1907(明治40)年
10月
〈7年間のウィーン滞在中にトロツキーが知り合いになった人々〉
「ベルリンでは、毎週開かれていた左派の会合に何度か出席する機会があった。会合は毎週金曜日にレストラン『ラインゴールト』で開かれた。会合の中心人物はフランツ・メーリングで、カール・リープクネヒトも顔を出していた。彼はいつも遅れてやってきては、他の連中よりも早く帰っていった。そこに私を初めて連れていってくれたのはヒルファディングである。彼は当時はまだ自分のことを左派だとみなしていたが、ローザ・ルクセンブルクを毛嫌いしていた。この憎悪は、ダシンスキによってオーストリアに移植されたものだった。そこでの会話の中で、たいしたことは記憶に残っていない。メーリングは頬をぴくぴくさせながら――彼は顔面神経痛を患っていた――自分の『不朽の名著』のうちどれがロシア語に訳されているのかを皮肉っぽく尋ねた。ヒルファディングが会話の中でドイツの左派のことを革命家だと言うと、メーリングはさえぎって、『われわれが革命家だって? 革命家というのは彼らのことを言うんだよ!』と、あごで私の方を指した。私はメーリングのことを個人的にほとんど知らなかったし、ロシア革命に対する俗物たちの嘲笑的な態度に出くわすことがあまりにも多かったので、メーリングが冗談で言っているのか、本気で言っているのか判断がつかなかった。しかし彼は本気で言っていたのであり、このことはその後の彼の生涯が示している。」(トロツキー『わが生涯』)
「私が初めてカウツキーに会ったのは1907年である。私を彼のところに連れていってくれたのはパルヴスであった。私はドキドキしながら、ベルリン郊外のフリーデナウにある小ぎれいなアパートの階段をあがった。青く澄んだ目をした、白髪の陽気で小柄な老人が、ロシア語で「今日は」と言いながら私を迎えてくれた。彼の著作を通じて知っていたことすべてとあいまって、それは非常に魅力的な相貌に映った。とくに魅力的だったのは、そのどっしりと落着き払った態度であった。それは、後でわかったのだが、当時における彼の有無を言わせぬ権威と、そこから生じている内的な平静さの結果だった。敵はカウツキーのことを第2インターナショナルの『教皇(パパ)』と呼んだ。友人もしばしば彼のことをそう呼んだ。ただし親愛の情をこめて。カウツキーの老いた母は左翼的傾向小説の作家で、その作品を『わが息子にしてわが教師』に捧げていたが、彼女の75歳の誕生日に、イタリアの社会主義者たちは「パパのママへ(alla mamma del papa)」という祝辞を寄こした。
カウツキーは自らの理論的使命を主として、改良と革命を和解させることに見出していた。しかし、彼自身が思想的に形成されたのは改良の時代だった。彼にとって現実とは改良のことに他ならず、革命はぼんやりとした歴史的展望だった。カウツキーは、マルクス主義を出来合いの体系として受け入れ、それを学校教師のように通俗化して普及した。大事件は彼の手に負えないことがわかった。彼の没落はすでに1905年革命から始まっていた。カウツキーとの私的会話はほとんど実りのないものだった。彼の知性はぎこちなく、無味乾燥で、機知に乏しく、心理的洞察に欠けており、評価は図式的で、冗談は月並みだった。これと同じ理由で、カウツキーは演説が極端に苦手だった。
ローザ・ルクセンブルクとの親交は、カウツキーの知的創造力の最良の時期にあたっていた。だが、1905年の革命直後からすでに、両者の関には冷ややかなものが流れはじめていた。カウツキーはロシア革命に大きな共感を寄せていたし、それを遠くからとはいえ好意的に論評していた。しかし、革命的方法がドイツの地に持ち込まれることに対しては本能的に敵意を抱いていた。ある時、トレプトウ公園での街頭デモに先立って、私がカウツキーのアパートに行くと、ローザとカウツキーとが激しく議論を闘わせていた。彼らはまだ親しい友人の口調で相手を呼びあう仲であったが、ローザの受け答えには、押しころしたような憤りがはっきりと聞きとれた。他方、カウツキーの受け答えには、無意味な冗談にまぎらわしていたが、内心での深い困惑が感じられた。私たちは連れ立ってデモに出かけた。ローザ、カウツキーと妻のルイーゼ、ヒルファディング、故グスタフ・エクシュタイン、そして私であった。道中でも激しい口論が起きた。カウツキーは単なる傍観者でいることを欲したのに対し、ローザ・ルクセンブルクは参加者たらんとしていた。
2人の対立が表面化したのは、1910年、プロシアの選挙権獲得闘争の問題をめぐってであった。カウツキーはこの時、打倒戦略に対抗して、消耗戦略という戦略原理を展開した。問題は2つの非和解的な傾向にあった。カウツキーの路線は、ますます深く現存体制に順応していく路線であった。この場合、『消耗』したのはブルジョア社会ではなく、労働者大衆の革命的理想主義であった。あらゆる俗物、あらゆる官僚、あらゆる出世主義者たちが、カウツキーの側に与した。カウツキーは、こうした連中のありのままの姿をおおい隠すための観念的な外套を織ってやっていた。
