2024年9月30日月曜日

寛弘6年(1009)~寛弘7年(1010) 中宮彰子が第三皇子敦良親王を生む 『紫式部日記』『源氏物語』成立 妍子入内

東京 北の丸公園
*
寛弘6年(1009)
1月7日
「帥(そち/藤原伊周)が加階された。」(『権記』寛弘6年(1009)1月7日条)
*
3月4日
藤原頼通(18歳、道長の長男)、権中納言となる。しかも参議を飛ばして、一躍権中納言に任ぜられている。三位の中納言は2人で頼通はその上席、中納言6人の4番目におさまった。
尚、この年、頼通は具平親王の娘隆姫と結婚。しかし、子どもができなかった。

昇進のスピード記録
頼通は正暦3年(992)生まれ。
長保5年(1003)、12歳で元服、同日、正五位下となる。
やがて左近衛少将となり、寛弘3年(1006)3月、15歳で従三位に昇り、同年9月には正三位、翌々年はさらに従二位に昇っている。

すこし前の状態はだいぶ違う。
摂政藤原忠平の長男実頼は、32歳で参議従四位下であった。
次男師輔も28歳で参議になった。
実頼の長男格の頼忠が参議に任ぜられたのは40歳のとき、師輔の長男伊尹も37歳である。
道長の父兼家も、従三位に進んだのが40歳、翌年、参議を飛び越して一躍中納言に任ぜられたが、それでも41歳に達していた。

村上天皇前後の朝廷では、公卿の多くは50歳、60歳で、30代は多くて2、3人、20代はたまに1人いるかいないかの程度だった。
こういう体制を破って、思い切って摂関家子弟を高位高官に引き上げ始めたのは、道長の父、兼家から。
兼家が摂政になったのは58歳のときであったが、それからは自分の子供を強引に引き上げて、道長は参議を経過せずに、23歳で権中納言に昇った。

兼家を継いだ摂政道隆もこれにならい、長男の伊周を引き上げた。
伊周は18歳で参議従三位であり、その年のうちに権中納言に、19歳で権大納言、21歳で内大臣という、従来の例から見れば言語道断な躍進をとげた。
しかし、これが先例として固定し、道長の長男頼通は、18歳で権中納言に、22歳で権大納言に進み、26歳にして摂政内大臣の地位を得た。
*
3月4日
藤原為時(紫式部の父)は左少弁に任官、また日付不明ながら正五位下に叙せられた。左少弁は朝廷の最高機関・太政官の事務方である左右弁官局の幹部職員であり、実務に堪能でなければ務まらない職掌であった。
*
4月24日
・賀茂祭の道長の「棚」(桟敷)に藤原道綱以下9人の公卿が集まる。(『権記』寛弘6年4月24日条)*
5月1日
・平維衝は、朝廷に馬10匹を頁上。7匹は本人が、残る3匹は諸牧の別当が交易によって購入した(『権記』寛弘6年5月1日条別記)。
*
11月25日
中宮彰子が第三皇子敦良親王(あつなが、のちの後朱雀天皇)を生む
道長が将来的に天皇の外祖父となる下地が作られた。
*
*
*
寛弘7年(1010)
・この年
・この頃、『紫式部日記』『源氏物語』、高階積善編『本朝麗藻』が成立
『紫式部日記』は、敦成親王出産関係の記録を中心にして寛弘7年の記事を一部加え、他の女房たち(清少納言も含まれている)についても触れた「消息文」を入れて、寛弘7年頃紫式部自身が編修したと考えられている。
*
・ベトナムに李朝の大越国が成立する
*
2月
・道長は尚侍となっていた次女妍子(けんし、母倫子)を居貞(おささだ)親王(三条天皇)に妃として参入させた。
親王には、妃として故藤原済時の娘娀子(せいし)を迎え、皇子敦明・敦儀・敦平・師明、皇女当子(とうし)・禔子(しし)が生まれていた。
妍子は、翌年、三条天皇が即位すると女御に、翌々年には中宮となる。
道長は、一条天皇の血統だけではなく、三条天皇の血統にも手をうった。
*
11月25日
・平維衡は、伊勢守解任後、道長への接近を始める。
彼はこの年11月25日、馬10匹を、翌8年4月13日、鞍具つきの馬11匹を道長に献じた(『御堂関白記』)。
また、維衝は、前年には朝廷に馬10匹を頁上している。
馬は最高の献上品で、相当な贈物である。慣例として、馬の贈答は主従関係にあることの含意で、彼もこの頃、道長の家人化したと考えられる。
道長らにとって、維衝のような経験豊かな兵は、なにかと重宝な存在である。彼らは、奉仕する兵を自在につかって、政敵を恫喝し、放火や群盗の襲撃に備え、自己に関係する各種紛争を強権的に解決した。
*
*

0 件のコメント: