1907(明治40)年
10月
韓国、警察事務執行の取極書調印(警察合併)。
10月
満鉄、煙台・瓦房店など炭鉱床調査。中央試験所設立(最初は関東都督府)。
10月
大阪で活版技工組合結成。
11月21日加盟70工場で賃上げ要求、23日、同じく20工場の職工700人同盟罷業。
10月
荒畑寒村、堺利彦も周旋で「大阪日報」(社長吉弘白眼)記者となる。多くの時間を大阪の平民運動支援に割く。
10月
小山内薫、「新思潮」を創刊。
10月
京城高等商業学校、東洋協会専門学校(現拓殖大学)京城分校として創立。
10月
谷中村不当廉価買収訴訟。弁護団が残留民に示談を勧める。また、谷中村救済会は残留民に対して暫定的に谷中村恵下野に移住するよう要請。残留民の意志をは不一致。救済会は訴訟から手を引き、会自体も解消。訴訟だけが残留民・正造に残される。
10月
(漱石)
「十月(推定)(臼不詳)、二葉亭四迷の『其面影』(八月二十五日。春陽堂刊)を買って読む。賞賛と激励の意を手紙で伝える。(『長谷川君と余』この手紙はない)
十月(日不詳)、鈴木三重吉に文鳥を買うことを勧められ、五円渡す。」(荒正人、前掲書)
10月
長谷川天渓「論理的遊戯を排す」(「太陽」)
10月
この月(10月)、早稲田大学は創立25周年記念祝典を挙げることになった。新しく校歌を作る案が出て学生から募集したが、よい作品がなかった。審査員の坪内逍遥と島村抱月は、「早稲田文学」の編輯をしていた御風相馬富治を起用してそれを作らせることにした。
相馬は音楽に明るい鉄笛東儀季治のところへ相談に行き、東儀の手もとにあった英米諸大学の校歌をしらぺ、曲を聞き、更に高田早苗や坪内から内容の構想を聞いて制作に取りかかった。そのとき相馬御風が援助を受けたのは三木露風であった。
「都の西北早稲田の森に」ではじまるその歌詞は御風によってまとめられ、東儀鉄笛の作曲によって完成し、その年10月25日の祝祭日の行進に歌われた。
10月
英、ロレンス、オックスフォード大学ジーザズ学寮奨学資金試験合格、入学。~1910年6月。歴史専攻、卒業論文「中世ヨーロッパ築城技術に与えた十字軍の影響」。
10月
ヒトラー、画家を志しウィーン造形美術大学を受験、不合格。
12月母クララがガンで没。
翌08年9月ウィーン造形美術大学を再び不合格。この頃、絵を描きながらウィーンを放浪。風景画や絵葉書などをユダヤ人の画商に売り生計を立てる。
10月
トロツキー、ウィーンに戻り妻子と合流。7年間オーストリア社会民主党員として活動。
ヒルファーディングと知己になり、オットー・バウアー、マックス・アドラー、カール・レンナーを紹介される(これらの人間はマルクス主義者であっても革命家でないと知る)。
後、オーストリア社会民主党の排外主義を批判。ベルリンとの往復で、フランツ・メーリング、カール・リープクネヒト、カウツキーなどと会う。
「1907年10月、私はウィーンに戻った。まもなく、妻が息子を連れてやってきた。新しい革命の波を期待して、私たちはヒュッテルドルフの郊外に住居を定めた。それから長い間、私たちは待つことになった。7年後に私たちをウィーンから押し流した波は、革命の波ではなく、まったく別の波、すなわちヨーロッパの大地を血で染めた世界大戦の波だった。
他のすべての亡命者がスイスかパリに集まっていたときに、どうして私たちはウィーンを選んだのか? それは、当時、私が何よりもドイツの政治生活の近くにいたからである。警察との関係で、ベルリンに住むことはできなかった。そこでウィーンに住むことにしたのである。だが、この7年間というもの、私は、踏み車のリスのようなせわしさをあまりにも彷彿とさせるオーストリアの政治生活よりも、はるかにドイツの政治生活の方を注意深く追った。」(トロツキー『わが生涯』)
「誰もが認めるオーストリア社会民主党の指導者たるヴィクトル・アドラーのことは1902年以来知っていたが、今や、彼の最も近しい取り巻きとオーストリア党全体について知る機会が訪れた。
