15日


つづく

2024年7月6日土曜日

大杉栄とその時代年表(183) 1896(明治29)年3月1日~15日 一葉の肺結核かなり進行 改進党を母体にして進歩党(党首大隈重信)結成 佐藤紅緑、子規庵句会に初参加 日本郵船、欧洲定期航路を開始 

 

佐藤紅緑

大杉栄とその時代年表(182) 1896(明治29)年2月17日~29日 「我れは女(をんな)なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか。」(一葉日記) 日本銀行本店完成 「当分確実なる見込つき候まで文学者生活御忍耐如何に候や、おん談ノ中ホノメキ候もの看取せられ候故、強て此事申上候」(横山源之助の一葉宛て手紙) より続く


1896(明治29)年

3月

河井酔茗編「詞藻」(少年園)

3月

大塚保治、ドイツ、フランス、イタリアに留学。

7月に長女雪枝が誕生。妻の楠緒子は声楽と英語を松野フリーグに学ぶが、結婚後は明治女学校で英語を聴講(2年間)。ピアノを音楽学校教授橘糸重子に、絵画を跡見玉枝、橋本雅邦に学ぶ。

保治の留守中、楠緒子は保治の実家、鮮馬県笹井で約1ヵ月間、結核の静養を兼ね過ごす。

3月

与謝野鉄幹、朝鮮より帰国。

3月

製鉄所官制、公布。翌年5月、福岡県八幡村に開庁して建設開始。

3月

グスタフ・マーラー、「交響曲ニ長調」のタイトルでベルリンで初演。4楽章版、「巨人」のタイトル削除。

3月

エジプト軍司令キッチナー、スーダン遠征開始。遠征軍2万5800人。

3月上旬

一葉、大橋乙羽より口絵付きの新作を急ぐように催促される。

「通俗書簡文」、「たけくらべ」の「文藝倶楽部」への一括再掲など、博文館との仕事が錯綜していたが、ここでは新作(「われから」)の口絵の締め切りが迫っているので、これを優先させた。

この頃から肺結核かなり進行。病床の中で「通俗書簡文」を執筆、5月初めようやく完成。同時に「われから」を執筆、難行の末、4月に脱稿。

3月1日

改進党中心に、自由党離党者を含め自由党諸派と、進歩党(党首大隈重信)結成。尾崎行雄、犬養毅らが総務委員。3月末時点の議席(300議席中)、自由党109、進歩党100、他91。

「進歩党の新発足を機に二十九年の朝日社論は大きく転換した。陰に陽に支援を惜しまなかった自由党を見限って、改進党を母体とする進歩党に支持を移したのである。三月初旬、大朝は社説「進歩党の前途」、「進歩党の名と実」などをかかげて好意ある期待を寄せた」(朝日新聞社史)。

自由党実力者星亨の機関紙「めさまし」を買収し、全社員を引き取って発足した「東朝」は自由党色が強いが、伊藤博文内閣と自由党の提携を境に、進歩党支持の色合いを強める。

3月1日

皇帝メネリク2世率いるエチオピア軍、アドワで伊軍と衝突、壊滅させる

3月1日

フィリピン、秘密結社カティプーナン機関誌「カラヤーン(自由)」創刊号発行。地方組織拡大の契機に。

3月2日

佐藤紅緑(本名洽六)、初めて子規庵の句会に参加


佐藤紅緑の子規との出会い(森まゆみ『子規の音』より)

明治7(1874)年生まれ。父佐藤弥六は慶応義塾に学んだ弘前の名士。東奥義塾、弘前中学に学び、同じ弘前出身、親戚筋の陸羯南を頼って明治26(1893)年春に上京し、陸家の玄関番を務めていた。国文学の研究をしたいという紅緑に、斜め前に住んでいる「正岡がよかろう」と陸がすすめたが、正岡は夏に東北へ旅行していてなかなか帰っては来なかった。

「それから秋の夕幕の頃である、書生部屋に灯を付けようと思って居たら、玄関に案内を乞うものがある。薄暗い中に立って居たのは肩の幅が広く四角で丈けは余り高くない顔は白く平ったい方の人間である」(別巻②佐藤紅綬「子規翁」)

案内も待たずにのこのこ中に入ろうとする。名前を聞くと「正岡です」とハッキリ答えた。

「此年の冬である。正岡さんでは謡(うたい)を始め出した。われわれの日曜日は向いでも必らず謡をやる。开(そ)は二人若(もし)くは三人で其中に一番低い声で一番まずいのは正岡さんだろうと玄関で専ら評判であった」近隣騒音というべきか。対抗して玄関番3人は庭で撃剣を始めた。

