2025年1月20日月曜日

大杉栄とその時代年表(381) 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ1 「田中翁が絶叫して『鉱毒地に憲法なし』と言ふ、吾人は其の決して詭弁に非さるを信ずるなり」

1901年の木下(中央)。向かって右隣は片山潜、左隣は幸徳秋水で、左端は安部磯雄。

大杉栄とその時代年表(380) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ4(おわり) より続く

 〈「木下尚江にとっての田中正造」清水靖久(前半部・明治30年代)〉メモ1


「木下尚江(一八六九-一九三七年)は、明治三十年代にいわば基督教社会主義者としてめざましい社会的活動を展開したが、明治四十年代にはその生き方を大きく変え、大正昭和期にはおおむね沈黙を守って深い宗教的思索に沈潜した。その間田中正造とは明治三十三年に相知り、社会主義運動を離れた明治三十九年以後深く親しみ、大正二年の臨終を看取っている。そして大正昭和期にわずかに発表した著作では、ほとんどもっぱら田中正造について語っている。その木下尚江にとって田中正造はどのような意味をもっていたのかをこれから考えたい。そのばあい木下の田中正造理解は、木下自身の思想が変化するとともに推移しているので、木下の思想の軌跡を明らかにしなければ、木下尚江にとっての田中正造の意味も考えられないだろう。そこでこの稿では、木下の思想の軌跡に注目しながら、彼の田中正造理解の推移を辿っていく。」

「木下が田中の生涯について独特の理解を示したことはよく知られている。その理解によれば、田中の生涯は明治三十四年の直訴によって二分され、明治四十年の谷中村強制破壊によってさらに区分される。そして直訴までの田中は「義人」ないし層「政治家」であり、その後の田中は「予言者」、とくに谷中村破壊後は「聖者」であるとみなされる。」

「さて、これから木下の田中正造理解の推移を追跡していくに当って、いくつかの田中の言葉に予め注意しておきたい。それらは主に政治観をめぐるものであり、木下が田中を理解するうえで鍵としたものである。」


「田中が生涯叫つづけた「憲法擁護」の発言。自由民権運動によってともかく憲法を獲得した田中は、生涯にわたって憲法を尊重しつづけたが、一時期の木下は、およそ法律を単なる外面的強制としてしか理解しなかったという対照がある。」

「明治三十五年の田中の「政治をやって居る間に、肝腎の人民が亡んでしまった」という独語。」

「明治三十六年以後の田中の「政治の工めに二十年、損をした」という歎声。」

「社会を導かないで「独り聖人となる」ことを批判した明治四十二年の田中の聖人論。」

「隠者として「山に入りて仙となる」ことを批判した明治四十三年の田中の仙人論。これらは明治四十年代の木下の政治観や生き方に対する批判であり.木下の受けとめ方にはやはり変化が見られる。」

「明治四十年以後の田中の「悪人と云ふものは無い」という性善説的な述懐。」

「大正二年の田中の,「悪魔を退くる力なきは其身も悪魔なればなりー茲に於て懺悔洗礼を要す」という日記絶筆。」

「明治三十三年の田中の「亡国に至るを知らざれば是れ即ち亡国」という亡国演説。」

「明治三十六年以後の田中の「世界海陸軍全廃」の提唱。」

「明治三十六年の田中の「日本一たび亡びて、聖人日本に出づ」という亡国-聖人出現の予言。」

「大正二年の臨終の日の田中の「是れからの、日本の乱れ」という憂慮。」


「これらは日本の現実についての見方と関係している。第八の言葉は、日本の亡国に対する無知を警告したものであり、議会における田中の言葉のうちで木下が最も重んじたものである。第九の言葉は、木下の生涯にわたる非戦論の思想とも重なるものであり、軍国日本の現実との鋭い緊張を孕んでいた。第十の言葉は、聖人の出現とその前の日本の亡国とを予言したものであり、大正昭和期の木下は、日本の滅亡を予感して救済者の出現を念願するようになるとともに、この言葉に思いを凝らすようになる。第十一の言葉は、やはり日本の亡国を予言したものであるが、臨終直前の田中の苦悩の表情と結びついて痛切な響きをもっていた。」

 

一 義人と義人


「この節では、明治三十年代、実際には明治三十三年から明治三十九年までの時期の田中正造と木下尚江との関係について論じる。この時期の田中正造は、足尾銅山の鉱業停止を求める大運動を指導し、憲政本党脱退、衆議院議員辞職ののち直訴を敢行したが、その後運動の衰退分裂のなかで孤立していき、谷中村に入ってその滅亡を阻むために奮闘した。木下尚江は、毎日新聞記者として政治問題や社会問題と取り組み、やがて社会主義と非戦論との運動を繰り拡げるが、ついに社会主義運動を離脱した。この時期の二人は、どもに正義に訴えて社会の現実を変えようとする「義人」だったということができる。しかし二人が訴えた正義は、一方が伝統的な村共同体の人間関係に由来する政治家の徳義であり、他方が文明の進歩を前提とする近代的な社会主義の大義だったというように、正反対のものであり、そこに二人の行き違いも生じた。」