戦争が勃発したとき、政治的な消耗戦略は塹壕戦略によって押しのけられた。カウツキーは、平和に順応したように、戦争にも順応した。それに対しローザは、己れの理念に忠実であるということがいかなるものかを身をもって示した…。」(トロツキー『わが生涯』)
「カウツキーは、言うまでもなく、第2インターナショナルの最も傑出した理論家であり、彼の意識的生活の半分以上にわたって、第2インターナショナルの最良の面を提供し総括してきた。マルクス主義の宣伝家であり通俗家であるカウツキーは、自己の重大な理論的使命を、改良と革命とを和解させることに見出した。しかし、これは思想的に彼が改良の時代に形成されたことからきている。彼にとって現実とは改良のことであった。革命は、理論的総合であり、歴史的展望であった。
(略)
カウツキーは、このようなかけがえのない革命の生きた経験を有していなかった。彼はマルクス主義をできあいの体系として受け入れ、科学的社会主義の学校教師としてそれを通俗化した。彼の活動の全盛期は、パリ・コミューンの崩壊と第1次ロシア革命の間の深いくぼみの時期にあたっていた。資本主義はあらゆるものを征服してやまない勢いをもって繁栄し、労働者組織はほとんど自動的に発展した。しかし、『最終目標』、すなわちプロレタリアートによる社会革命の事業は運動そのものから遊離し、純粋にアカデミックな性質を保っていた。ここから、ベルンシュタインの悪名高い格言、『運動がすべてであり、最終目標は無である』が出てきたのである。労働者政党の原理としては、これはでたらめであり俗悪である。しかし、戦争までの最後の4分の1世紀におけるドイツ社会民主党の実際の精神を反映するものとしては、ベルンシュタインの格言は実に典型的なものであった。改良主義的日常闘争は自足的性格を受け取り、最終目標の方はあいかわらずカウツキーの担当であったのである。
カウツキーは、マルクスとエンゲルスの教義の革命的性格を倦まずたゆまず主張したが、ただしその際、修正主義的試みに対する反撃のイニシャチブはたいてい彼には属さずに、より断固たる潮流(R・ルクセンブルク、プレハーノフ、パルヴス)に属した。しかし、カウツキーは社会民主党を完成されたものとして、それと丸ごと妥協し、その深刻な日和見主義的性格には気づかず、党の戦術をいっそう決然としたものにしようという試みに応じなかった。党、すなわちその指導的官僚層の側でも、カウツキーの理論的急進主義と妥協していた。実践における日和見主義と原理における革命主義とのこうした組み合せは、ほとんど半世紀にわたって党の争う余地のない指導者であった天才的な旋盤工アウグスト・ベーベルのうちにその最高の表現を見ることができる。ベーベルは理論の領域においてはカウツキーを支持し、カウツキーは政策の分野においてはベーベルを揺るぎない権威として認めた。ただルクセンブルクだけが、カウツキーをベーベルが望むよりも左に押しやったのである。
(略)
1905年にロシア革命が勃発した。それはすぐさま世界の労働運動の急進的傾向を強め、カウツキーの理論的権威を大いに強化した。革命の内部問題において彼は断固たる立場を占め(実際には、他の人に遅れてだが)、ロシアにおける革命的社会民主主義政府を予見した。ベーベルは私的な会話の中で「熱中しやすい一寸法師」をからかい、薄いくちびるの端でほほえんだ。ドイツ党においては、ゼネストについての論議と急進主義的決議とに問題が矮小化された。この時がカウツキーの絶頂であった。その後、彼は坂を転がり落ちるように転落していったのである。……
ロシアにおいて革命が撃退され、プロレタリアートは退けられ、社会主義は砕け散って地下へと追いやられた。自由主義ブルジョアジーは、帝国主義的プログラムの立場から君主制との妥協を模索した。革命的方法への失望の波がインターナショナル中に広がり、日和見主義は雪辱を果たした。同時に、資本主義諸国間の国際的関係はますます緊張の度合いを深め、終局へと近づきつつあった。そして、社会主義政党は、民族国家を支持するのか、それともそれに反対するのかについて、立場を完全に明確にすることを迫られた。革命的理論から結論を引き出すのか、それとも日和見主義的実践をとことん押し進めるのか、いずれかが必要であった。しかしながら、カウツキーの全権威は、政策における日和見主義と理論におけるマルクス主義との妥協によって支えられていた。左派(ルクセンブルクその他)は率直な回答を求めた。すべての諸事情が回答を求めた。他方では、修正主義が全戦線で攻勢に転じていた。カウツキーはますます当惑し、ますますきっぱりと左翼と一線を画し、ベルンシュタイン派に接近し、マルクス主義的立場の外観を維持しようとする虚しい試みを行なった。この時期、彼はその外見すらも変化した。明朗な落ち着きは姿を消し、目には不安の色がよぎり、何かが彼を内部から無慈悲にむしばんでいた。」(トロツキー『戦争と革命』より)
