1896(明治29)年
1月7日
漱石、東京より松山に帰る。(7日神戸着、9日広島、10日頃松山帰着)
「金之助が松山への帰途についたのは、一月七日の朝である。鏡子は中根の細君に連れられて新橋ステーションまで見送りに来た。ほかに和三郎と姉お房の夫の高田庄吉、それに三人の級友が来ていた。めずらしく雲一点もない好天気だったが、腰痛に悩んでいる子規は姿を見せなかった。彼はのちに、
寒けれど富士見る旅はうらやまし
という句を書いた葉書を送って来た」(江藤淳『漱石とその時代1』)
1月8日
一葉、はじめて斎藤緑雨から手紙を受け取る。「『わかれ道』に於ては明らかに御作の漸(ようや)くみだれんとするの傾向あるをみとめ得らるべく候」と忠告。緑雨が一葉を訪問するのは一葉の死の半年前の5月24日。その後はしばしば訪問して作品についての疑義をただしている。
また、同日、自ら一葉との結婚の噂を振りまいていると言われる川上眉山が一葉の写真を無理に持ち帰る。
この日、緑雨から「わが文界の為に君につげ参らしたくおもうこと」がある、「但し我に一箇の癖あり、われより君を訪ふ事を好まず候」、親しい人にも秘密にすることを誓ってほしいという。
この手紙は、使いの者が持ち帰るというもので、一葉はこれを写しとり、翌日、緑雨宛に秘密を守ることを誓い、「男ならぬ身なればさるかたに御見ゆるし御教へのいたゞかれ候やう神かけねんじまゐらせ候」と、教えを乞う返事を出す。
緑雨からは即日、長文の手紙が届く。今回も噂の種になる証拠を残さぬよう、持ち帰るもので、一葉はくに子に読ませて写しとる。
緑雨は、「にごりえ」を高く評価するが、材料としては「わかれ道」が勝っている。しかし、「わかれ道」には「濫(みだ)れ」があると云う。
緑雨は、さまざまな批評にまどわされず、「君が思ふ所にまかせて、めくら共に構はずマツすぐに進まれん事」、また一葉を訪れる「文人と称するもの」について「夫等の輩は断然逐ひ払ひ玉はんかた御為と存候」と忠告。
一葉は、「正太夫はかねて聞けるあやしき男なり」と警戒し、戸惑いながらも、その忠告や批評には耳を傾け、直接の交際を重ねていき、緑雨もしばしば一葉宅を訪れるようになる。
「正太夫のもとよりはじめて文の来たりしは、一月八日成し。われは君に縁あるものならねど、我が文界の為、君につげ度こと少しあり。わが方に来給ふか、我より書にて送らんか。われに癖あり、我れより君を訪ふ事を好まず。なほ我事聞かんとならば、いかなる人にももらすまじきちかひの詞、聞きたしと也。何事とも知らねど、此皮肉屋がこと、かならずをかしからんとて、返しをやる。人にはいふまじく候。つげさせ給はれかし。我れは男ならぬ身なれば、御もとをば訪ふ事かたし。文おくり給はらば、うれしかるべしといひき。
九日の夜書きたる文、十日にとどきぬ。半紙四枚がほどを重ねて、原稿書きたるがごと、細かに書したり。にごり江の事、わかれ道の事、さまざまありて、今の世の評者がめくらなる事、文人のやくざなる事、これらがほめそしりにかかはらず、直往し給へといふ事、並びに世にさまざまの取沙汰ある事、我れが何がし作家と結婚の約ありといふ事、浪六のもとへ原稿をたづさへて行給ひしときく事、などありき。何がし作家とは川上君の事なるべし。君よりは想のひくき何がしとしるしぬ。「一覧の後は其状(そのふみ)かへし給はれ。君よりのもかへしまつるべし。世の人聞きうるさければ」と成けり。直(すぐ)に封してかへしやる。これは『めざまし草』の出るより二十日も前の事成き。のちに紙上を見れば、われへ対する評言は、このふみの如く細かにはあらで、おほらかに此旨をぞ書ぬ。
正太夫はかねて聞けるあやしき男なり。今文豪の名を博して、明治の文壇に有数(いうすう)の人なるべけれど、其しわざ、其手だて、あやしき事も多くもある哉。しばらく記してのちのさまをまたんとす。」(日記「水のうへ」)。
(斎藤線両氏から初めて便りが来たのは一月八日でした。
「私は君に関係のある者ではないが、わが文壇のために君に話したいことが少しある。私の方へ来られるか、それとも私から手紙を書こうか。私には一つの癖があって、私が君を訪ねるのを好まない。それでも私の話を聞こうと思うなら、誰にも他言をしないという誓約の言葉がほしい」
とある。何のことか分からないが、この皮肉屋のことだから、きっと面白いことだろぅと思い、返事を出す。
「他人には決して言いません。どうかお聞かせ下さい。私は男の身ではないのでお宅をお訪ねできません。お手紙を下されば嬉しく存じます」
と言ってやる。
九日夜に書いたという手紙、十日に届く。半紙四枚を重ね、原稿のように細かに書いてある。「にごりえ」のこと、「わかれ道」のこと、その他色々あって、現代の評論家が盲目であること、作家が柄が悪いこと、こういう人の褒めや詰りは気にしないで、自分の道を真直ぐ進みなさいということ、また世間では色々な噂があること、この私が何とかいう作家と婚約したということ、また村上浪六の所へ原稿を持って行ったと聞いたこと、など書いてあった。何とかいう作家とは川上眉山のことでしょう。手紙には「君よりは才能が低い某作家」と書いてあった。
「ご覧の後はこの手紙は返して下さい。君からのも返します。世間の噂はうるさいので」