明治20年頃、木下は栃木県会議長としての田中正造の名前を知っていた。足尾鉱毒問題についても、明治20年代に松本にいたときからその名を聞いていたが、その内容は知らなかったという。

従って、上京して毎日新聞記者となった翌年の明治33年2月、川俣事件の直後の15日~17日、渡良瀬川沿岸を調査し、20、21日に足尾銅山を視察したことが、鉱毒問題との関係の始まりだった。

木下が東京を離れていた間、田中は15日に憲政本党脱退を宣言し、17日には亡国演説をしている。

木下は、鉱毒問題の解釈を命じられたとき、まず田中に会うことも考えたが、それを止めて直接現地に向かった。当時木下は、田中が「其の罵詈悪言の余りに猛烈な為めに、予は却て鉱毒問題其物に対して、窃に疑惑を抱かぬでも無かった」という。


『毎日新聞』に発表された木下の視察報告では、木下がこの鉱毒問題に取り組んだのは、それが未解決のままでは「工業国たるべき日本」の「国運の障碍」になると考えたからだった。従って、「足尾鉱毒問題」(2月26日~3月16日)の結論は、「余は最初より我国今日の学問と技術とは、優に鉱毒予防の策を全ふして余りあることを信ずるなり」と述べて、田中らが叫んでいた「鉱業停止」の主張を斥け、ただその主張を余儀なくさせた「政府の冷淡」を攻撃している。

当時の木下は、社会の進化、文明の進歩を確信しており、経済を実業と考え、生産社会の発達をめざして農業よりも商工鉱業を擁護し、政治を聖業とみなし、憲法政治の確立を求めて専制的な藩閥政府を攻撃し、学問技術の進歩に絶大の信頼を置いていた。

それに対して田中は、憲法政治を追求していたものの、工鉱業や学問技術の発達に対して、従って文明に対して強い疑いを抱いていた。


3月、鉱毒除害工事の成績不良を事実によって示した木下の連載記事に対して礼を言うために田中が毎日新聞社を訪ねてきた。これが二人の初対面。しかし当初田中と木下との交渉は必ずしも親密なものではなかった。後年木下は、「予自身も翁に対して数々不快の念を抱いた者だ」として、毎日新聞社の卓上で意見が衝突したときの田中の猛烈な立腹ぶりを描いている。また、木下宅を夜分しばしば訪問するようになった田中についての「翁が見えると、必ず長かった」と、ある種迷惑な気持ちの表現をとっている。

その後木下は、明治33年に鉱毒問題について3、4度短い記事を執筆しただけで、もっぱら廃娼問題と星亨告発とに全力を傾注した。


しかし、翌明治34年4月22日、社会民主党創立を企てていた最中に渡良瀬川沿岸を再訪し、「日進月歩」の世にあって「時々刻々滅亡」していく鉱毒地の惨状を改めて認識し、それを顧みない政府に言及して「『政治』とは果して此の如きものか」という疑いを記している。田中については、「激怒熱罵の横道に走せて為めに静穏に事実を説明するの技能を欠ける翁」と表現をなお用いているが、「田中翁が絶叫して『鉱毒地に憲法なし』と言ふ、吾人は其の決して詭弁に非さるを信ずるなり」と述べて共感を示している(「希望と絶望」4月25日~30日)」。

「木下は、鉱毒地の深刻な惨状と田中の猛烈な奮闘とを見て、文明社会や立憲政治の現実にはわずかに疑問を抱きながらも、自分が拠って立つ文明主義立憲主義の思想をますます確信していた。」


明治34年秋から木下は、東京での川俣事件控訴審によって鉱毒問題に関する世論が喚起されるとともに、日本基督教婦人矯風会に働きかけて、11月16日に潮田千勢子らを鉱毒地に案内し、同月29日には足尾鉱毒窮民救助演説会を開催して鉱毒地婦人救済会を組織した。

そして『毎日新聞』紙上では、人為の結果としての鉱毒問題が「明治政府の罪悪史」であるだけでなく「明治社会の一罪悪史」であり、「社会と国家と共に其罪責を免れざるなり」という視点を示すようになった(「慈善と罪悪」11月13日、「最も恐るべき者」11月18日)。

そのように「政治的な責任のみでなく道徳的さらには宗教的な罪悪を問題にし、それを社会に突きつける独特の論理は、その後いよいよ鋭くなり、しかも木下自身にも向けられていくようになる。」

明治34年は、5月に社会民主党結成および禁止、6月に木下が告発した星亨の横死、11月29日の演説会の報を受けた古河市兵衛夫人の入水自殺、12月10日の田中の直訴など、木下の心に傷跡を残すこ事件があった年である。


つづく



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