「もう一つ思い出されるのは、カウツキーのアパートで開かれたレーデブールの60歳の誕生祝いのことである[1910年]。10人ほどの来客の中に、その時すでに80歳にさしかかっていたアウグスト・ベーベルもいた。それはドイツ社会民主党が絶頂にあった時であった。党の戦術的統一性は完璧であるように見えた。古参幹部たちは党の成果を列挙し、確信を持って未来を見ていた。主賓であるレーデブールは夕食の時、こっけいな諷刺画を書いてみせた。この内輪の祝いの席で私は、ベーベルと妻のユリアに初めて会った。カウツキーをはじめとする参会者たちは、老ベーベルの言葉を一語一語聞き入っていた。私もそうしたことは言うまでもない。
ベーベルは、その人格のうちに、ゆっくりとだが着実に台頭しつつある新しい階級を体現していた。この痩せた老人は全身これ、単一の目標に向けられた我慢強く揺るぎない意志でできているように見えた。その思考、その雄弁、その論文と著書において、ベーベルは、直接的な実践的課題に役立たないような精神的エネルギーの支出をまったくすることがなかった。そこに、彼の政治的パトスの独特の美しさがあった。わずかな自由時間に学び、一分一秒を無駄にせず、厳密に必要なものだけを貪欲に吸収しようとする、そういう階級をベーベルは体現していた。何という比類なき人間像であることか! ベーベルは、バルカン戦争と世界大戦との間のブカレスト講和会議の最中に死んだ[1913年]。私はその知らせをルーマニアのプロエシュティ駅で受けとった。私は信じられなかった。『ベーベルが死んだ。ドイツ社会民主党はいったいどうなるんだろう?』。
すぐ頭に浮かんだのは、ドイツ党の内情について語ったレーデブールの言葉である。『20%は急進派、30%は日和見主義者、残りはベーベルについていく』。
ベーベルが自分の後継者として選んだのはハーゼだった。老ベーベルは、疑いもなく、ハーゼの理想主義に惹かれていた。だがハーゼのそれは、スケールの大きい革命的理想主義ではなく、もっと狭く、もっと個人的で凡庸な理想主義だった。たとえば、ケーニヒスベルクでの金になる弁護活動を党の利益のために断ったといった類のことである。さして英雄的とも言えないこの自己犠牲について、ベーベルはこともあろうに――ロシアの革命家は大いに当惑したものだが――イエナで開かれた党大会の演説で持ち出し、ハーゼを執拗に党中央委員会の副議長に推薦した。
私はハーゼのことはよく知っていた。ある党会議の後、私たちはいっしょにドイツ国内の小旅行に行き、ニュールンベルクを観光して回った。個人的なつきあいでは柔和で親切だったハーゼは、政治においては、その根っからの性質にもとづく水準を最後まで脱することはなかった。すなわち、正直な凡人、革命的な気質も理論的視野も持たない地方的民主主義者という水準を。哲学の分野では、彼は少し気恥ずかしそうにカント主義者を自認していた。危機的な情勢になるときまって彼は、最終的な決定を回避し、小手先の措置と事態の静観に傾いた。のちに、独立社会民主党が党首にハーゼを選んだのも十分理解できることである。」(トロツキー『わが生涯』)
「カール・リープクネヒトはまったく違ったタイプの人間であった。私は彼のことをずいぶん以前から知っていたが、会うことはめったになかった。ベルリンにあるリープクネヒトのアパートは、ロシア亡命者の司令部だった。ドイツの警察がツァーリズムに奉仕したことに抗議の声を上げなければならないときには、われわれはまず何よりもリープクネヒトのところに集まった。すると彼はすべてのドアとすべての頭をノックして回った。リープクネヒトは教養あるマルクス主義者だったが、理論家ではなかった。彼は行動の人であった。衝動的で情熱的で献身的な気質の持ち主であった彼は、政治的直観、大衆と状況に対するカン、イニシアチブを発揮する比類なき勇気をそなえていた。彼こそは革命家だった。まさにそれゆえ、彼は、官僚的単調さが支配し何かというとすぐ退却する姿勢にあったドイツ社会民主党の本部では、いつも半ばよそ者であった。いかに多くの俗物と下劣な連中がリープクネヒトを皮肉な目で見下すのを、この目で見てきたことか!。」(トロツキー『わが生涯』)
つづく

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