1907年の夏、私はカウツキーの家でヒルファディングと知り合った。当時ヒルファディングは、その革命性が最高潮にあった。だがこのことは、彼がローザ・ルクセンブルクへの憎悪とカール・リープクネヒトへの軽蔑をつちかうことを妨げはしなかった。しかし、ロシアに関しては、当時の他の多くの者と同様、最も極端な結論を受け入れる用意があった。彼は、『ノイエ・ツァイト』に掲載された私の論文を称賛してくれた。その論文は、私がまだ国外に脱出する前にロシアの出版物から翻訳されたものだった。さらに彼は、思いがけないことに、会ってすぐに『俺、お前』の仲でいこうと持ちかけた。そのせいで、われわれの関係は表向きは親しそうに見えた。だが、この親しさには、いかなる政治的・道徳的基盤もなかった。
ヒルファディングは当時、不活発で受動的なドイツ社会民主党のことを非常に見下した態度で語り、それとの対比でオーストリア社会民主党の積極性を持ち出していた。しかしながら、この批判は内輪だけのものでしかなかった。公式にはヒルファディングは、ドイツの党に奉仕する文筆官僚であり続け、それ以上ではなかった。ヒルファディングはウィーンにやってくると私のところに立ち寄り、日が暮れると私をカフェに連れ出し、オーストリア・マルクス主義の友人たちに引き合わせた。私もベルリンに行くとヒルファディングを訪れた。ある時、私たちはベルリンにあるカフェでマクドナルドと会った。通訳をしてくれたのはエドゥアルト・ベルンシュタインだった。ヒルファディングが質問をし、マクドナルドがそれに答えていた。いま私は、その問いも答えも思い出せない。なぜなら、それらは、月並みであることをのぞけば、何の注目すべき点もなかったからである。私は心の中で自問した。彼ら3人のうちで、私が社会主義という言葉で理解しているものから最も隔たっているのは誰だろうか? それに答えるのは至難の業だった。」(トロツキー『わが生涯』)
「ヒルファーディングは、私がこれまで会ったのことのなかったウィーンの友人たちを私に引き合わせてくれた。オットー・バウアー、マックス・アドラー、カール・レンナーといった面々である。彼らは非常に教養があり、さまざまな分野で私より知識があった。最初のうち私は、非常に熱心な――ほとんどこう言ってもいいと思うが――うやうやしい注意深さで、カフェ『ツェントラル』での彼らの会話に耳を傾けた。だが、すぐに私の注意には不審が交じりはじめた。これらの人々は革命家ではなかった。それどころか、彼らは、革命家とは正反対のタイプの人間だった。そのことはあらゆる点に表れていた。問題へのアプローチの仕方に、その政治的意見と心理的評価に、その自己満足――自信ではなく、自己満足――に。私には、彼らの声色にさえ俗物根性が感じとれるような気がした。
私がひどく驚かされたのは、これらの教養あるマルクス主義者たちが、大きな政治問題、とりわけ革命的変革の問題にアプローチするやいなや、マルクスの方法をまったく使いこなすことができなくなることだった。何よりも私がこのことを確信したのは、レンナーとの会話を通じてである。ある時、カフェに遅くまで居残っていたため、私の住んでいたヒュッテルドルフ行きの路面電車がなくなってしまった。レンナーは自分の家に泊まるよう勧めた。当時、教養と才能に恵まれたこのハプスブルク家の官吏は、自ら歴史的弁護を買って出たオーストリア・ハンガリーの不幸な運命によって、10年後にオーストリア共和国の首相になろうとは、思いもしなかったろう。カフェからの帰り道、私たちは、その頃すでに反革命によって制覇されていたロシアにおける今後の発展の展望について語り合った。レンナーは、この問題について、教養ある外国人らしい慇懃さと無頓着さをもって論じた。彼にとっては、当時におけるオーストリアのベック男爵内閣のことの方が、はるかに大きな関心事だった。ロシアに関する彼の見解は要するに、1907年6月3日のクーデター後のストルイピン体制に表現されていた地主とブルジョアジーとの同盟は、ロシアの生産力の発展に完全に合致しており、したがって、そのまま存続することは十分可能というものであった。私は反論して次のように述べた。私の見解では、地主とブルジョアジーとの支配ブロックは第2の革命を準備するものであり、その革命はほぼ間違いなくロシアのプロレタリアートを権力に就かせるだろう。