弱った子規は玄関番と仲良くなるにしくはないと思ったのであろう。「道濯山の樅(もみ)の枝に鳶が巣をくうて無数の烏が毎朝之れを攻囲するというから見に行きませんか」と丁重にさそった。紅綬は2人で出かけた。そのときに義経船繋ぎの松や道濯山の由来やらを聞いて大いに驚き、この人は「ものを知ってる」と感服した。兵児帯を締めた書生っぽい「正岡さん」が急にえらく見えた。ただし、義経船繋ぎは道灌の間違い。いまの日暮里青雲寺の岡の上に、遠く荒川を行き来する船が目印とした道濯舟繋松というものがあった。

その後、子規は陸邸を挟んで反対側の上根岸町82番地に転宅した。紅緑が手伝った。どんな本を持っているんだろう。行ってみると「第一に驚ろいたのは写本である」。すべて自分で写している。それに感心した。

「発句はどうですやりますか」と聞かれ、紅緑は「イヤやった事がありません。狂歌ならば好んで読む位の事です」。子規は色の黒い五百木瓢亭と顔を見合わして笑った。

やがて紅緑は日本新聞社に入社。そこに「小日本」が廃刊になって子規が戻って来た。隣の「正岡さん」は7歳年上だが、同僚「正岡君」になった。「極めて無頓着な粗暴な、構わぬ方で、始終懐手で其の懐には売卜者の如く古書やら反古やらを食(は)み出したままに詰め込んで居る」。着物の着方もだらしない。兵児帯もゆるく、大きな俎(まないた)下駄をはいて引きずるように歩く。給料袋はいつも机の上にそのままほったらかし、大食漢で原稿の上にはいつも焼芋、蜜柑、菓子があった。硯箱には釣り銭の銀貨、銅貨が散らばっていて、暑い時に氷を飲みたいと思えば同僚たちはその小銭の恩恵を被った。日清戦争の頃は宿直があり、紅綬は子規と折々同衾した。

明治27(1894)年9月19日、紅緑の俳句入門の日。子規は俳句をやれとは言わなかったが、どの句が面白い、とある時間いた。これがいいというと、ここがまずいと答えた。興味を持って紅緑は俳句を作り出した。雄渾壮大なのがいい、というので、「隣村の案山子もてくる野分かな」とやったら、これでも困ると笑った。

入門してからは「正岡先生」となった。しかし子規が先生と呼ばれるのを嫌がるので、翁と呼ぶことになった。

子規が腰が立たなくなってからは紅緑は根岸の家を訪ねる。しかし俳句を作って行かないといけない。これがたいへんだった。(ここまで引用は別巻②佐藤紅緑「子規翁」)

子規は紅緑の才能を買い、愚直な勉強ぶりを楽しみにしていた。

(森まゆみ『子規の音』要旨)

3月5日

漱石、子規に宛てて句稿を送る。正岡子規宛に句稿その十二を送る。102句。24日にも。正岡子規宛に句稿その十四を送る。40句。

3月5日

大杉栄(11)叔父大杉権九郎が亡くなる。「一日無理に学校をやすませられた」

3月13日

小田原・熱海間に人車鉄道開通。8人乗りの客車を3人の車夫が交替で押す。小田原から熱海まで3時間。小田原の停車場は早川口。「あたみに冬なし」と宣伝されたので、利用者も多い。

3月14日

明治29年度歳計予算(戦後経営の第1年度予算)公布。歳入1億3789万・歳出1億5218。

3月15日

日本郵船、欧洲定期航路を開始。

3月15日

山県有朋(57)、横浜港から出航、ロシア皇帝ニコライ2世即位戴冠式に参列。7月28日横浜に帰着。

3月15日

一葉、関如来より立教学校文学会が出している雑誌「八紘」に寄稿するように請われるが断る。昨年末、野々宮菊子との縁談がこわれて以降、如来からの原稿は断るようになっていた。


つづく

「取材で見ている感覚では、蓮舫氏が小池氏により近づいている、ないし、追い越しているのではないかという感じがする。」(望月衣塑子) / (7月5日イトシア前)「立候補表明した直後より10倍近く増えている。」(有田芳生) / 「今日までにソロポスターを掲げてくれた人はなんと述べ 2500 人を超えました。なんと皆さんが立ってくれた駅が 620を超えました。」(蓮舫) / 「こんな都知事選見たことなかったです。杉並区長選から始まった「1人街宣」が次に繋がった感じでとても素敵です。東京以外の場所でも実践してくれているようで、1人の都民としてみんなにありがとうって言いたい!」(株式会社明後日=小泉今日子)


