2024年10月27日日曜日

大杉栄とその時代年表(296) 1900(明治33)年8月23日~31日 袁世凱、山東省に義和団はいなくなったと宣言 漱石、子規と最後の面会 幸徳秋水「自由党を祭る文」

 

幸徳秋水

大杉栄とその時代年表(295) 1900(明治33)年8月11日~20日 8ヶ国連合軍北京占領 西太后、西安へ脱出 連合軍による略奪(文物の破損・流失) 閻書勤率いる義和団壊滅 ロシア軍、黒竜江省に進出 徳富廬花「自然と人生」 より続く

1900(明治33)年

8月23日

山東巡撫の袁世凱、義和団発祥の地にして、多くの拳民を抱えて山東省で徹底的な拳匪への弾圧を行ない、この日、

「山東省には既に拳匪はいなくなり、教民も教会もまったく安全になった」

と豪語。

実のところ、義和団への大弾圧が同時並行で起こっていた。袁世凱は義和団に対して徹底した虐殺を敢行。その場で殺害したケースもあれば省城へ送検して処刑したケースもあった。首領たちの家屋財産は官が没収、義和団に参加していた農民の財産は売り払い、家屋を破壊した。この大弾圧によって数万人の義和団(拳匪)が惨殺された。

8月23日

憲政党総務星亨ら、伊藤の新党への無条件参加を申し入れ。

8月23日

三好達治、誕生。

8月23日

日本政府、児玉総督に、機会があれば廈門を占領する必要があることを訓令。

8月23日

黒田清隆(61)、没(夜8時頃)。第2代総理大臣。

8月24日

廈門東本願寺布教所焼失。形勢不穩のため、軍艦和泉の陸戦隊上陸。

28日、日本政府、廈門派遣中止を訓令。廈門の上野領事に対し台湾へ帰るよう命令。

8月24日

高野房太郎、片山潜・安部磯雄と大宮での演説会に出演。日本鉄道大宮工場の経営を批判。これが日本での活動の最後となる

8月25日

ロシア、列国に満州占領は一時的措置であることを釈明。

8月25日

伊藤博文、政友会創立委員会を開催、宣言及び趣意書(綱領)発表。芝公園内の紅葉館に西園寺ら13人を招き、彼らを創立委員とする。

8月25日

独、ニーチェ、没(1844.10.15~)。

8月26日

漱石、寺田寅彦と子規庵を訪問。子規との最後の面会


「漱石師来り共に子規庵を訪ふ、谷中の森に蜩鳴いて踏切の番人寝惚け顔なり」(寺田寅彦日記)


「漱石氏は二年間英国留学を命ぜられ此夏熊本より上京、小生も久々にて会談致候。去る九月八日独逸船に乗込横浜出発欧州に向はれ候。小生は一昨々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る毎に最早再会は出来まじくといつも心細く思ひ候ひしに其人次第次第に帰り来り再会の喜を得たる事も少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、迚も今度はと独り悲しく相成申候。(9月30日発行「ホトトギス」3巻12号)

8月26日

夜、子規のもとを訪ねた伊藤左千夫がなにげなく静岡県興津転地を提案。子規は大乗り気となり、この年秋に門下関係者一同をまきこむ転地騒動となる。

8月27日

台湾より、日本の歩兵2中隊北京へ出発

8月30日

ロシア、黒竜江省城占領。

8月30日

幸徳秋水「自由党を祭る文」(「万潮報」)。田母野秀顕(福島事件)・村松愛蔵(飯田事件)・赤井景韶(高田事件)の他に馬場辰猪などを追慕し、保安条例の伊藤専制政治に寄り添う自由党を批判。「当時誰か思わん、彼等死して即ち自由党の死せんとは。・・・」

26日、秋水は、兆民より「自由党を祭る文」執筆を勧められる。「自由党史」は福島事件・飯田事件・高田事件については、多くの紙幅を費やしその実相を後世に伝える努力をする。秩父事件については、僅か3ページ半。執筆者だけの限界ではない。


〈『自由党を祭る文』(全文)〉


 歳は庚子(こうし、1900(明治33)年の干支)に在り八月某夜、金風淅瀝(きんぷうせきれき)として露白く天高きの時、一星忽焉(いっせいこつえん)として墜ちて声あり、嗚呼自由党死す矣、而して其光栄ある歴史は全く抹殺されぬ。

