大杉栄とその時代年表(378) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ2 より続く
〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ3
2)鉱毒地訪問から鉱毒地救済婦人会の発足へ
明治34年11月1日、潮田千勢子らは、毎日新聞社の鉱毒演説会に出席し、被災地を実視を思い立つ。
11月16日、有志婦人数名で初めて被害激甚地海老瀬村に赴く21)。彼女たちは、被災地の惨状をみて、帰りの車中で鉱毒地救済婦人会を組織することを決めたという。
この時のルポルタージュを潮田千勢子は「鉱毒被害地渡良瀬の民」『婦女新聞』vol.81・82(明治34年11 月25日・12月2日発行)に報告し、『婦人新報』vol.56号(明治34年12月25日発行)にも「鉱毒地訪問記」というタイトルで寄稿している。
註
21)大鹿卓『渡良瀬川―第三篇 第十章』によれば、矯風会から潮田のほかに、会頭矢島楫子、朽木男爵夫人、島田三郎夫人、毎日新聞の婦人記者松本英子の5人。そして正造自身が案内に立った。底本:「渡良瀬川」新泉社 1972(昭和47)年
ルポの概要
貧民の家を20軒ほど訪問したが、いづれも事情は少し変わっているが、皆、鉱毒被害のため(生活)困難におちいり、食物を得る道もなく、瀕死の状態にあること、婦人は眼病か胃病かであること、東京の貧民にくらべようもないくらい憐れな境遇である。……さらに、学校を参観したが、壁が落ち軒が傾いている荒屋で、教員一人に生徒80人、そのうち女子は3人であった。学童は300名余いるが、鉱毒のため糊口の道を失って、教育のことなど顧みるいとまがないとのことである。せめてこれらの子女を東京にともなって教育を受けさせたいと思って、親に勧めたが、「質撲なる田舎人の性として何とも決し兼ねた有様であるから有志者に委任してきた。……このような悲惨の形跡が東京を距る僅か二十里ばかりのところにあるのを、なぜ我々は今まで知らなかったのであるか、世の慈善家は何故に顧みなかったのであるか、田中翁が十年一日の如く狂奔するのもむりではないと、実に深く感じた次第である。
「潮田は、「貧民としての女性、子どもに敏感に反応していること、そして東京の貧民とくらべようもなく憐れな境遇と、東京の貧民との比較をしていることは注目すべきことである。貧しさに着目しているが、「醜業婦」は貧しさから発生することを痛いほど知っている潮田ならではのセンスが光る。」(山田)
「『婦女新聞』82号の巻頭では、潮田のルポに先立って、「鉱毒問題と婦人」と称する記事が掲載されている。「鉱毒問題は、婦人の援助を俟つ刻下の急問題であり、これは一地方の問題ではなく、30 万の民が飢餓に泣き五百町歩の肥田は荒蕪に帰せんとしている。今の慈善家はあまりに浅見、現金的である。目前には同情するが、5年10年20年に渉って無形的漸進的な千百の苦難に翻弄されているものにはあわれを感じないのか」と、鉱毒問題に女性たちがめざめ、輿論を高揚し、父、夫、兄弟という男性を巻き込みつつ、問題解決させよと、早急な対応を求めている。」(山田)
3)破竹の演説会と世論の沸騰
11月29日、神田青年会館に於いて窮民救助演説会が矯風会の発起でおこなわれた。司会矢島楫子、演説者は巖本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎、潮田千勢子。渡良瀬川沿岸の被害民の救済を訴え、鉱毒地救済婦人会の設立が発表された(潮田千勢子「鉱毒地救済婦人会の来歴」22))。この演説会は予想以上の成功をおさめた。「満場昂奮の渦と化し百円余の寄付金が集まった。木下はこのときの模様を後に「私は自分で驚愕した程……『霊的』の集会」と回想している23)。
註
22)丸岡秀子編『日本婦人問題資料集成』ドメス出版1976 年 P.427
23) 山極圭司『木下尚江』p.218、及び鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.339
11月30日、古河市兵衛夫人為子、東京の神田橋下で水死体にて発見される。投身自殺といわれる。為子は市兵衛の蓄妾に苦しみ精神を病んでいたとも言われる。矯風会の一夫一婦制に共感していたともいわれ、矯風会の演説会に侍女を潜り込ませていた。この事件は新聞各紙がとりあげ、センセーショナルな話題を呼び、市兵衛個人の蓄妾に対する道徳上の非難は、やがて、人々によって鉱毒事件と結びつけて考えられるようになった24)。
11月22日から毎日新聞の松本英子が,「鉱毒地の惨状」を連載(明治35年3月23日まで)。足尾鉱毒被害民を訪問した<救済婦人会>の婦人の筆(みどり子)とし、被害民と被害地の疲弊した実情を絵入りで詳細に描写した。これは、1902(明治35)年4月、『鉱毒地の惨状』として刊行される。
こうして、鉱毒地救済婦人会は1901(明治34)年、12月6日発足した。会長潮田、発起人朽木よし子25)山脇房子26)矢島楫子27)松本英子28)木脇その子 木下操子29) 三輪田真佐子30)島田信子31)。