〈ツイート全文〉

 蓮舫氏のイトシア有楽町街宣、蒲田駅前街宣を取材。柵を張り巡らせていた小池都知事とは段違いに人が来ていた。2,000人は軽く超えていただろう。共産党の小池晃幹事長は「蒲田駅前の街宣でこんなに人が集まったのは初めて」と驚いていた

明日7月6日は、自民党の萩生田前政調会長や茂木幹事長が都議補選の応援に入るとの話も。「もう頭も尻も隠さなくなった」と小池晃氏が言っていたが、自民党にも焦りの色がでている。

そして、そんな自民党に支援されている小池都知事は、今日7月5日のバスタ新宿での街宣では、市民の批判で数十秒ほど、演説が止まったと言う。これだけの事が起きているのに都庁クラブの記者会見は今日も凄まじくたるんでいた。マスメディアは腐ってると心底思う。

あんな会見しかできないのであれば、都庁記者クラブはなくなったほうがいい。よいしょ質問の数々、民主主義を冒涜しているとしか思えない。記者たちは、皆、恥ずかしくないのだろうか、怒りしかない。

市民の怒りが結集していた蓮舫氏の街宣。若い世代の苦しさ、子育て世代の苦しさ、介護保険負担など、中高年の苦しさ、生きづらさ、それをどう都政で変え、カバーしていきたいか、くまなく話していた。

人権や多様性は、国家より前に何よりも守られるべき権利だ。YouTuberの石丸伸二氏も小池氏の票をとっているようだが、取材で見ている感覚では、蓮舫氏が小池氏により近づいている、ないし、追い越しているのではないかという感じがする。






 

フリー記者を排除し、討論会も拒否する一方、都庁記者クラブ会見となればこの調子。自分に都合のいい質問を用意してくれてる子飼いの記者を必死に見つけ出して指名し、「うんうん」と満足そうにうなづきながら質問を聴く。 / 投票2日前に行われた都庁記者クラブの定例都知事会見でもプロジェクションマッピングや元栓を停止した水道水など、いま小池都政で批判が出ている問題は聞かれず、番記者からは「最も有権者に訴えたいことは?」と、小池都知事に選挙アピールをさせるための質問をする記者もいた。。。      

【前編】「都幹部14人が天下り」「三井不動産が儲けられるようにお膳立て」 東京都と同社の“癒着”に、現役都議は「これほど怪しい話はない」 / 【後編】「“松井秀喜監督誕生”と築地への本拠地移転を狙う読売」「晴海フラッグは9割引きで投げ売りされた」 東京都と三井不動産の“癒着”、驚愕の裏側とは(デイリー新潮) 

 



 

都知事選は、期日前投票で蓮舫さんに投票してきました。東京は変わるべきです。小池都政が続いていいはずがない。(平野啓一郎)

 

2024年7月5日金曜日

大阪万博「最悪の状況」と韓国メディアが批判も…触れられなかった「メタンガス爆発」レストランで火気禁止ほか悲しすぎる対策(FLASH);「開催まで290日を切った大阪万博。さまざまなトラブルやネガティブ情報が伝えられるなか、7月3日に配信された韓国・朝鮮日報の記事が話題を呼んでいる。「2兆ウォン投じた大阪万博の屈辱…前売りチケット販売は事前目標の9%」と題した記事だ。」    

小池知事が出席したのは『完全非公開』のある会合、実は『 自民党の「ステルス支援」 → 自民党 東京都連』が自民党を支援する各種業界団体に呼びかけた会合、ただ『自民党の文字』は会場のどこにも見当たらず、選挙戦最終盤、自民党色を消している小池氏自ら組織票固めに動いた形     

公務員たる地位を利用した選挙活動として、郷原信郎・上脇博之氏により小池百合子を被告人とする告発状が出された → 都知事定例会見は、東京都の知事としての「行政上の公務」を行う場、そこで、現職知事の政治活動としての選挙運動への反応を質問するのは、明らかに不適切。このテレ朝の記者は、どういう感覚をしているのだろうか。単なる小池氏の「広報係」か(郷原信郎) / 島根県 丸山達也 知事 「東京都知事選挙を、報道しないということを一生懸命、マスメディアがやっていると感じる。そういう意味で、異様な選挙戦」        