今でも覚えているが、レンナーはガス灯の下で、困惑したような、それでいて相手を見下したような目でさっと私を見た。おそらく彼は、私の予測を、数ヵ月前の社会主義インターナショナル・シュトゥットガルト大会で将来の世界革命の日時を予言したオーストリアの神秘家の黙示録的予言と同じたぐいの、無知蒙昧なたわごとと思ったのだろう。
『本当にそう思っているんですか?』、レンナーは尋ねた。そして、おそろしく慇懃にこうつけ加えた――『もちろん、私はロシアの状況についてよく知らないんでしょうけど』。
私たちの間には、これ以上会話を続けるための共通の基盤はなかった。この人物は、エジプトのファラオの中で最も保守的な人間と同じくらい革命的弁証法から遠かった。
私が受けた最初の印象は、その後ますます深まるばかりであった。これらの人々は多くの知識を持ち、日常の政治的実務の範囲内では立派なマルクス主義の論文を書くこともできた。だが、彼らは私にとっておよそ異質な人々であった。私の交際範囲と見聞が広がれば広がるほど、この点に対する確信はますます強まっていった。彼らは、仲間内でのうちとけた会話の中では、論文や演説におけるよりもはるかにあけすけに本音を語り、時にはあからさまな排外主義的感情を、時には小金持ちの高慢さを、時には警察に対するうやうやしい畏れを、時には女性に対する下劣な態度を、さらけだした。そのたびに私はあっけにとられて、心の中でこう叫ぶのだった。「何という革命家だ!」。
労働者のことを言っているのではない。もちろん、彼らにも少なからぬ小市民的特徴が見られるが、それはもっと単純で素朴なものである。だが、私が前にしていたのは、戦前のオーストリア・マルクス主義の精華であり、国会議員、著述家、ジャーナリストのお歴々だった。こうしたつき合いを通じて私は、いかに多様な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして、体系の一部を受動的に認識する水準から、その体系を総体として心理的に感得し、その体系の精神で自己を再教育するに至るまで、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。マルクス主義者の心理タイプというものは、社会的激動の時代、伝統と習慣との革命的断絶の時代においてしか形成されない。だが、オーストリア・マルクス主義者は、あたかも人が法律を学ぶようにマルクスの理論のあれこれの部分を学び、『資本論』の利子で食っていたため、あまりにもしばしばその俗物性をさらけだした。オーストリア帝国の古い町ウィーン、この階層的でせわしく虚栄に満ちた都市で、マルクス主義の学者たちはいかにもうれしそうにお互いを『博士(ヘル・ドクトル)』と呼びあっていた。労働者もたびたび彼らのことを『同志博士(ゲノッセン・ヘル・ドクトル)』と呼んでいた。
ウィーンに住んでいた7年間というもの、私はこれらの指導者たちとの誰とも心を割って話すことができなかった。その間ずっと、私はオーストリア社会民主党の一員であり、その集会に出かけ、デモに参加し、出版活動に協力し、時にはドイツ語で短い報告さえしたというのに。私はこの社会民主党指導者たちを自分とは疎遠な人々であると感じたが、集会やメーデーでの行進で出会った社会民主党の労働者たちとは、共通の言葉をやすやすと見出した。」(トロツキー『わが生涯』)
つづく

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