 嗚呼汝自由党の事、吾人之を言うに忍びんや、想うに二十余年前、専制抑圧の惨毒滔々四海に横流し、維新中興の宏謨(こうぼ、広大な計画)は正に大頓挫を来すの時に方って、祖宗在天の霊は赫(かく)として汝自由党を大地に下して、其呱々の声を揚げ其円々(つぶつぶ)の光を放たしめたりき、而して汝の父母は実に我乾坤(けんこん、天地の間)に磅はく(ほうはく、広がり満ちる)せる自由平等の正気なりき、実に世界を振蘯(しんとう)せる文明進歩の大潮流なりき。

 是を以て汝自由党が自由平等の為めに戦い、文明進歩の為め闘うや、義を見て進み正を蹈(とう)で懼れず、千挫(せんざ)屈せず百折撓(たゆ)まず、凛乎たる意気精神、真に秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)の慨ありき、而して今安くに在る哉。

 汝自由党の起るや、政府の圧抑は益々甚しく迫害は愈よ急也、言論は箝制(かんせい)せられたり、集会は禁止せられたり、請願は防止せられたり、而して捕縛、而して放逐(明治30年保安条例による追放)、而して牢獄、而して絞頸台、而も汝の鼎钁(ていかく)を見る飴の如し、幾万の財産を蘯尽して悔いざる也、幾百の生命を損傷して悔いざる也、豈是れ汝が一片の理想信仰の牢として千古渝(か)う可らざる者ありしが為にあらずや、而して今安くに在る哉。

 汝自由党は如此にして堂々たる丈夫となれり、幾多志士仁人の五臓を絞れる熱涙と鮮血とは、実に汝自由党の糧食なりき、殿堂なりき、歴史なりき、嗚呼彼れ田母野(田母野秀顕、明治15年福島事件獄死)や、村松(村松愛蔵、明治18年飯田事件軽禁獄7年)や、馬場(馬場辰猪、明治19年横浜爆裂弾事件半年間拘留、アメリカ客死)や、赤井(赤井景韶、明治16年高田事件脱獄後捕縛処刑)や、其熱涙鮮血を濺げる志士仁人は、汝自由党の前途光栄洋々たるを想望して、従容笑を含んで其死に就けり、当時誰か思わん彼等死して即ち自由党の死せんとは、彼等の熱涙鮮血が他日其仇敵たる専制主義者の唯一の装飾に供せられんとは、嗚呼彼熱涙鮮血や丹沈碧化今安くに在る哉。

 汝自由党や、初めや聖賢の骨、英雄の胆、目は日月の如く、舌は霹靂の如く、攻めて取らざるなく、戦いて克ざるなく、以て一たび立憲代議の新天地を開拓し、乾坤を斡旋するの偉業を建てたり、而も汝は守成(しゅせい)の才に非ざりき、其傾覆は建武の中興より脆くして、直ちに野蛮専制の強敵の為めに征服せられたり、而して汝が光栄ある歴史、名誉なる事業今安くに在る哉。

 更に想う、吾人年少にして林有造君の家に寓す、一夜寒風凛冽の夕薩長政府は突如として林君等と吾人を捕えて東京三里以外に放逐せることを、当時諸君が髪指(はっし)の状突然目に在り忘れざる所也、而して見よ今や諸君は退去令発布の総理伊藤侯、退去令発布の内相山県侯の忠実なる政友として、汝自由党の死を視る路人(傍観者)の如く、而して吾人独り朝報の孤塁に拠って、尚ほ自由平等文明進歩の為めに奮闘しつつあることを、汝自由党の死を吊し霊を祭るに方って、吾人豈に追昔撫今(ついせきぶこん)の情なきを得んや、陸游(りくゆう、南宋の詩人)曾て剣閣の諸峯を望んで、慨然として賦して曰く、「陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人(*))嗚呼専制主義者の窮冦(きゅうかん)禦(ふせ)ぎ難からんや、而も光栄ある汝の歴史は今や全く抹殺せられぬ、吾人唯だ此句を吟じて以て汝を吊するあるのみ、汝自由党若し霊あらば髣髴(ほうふつ)として来り饗けよ。


(*)「陰平窮冦非難禦、如此江山坐付人」;

陸游の七言絶句『劍門城北回望劍關諸峰青入雲漢感蜀亡事慨然有賦』の3句目と4句目で、「隠平から追い詰めてきた敵は難なく防御できたはずだが、これほど険阻な江山を、やすやすと敵に明け渡すとは。」という意味。


8月31日

英軍、トランスヴァール共和国の首都ヨハネスブルク占領。


つづく


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