12月7日、矯風会年会で、潮田は会頭辞して、貧民の友として働きたしとの意向を示すが再選された。潮田は、廃娼運動、一夫一婦制の確立という矯風会の運動目標と同時に、鉱毒地の貧民救済のために尽力したいという熱い思いがあった。
註
24)鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.341 三一書房、1974 年
25)朽木男爵の妻
26)1903 年東京牛込白金町に山脇女子実修学校(現山脇学園)が創設されると同時に校長となる。のち山脇学園校長
27)女子学院院長、矯風会会頭
28)毎日新聞社記者
29)木下尚江妻
30)三輪田女学校(1902)を開設
31)島田三郎妻
12月10日、田中正造、鉱毒事件で天皇へ直訴。
正造の直訴もあり、また、鉱毒地救済婦人会の結成により、世論は沸騰した。鉱毒地救済婦人会はその後、連日演説会を開催し、キリスト教女性団体の運動として、それまでの政治家や限定的な有志の運動とは異なる層のこの問題への関心の掘り起こしに貢献した。
「女性による被災地支援の喚起という戦略は、慈善、憐憫の情といった世論を形成する新たな層を呼び覚ました。女性たちや当時東京帝国大学学生であった河上肇32)をはじめとする若者層に働きかけ、そのことによって鉱毒問題を単に一地方の鉱毒問題に終わらせることなく世紀の公害問題として歴史の中に立ち上がらせることとなった。これを契機に義捐金、窮民救助、被害地病人の上京治療、被害地の少女の教育などが始まった。」(山田)
矯風会は被災地の婦女子支援として、生活困難婦女子を大久保の矯風会の慈善事業の拠点である慈愛館に引き取っている。『婦女新聞』vol.83(明治34年12月9日発行)で「過日、鉱毒地救済婦人会は、14 名の女児を引き受け、目下、婦人矯風会にて設立せる慈愛館にて救養せる由なるが、可憐なる児童は尚数多被災地にて飢餓に泣き、同会の経費不足にてこの上の収容に躊躇せる様子、地方慈善家、同会に金員または、物品を寄贈せられたき方は毎日新聞社松本えい子宛まで」と支援を訴えている。また、現地谷中村に授産場を作り、被災地の就労の場33)を提供している。
註
32)東京帝国大学生の河上肇は明治34年12月20日、鉱毒地救済婦人会主催の演説会(本郷中央会堂教会)の田村直臣牧師の演説に感激し、二重外套や羽織を司会者潮田に寄付し、翌日手元の衣類を纏めて行李にいれ、救済会事務所に送り届けた。
33)経木(西洋婦人帽子の原料で柳の木を削り麦わらのように編む輸出品)製造
キリスト教系の運動と競合するように仏教界も支援活動を展開する。臨済・真言・曹洞の三宗派は1901年11月上旬に合同支援活動を行うため、委員を選定、被害地視察している。臨済宗建長寺派は11 月18日、被害地末寺に対し、支援のために寺院使用を図る訓令を出している。年末には、本願寺から医師、看護婦が被害地に派遣されている。西本願寺別院は救助品を1902 年1 月に送付、救助の金品を被害民に分配しながら法話会を開催するという運動スタイルをとった。地域密着と統制のとれた行動、豊かな財政力があったといわれる34)。
また、学生による被害地大挙視察もはじまるが、これは鉱毒地救済婦人会が仕掛けたものである。
1901年12月27日、集合場所の上野駅構内は学生であふれ、千百四人の大視察団となったという。30 日に行われた報告会は神田青年会館を熱気に包むものだった。1902年元旦からはじめられた学生による路傍演説は、不特定多数の広範な対象に働きかけることを可能にした35)。
註
34)鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』pp.342 - 343
35)同上 p.343
1902年1月5日~15日、潮田は、田村直臣、木下尚江共に京阪地方に遊説に出かける。
「鉱毒救済問題彙報」『婦人新報』vol.58(明治35年2月25日発行)によって、その遊説の一端を見てみる。
・1月6日夜 大津市坂本町交道館(男女500名、義捐金10余円)
・1月8日午後2時、京都四条教会(開会前よりすでに満員、講壇の上まで聴衆が溢れた。義捐金70余円、山のような衣類の寄付。同志社女学校の生徒3名は、2,3箇月被害地に行って、慰籍したいと申し出た。寄付品は四条教会および洛陽教会事務室に堆積せり)
・1月10日午後7時~11時、神戸教会(600余名、寄付金60余円、衣類、十数点)
・1月11日午後1時、大阪土佐堀青年会館(開会前に満員、700名以上、毒地の惨状を見るが如く説くと、老人が突如演壇の前にきて外套、羽織、襟巻き、手当たりしだいに壇上に投じた。壇上に義捐するものたちまち20余名、50余円)
・1月11日夜、京都洛陽教会(尋常中学生らの熱心な計画によって開催。600余名、大半は学生男女。義捐金20円、衣類寄贈)
つづく
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