 

大杉栄とその時代年表(182) 1896(明治29)年2月17日~29日 「我れは女(をんな)なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか。」(一葉日記) 日本銀行本店完成 「当分確実なる見込つき候まで文学者生活御忍耐如何に候や、おん談ノ中ホノメキ候もの看取せられ候故、強て此事申上候」(横山源之助の一葉宛て手紙)   

 

大杉栄とその時代年表(181) 1896(明治29)年1月18日~2月15日 広島裁判所・軍法会議、全員無罪釈放 漱石、子規に宛てて句稿を送る 鴎外『めさまし草』創刊 子規、臥床の日が多くなる 一葉「裏紫」 朝鮮、親ロシア派クーデタ(俄館播遷) より続く

1896(明治29)年

2月17日

鴎外より虚子宛て書簡

「將來の事につきては御頼申度も有之候につき右あらかじめ御承知置被下度候めさまし草巻一二千部うり切れ再版中事務は盛春堂主人にあつかはせ」とある。


『めさまし草』創刊号が思いがけず2千部も売れ再版中であり、今後とも子規以下の日本派への俳句関連の記事を依頼する内容である

2月18日

ゴンパースより高野房太郎(27)に発信、オルグとして再任辞令送付

2月19日

ブルガリア公国フェルディナント公、息子ボリス(2)をギリシャ正教に改宗、ロシア露承認

2月20日

この日より一葉の日記「みづの上」始まる。明確な日付があるのはこの20日のみ。署名「なつ」

この頃、日記が途絶えがちになるのは、「たけくらべ」の改稿と「通俗書簡文」執筆で忙しいためだが、病状も進みつつあった。禿木への手紙の下書きに、病気で早くに就寝していた旨が書かれている。


「雨じたりの音軒(のき)ばに聞えて、とまりがらすの声かしましきに、ふと文机(ふづくゑ)のもとの夢はさめぬ。今日は二月廿日成きとゆびをるに、大かた物みなうつゝにかへりて、わが名わがとし、やうやう明らかに成ぬ。木よう日なれば、人々稽古に来るべき也。春の雪のいみじう降たるなれば、道いとわるからんに、さぞな佗びあへるならんなどおもひやる。

 みたりける夢の中には、おもふ事こゝろのまゝにいひもしつ、おもへることさながら人のしりつるなど嬉しかりしを、さめぬれば、又もやうつせみのわれにかへりて、いふまじき事かたりがたき次第など、さまざまぞ有る

 しばし文机に頬づえつきおもへば、誠にわれは女(をんな)成けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。

われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてゝ、深山(みやま)にはしらんこゝろあるにもあらず。さるを、厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、「当代の秀逸」など有ふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな佗しからずや。かゝる界(きかひ)に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我れは女(をんな)なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか。

(雨垂れの音が軒端に聞こえ、ねぐらの鴉の声の騒々しさに、机のもとのうたた寝の夢は覚めた。今日は二月二十日だったと指を折っているうちに、やっと現実の世界に立ち戻って来た。今日は木曜日なので皆が稽古に来る日。春の雪がひどく降っているので、道が悪くて、さぞかし困っているだろうなどと思いやる。

今まで見ていた夢の世界の中では、思うことを思いのままに言いもし、私の思ったことはそのまま人も理解してくれて嬉しかったのに、覚めると再び現実の私に戻って、言ってはならない事や言いにくい事などが沢山出てくる。

机に頬杖をつきながらよくよく考えてみるに、所詮、私はか弱い女にすぎない。色々な事を仮に思ったとしても、それらは到底実行出来ることではない。

私に風雅な文学的才能があるかどうかは知らない。またこの俗世間を棄てて深山に隠れる心があるわけでもない。それなのに私を厭世家と言う人がいる。何故だろうか。ほんの一寸したつまらない書き物を世に出すと、「現代の秀逸」などとありふれた言葉を並べて、明日はまた誹謗するだろうその口先きで、大げさに褒めそやしたりする。何と侘しいことよ。このような文壇の中に身を置いて、毎日顔を合わせる人の中には、一人として友と言える者もいない。私を本当に知ってくれる者は誰もいないと思うと、ただ一人この世に生まれてきたような気持ちがして、何ともたまらない思いがする。所詮、私はか弱い一人の女にすぎない。たとえどんなに心の中に思うことがあっても、それをこの世で実行することが出来るとは思われない。)

女なるがゆえに「何事のおもひ」があってもなし得ないという嘆きと同時に、晩年のいい知れぬ孤独な魂のうずきを読みとることができる。

晩年の一葉の心の奥には、はげしいヒューマニズム、きびしいモラリズムと同時に、それらとはうらはらな、色濃いニヒリズムが渦巻いてもいる


2月21日

山県有朋を特派全権大使に任命。ロシア皇帝ニコライ2世戴冠式出席、朝鮮問題につき交渉のため。

2月22日

大阪、日本海上保険㈱、設置(のちの日本火災海上保険)。

2月25日

国民協会、態度を変じ決議案否決。

2月25日

二葉亭四迷、この日付で妻つねとの離婚届提出。以後、復縁にこだわり明治31年3月末つねが四迷以外の子を宿すまで続く。

2月26日

高瀬文淵と鳥海嵩香より「新文壇」第2巻第3号に掲載予定の「裏紫」続稿の督促

2月26日

仏、ベクレル、放射能発見。

2月28日

西村釧之助に借金返済の猶予を願う手紙を出す。

2月29日

辰野金吾設計の日本銀行本店の建物が完成

2月29日

この日(うるう年)、横山源之助が来訪。一葉は作家生活からの転向を考えていることをほのめかす

この日付け横山源之助の一葉宛て手紙。

「人間の運命と世相の真実御冥想、余り気迅なる事、御忍耐生活を処せられん事、是れ小生の第二に貴方に望むものに御座候、当分確実なる見込つき候まで文学者生活御忍耐如何に候や、おん談ノ中ホノメキ候もの看取せられ候故、強て此事申上候

一葉を訪問した後に横山源之助が一葉に送ったと推測できる手紙からは、一葉は貧民救済事業を起こしたいと考えていたように思える(私見)。

和田芳恵さんの「読み」は以下。

「どういうことが二人の話題になったかわからない。しかし、一葉が文学者生活をやめて、そのことを実行してみようと云ったらしいことは考えられる。また、源之肋が共感しているのだから、下層社会のことだろう。・・・一葉が社会の不条理を感じてのことだから、素描な意昧での社会主義的なものかもしれない」


つづく


「名商店街は壊され分断される」タワマン建設を都知事候補小池百合子氏や首長がスイスイ認める恐るべき目論見 低賃料の住民は、住民税の額が少ないうえ、自治体にとって負担(PRESIDENT 山下努)   

 

2024年7月4日木曜日

東京都知事選挙の争点か否か…「明治神宮外苑の再開発」めぐる各候補者の訴えは【news23】; 都市計画公園を削ったのも、外苑全体を再開発促進区としたのも、三井不動産などによる事業を認可したのも東京都。住民の声を聞かず、イコモスの批判も無視し、「プロパガンダ」と反発する小池都知事。争点でないと逃げ回るのはあまりに都民を愚弄している。(山添拓)   

〈小池知事は「たしなみ」が無さ過ぎる〉  堤伸輔氏 「小池都知事は公務に名を借りた選挙戦をやっている、名を借りるというのは、まだしも、それは結局、都庁の職員や都の予算を使って公務というのは行われるわけですから、それは現職都知事としての『たしなみ』が無さ過ぎると思いますね」 / 〈小池知事はフェアじゃない〉 片山善博氏「知事選で職務代理を置かないなら公務の時には取材をかけないがルール。現職の旨味を利用してフェアで無いやり方と小池都知事を批判。」 「小池さんは公務優先と言い  公務の時に取材させ  公務に名を借りた選挙運動をしている。」   




 

東京都知事候補の元安芸高田市長「石丸伸二氏」の理解しがたい言動 / 石丸伸二候補に大逆風…「恫喝」訴訟で2連敗、都知事選後の国政進出シナリオも狂いが(日刊ゲンダイ) / 石丸伸二氏言動で控訴棄却 市に賠償の一審支持、広島 | 2024/7/3 - 共同通信 ; 石丸前市長のうその主張で名誉を傷つけられたとして、山根温子市議が市と石丸氏に損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、広島高裁は3日、市に33万円の賠償を命じた一審判決を支持し、控訴を棄却した。 / ドトールに注がれる「石丸効果」都知事選でヒモ付き隠さず3番手から猛追、株価も爆上がり(日刊ゲンダイ);「ちなみに、鳥羽氏は安倍元首相夫妻と親交があり、ドトール・日レスは5月に「安倍に最も食い込んだ記者」と呼ばれる元NHK解説委員の岩田明子氏を社外取締役に迎えている。」