とある。すぐに封をして返送する。これは 「めざまし草」創刊号が出る二十日も前のことでした。後で同誌を見ると、私に対する批評はこの手紙のように細かではなく、おおよそこの趣旨のことが書いてあった。斎藤緑雨という人は、かねて聞いていた通り一風変わった人だ。今は文豪と呼ばれ明治の文壇では数少ない人のようだが、そのする事には不思議な事が多いようだ。ともかくここに記して、後の様子を見よう)
「この頃、世にあやしき沙汰聞え初ぬ。そは川上眉山と我れとの間に結婚の約なりたりといふうわさ成り。「岡やきといふものおびただしき世なれば、伝へ伝へて文界の士の知らぬもなし」といふ。あるものは伝へて、「尾崎紅葉仲立なり」とさへいふめる。あるもの紅葉にかたりたるに、高笑ひして、「もしさる事さだまらは、我れ媒しゃくにはかならず立つべし」といひしとか。『よみうり新聞』新年宴会の席にて、高田早苗君は眉山が肩をうちて、「この仲立は我れ承らん」とたはぶれしとか。こゝにかしこに此沙汰かしましければ、いつしか我れにも聞えぬるを、あやしきは川上ぬし、知らずがほを作り給ふ事なり。「この人の有さまあやし」と思ひしは、過し八日の夜、「われに写真給はれ」とて、こばむをおして持行し事ありき。母君も国子もひとしういなみしを、「さらばしばしかし給へ。男の口よりいひ出づる事、つぶされんは心わるし」とて、しひていふに、「さらば五日がほどを」とて、かしつる其写真をば、さながら返さず。人、結婚の事をいひて、「君は一葉君と其やく有るよし、誠にや」と問へば、「そは迷わくの事いひふらすものかな」とて、打笑ひ居るよし。八日の夜のさまは、ほとんど物ぐるはしきやうに眼をいからし、面を赤めて、「なに故我れにはゆるし給はぬにや、我れをばさまで仇なるものとおぼし召か。此しやしん、博文館より貰はば事はあるまじけれど、あやしう立つ名の苦しければ、ここに参りてかくいふを、猶君にはうとみ給ふにや。男子一たびいひ出たる事、このままにしてえやはやむべき」とて、つく息のすさまじかりし事、母君かげに聞て、胸をば冷し給ひしよし。「我れに妻の仲立して給へや。此十五日を限りにして、其返事聞度し。いかでいかで」などせまられたる事ありしが、それこれを思ひ合せて、あやしき事一つならず。文界の表面(おもて)にこの頃あやしき雲気(うんき)のみゆるは、何ものの下にひそめるならん、眉山排斥の声やうやう高う成りぬ。
正太夫いはく、「君はおそらく文界の内状など知り給ふまじければ、瑣細の事とおぼしめさんも計られねど、我れの考へたる処にては、なほざりならぬ大事とおもへり。よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追ひ払ひ給へ。かれ等は君が為の油虫なり。払ひ給はずは、一日より一日と其害を増さんのみ」といひき。」
(この頃世間に変な噂が立っている。それは川上眉山と私との間に婚約が成立したという噂。嫉妬の多い世の中なので、次々に伝えて今では文壇の人で知らない者はないという。尾崎紅葉が仲人であるとまで言っているらしい。ある人が紅集にこの話をすると、大笑いして、「もし事が決まったら、私が媒酌には必ず立とう」と言ったとか。読売新聞社の新年宴会の席で高田早苗氏は眉山の肩を打って、「この仲人は私が引受けよう」と冗談を言ったとか。あちこちでこの時がやか
ましいので、いつとなく私の耳へも入って来たのに、おかしいのは川上氏が知らぬ顔をしていることです。この人の様子がおかしいと思ったのは、今月八日の夜、私に写真をほしいと言って、断るのを無理に持って行ったことがあった。母上も邦子も一緒になって断ったので、
「では暫くお貸し下さい。男の口から一度言い出したことを断られては気持ちが収まらない」
と、しきりに言うので、
「では、五日間ほど」
といってお貸ししたのに、写真はそのままで返してくれない。ある人が、
「君は一葉さんと婚約があるというが、それは本当なのか」
と聞くと、
「それはまた迷惑な事を言いふらすものだ」
と笑っていたとか。
八日の夜は、全く気狂いのように眼をいからし顔を赤くして、
「なぜ私には許して下さらないのですか。私をそんなにまで敵視なさるのですか。この写真は博文館から貰えは何でもないのだが、炒な噂が立つのがいやだから、此処へ来てこうして頼んでいるのに、やっぱりあなたは私が嫌いなのですか。男が一度言い出したことを、どうしてこのままやめてしまうことが出来ますか」
と言って、つく息の凄かったこと。母上は隣室で胸を冷やされたとのこと。また別の折に、
「私に縁談を世話してくれないか。この十五日までに話を聞きたい。是非、何としても」
と迫られたことがあったが、あれこれ思い合わせると、おかしな事は一つや二つではない。文壇の表に出るほど、近頃妙な動きがあるのは、陰に何かたくらんでいる者があるのだろうか。眉山排斥の声が次第に高くなってきた。
「おそらくあなたは文壇の内情などご存知ないので、些細な事と思われるでしょうが、私の考えでは棄てておけない大事だと思います。何としても、あなたの所に訪ねてくる品の悪い文人たちを追い払いなさい。彼らはあなたにとっては油虫のようなものだ。いま追い払わないと、一日一日とその害毒はひどくなるばかりだ」
と斎藤緑雨は言うのでした。)
(緑雨に言わせれば、孤味も禿木も秋骨も眉山も、みな害虫であったのであろう。しかし一葉はもとより彼らを追い払おうとはしなかった。)
つづく
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