2024年10月20日日曜日

大杉栄とその時代年表(289) 1900(明治33)年6月12日~16日 漱石、2年間のイギリス留学を命じられる 8ヶ国連合軍、北京で義和団と戦闘 子規、漱石に自筆の「あづま菊」の絵を送る

 

子規のあづま菊

大杉栄とその時代年表(288) 1900(明治33)年6月1日~11日 伊藤博文、新党結成決意 憲政党星亨、解党して合流決意 義和団の鉄道破壊、教会襲撃激化 英米は大沽の海軍基地に増派要請 清朝内は対列強主戦派が台頭 日本公使館員杉山彬書記官殺害される より続く

1900(明治33)年

6月12日

義和団、北京で活動し始める。

6月12日

漱石、英語研究のため、文部省第一回給費留学生として、神田乃武と共に満2年のイギリス留学を命じられる。現職のままで、年額1,800円の留学費を支給される。留守宅に休職給25円(年額300円)支給、製艦費2円50銭差し引かれる。


「高等学校教授の外国留学は、当時の文部省専門学務局長上田万年の計らいで行われる。但し、中川元校長が推挙していることは、確かである。貴族院書記官長をしていた岳父の陰の力もあったかと推定もできる。(河盛好蔵)」(荒正人、前掲書)

「余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。(中略)当時余は特に洋行の希望を抱かず、且つ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれは、一応其旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭は云ふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校は只足下を文部省に推薦して、文部省は其推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、左もなくは命の如くせらるゝを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずと云ふ迄にて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て承諾の旨を答へて退けり。」(『文学論』序)


「高等学校の少壮教授が選ばれて海外留学を命じられたのは、この年が最初である。文科大学の出身者では、金之助のほかに藤代禎輔と芳賀矢一の両名が選抜され、仙台の第二高等学校数授高山林次郎(樗牛)も審美学研究のためにヨーロッパにおもむくことになっていた。留学中の手当は年額千八百円、家族に支給された留守手当は年額三百円である。夏のはじめごろ、ひと足さきにドイツに留学していた大塚保治が帰朝した。」(江藤淳『漱石とその時代2』)

6月12日

ドイツ帝国議会で第2次艦隊法制定。英に対抗し20年以内に海軍力を倍増するため、戦艦38隻の建設計画に着手。欧州の軍備競争開始。

6月13日

義和団、初めて公使館地区に侵入

午後5時頃、崇文門より4~500が突入。官兵数百人はこれを阻止せず。列強海兵側も初めて拳民に発砲。この日、北京東北部の西洋人の家・教会・教民の家焼かれる。

夜9時30分、数百人がカトリック東堂に進入、堂に放火。フランス人神父1・中国人神父1が殺害。

北京市内の教民たちが北堂(カトリック総本山)に避難。

この日の義和団の指令。「洋人が入京してすでに四十年、気運すでに尽き、天意まさに絶えんとす。ゆえに天は諸神を下界につかわして、義和団に乗り移る。洋楼大使館を焼き尽し、もって清朝を興さんとす。」。千年王国思想。

13日~16日頃、武器を持たない人民に対する列強の大量無別殺戮

6月13日

青木外相、英の代理公使に日本の清国への出兵に関する英の意向を打診。

ロシアが義和団の乱に便乗し、大軍勢を満洲に派遣した情勢に対し、ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相のソールズベリー卿は、日本に対して6月23日、7月5日、7月14日と再三にわたって出兵を要請。2回目と3回目の出兵要請の際には、財政援助も申し入れ。

6月13日

この日付「東京朝日」社説「北京動乱と帝国」(池辺三山)、日本出兵を主張。

「極東での列国の動きからみて、日本はこの動乱処理に全力を挙げて出兵してこそ、事変後、清国対策を決める列強協議で主導権を持つことができる」

6月14日

8ヶ国連合軍、北京で義和団と戦闘。午後、ドイツ公使ケッテラーと海兵隊が内城パトロール。拳の練習をしている若者に発砲、死者20余。夜8時過ぎ、義和団、税関・教会に放火。これが公使館地区に延焼。義和団、公使館地区を攻撃。

オーストリア海兵隊は東長安街に1分間に300発発射できる機関砲を据え5分間撃ちまくる。死体は一つも発見されず。

北京のカトリック南堂、放火。司祭・修道女・信者は公使館に避難。夜11時30分頃、南堂にも放火。2日間に東・西・南堂が放火。

義和団、天津で活動し始める。

シーモア提督と天津の連合国との間で連絡が途絶える。列強海軍司令官、シーモア救援と天津解放のため大沽砲台占領が必要と結論。

6月14日

第1回国際自動車レース、パリ-リヨン間で開催。フランスのF・シャロン優勝。

6月15日

日暮れ近く、拳民がカトリック北堂に押寄せるが、フランス兵の発砲により死体49を残し退散。夜10時頃、拳民数千が北堂に殺到、城門が開かず退散。

6月15日

閣議、第1次臨時派遣隊として参謀本部第2部長福島安正少将を指揮官とする1288名の陸兵派遣を決定。

6月中旬

子規、漱石に自筆の「あづま菊」の絵を送る

子規の添え書き


「コレハ萎(しぼ)ミカケタ処ト思ヒタマヘ 画ガマ

ヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ 嘘ダト

思ハヾ肱(ひじ)ツイテカイテ見玉ヘ


あづま菊いけて置きけり

火の国に住みける

君の帰りくるかね」


子規は、明治32年(1889)秋頃から、中村不折から贈られた絵の具を用いて写生画を始めていた。晩年の子規は絵を書くことに大きな慰めと喜びを見出していた。

漱石は子規のこの絵について次のように語る。


「一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡な」この絵を描くために、子規は「非常な努力を惜しまなかつた様に見える」。

この絵には、子規の「隠し切れない拙が溢れてゐる」


「東菊によつて代表された子規の画は、拙くて且真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなつて、穂先の運行 がねつとり竦んで仕舞つたのかと思ふと、余は微笑を禁じえない。(中略)  子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であつた。永年彼と交際をした何の月にも、何の日にも、余は未だ曾て彼の拙を笑ひ得るの機会を捉へ得た試がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さへ有たなかつた。彼の歿後殆ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取つては多大の興味がある。たゞ画が如何にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償ひとしたかつた。」(「子規の画」)

6月16日

列強、直隷総督に大沽砲台明渡し要求。

17日、大沽砲台を占拠

6月16日

~19日、4日間の御前会議。午後4時、第1回午前会議。西太后、「今日、中国の積弱はすでに極まり、恃むところはただ人心のみ、もし人心をも失わば何よって国家を存立させるのか?」。決起を人心の表現として捉え、これに依る以外に国家の存立はない。

6月16日

外務総務長官に浅田徳則、駐米公使に高平小五郎を任命。

6月16日

ドイツ、北海とバルト海を結ぶキール運河開通。ドイツ皇帝が開通式。


つづく

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