2023年5月15日月曜日

〈藤原定家の時代361〉建仁2(1202)年4月1日~29日 定家、後鳥羽院の水無瀬殿に供奉(4/7~11) 「病卜称シテ出仕セズ。私(ひそか)ニ東山ニ行キ、心ヲ述(の)ブ。晡(ひぐれ)、冷泉ニ帰ル。」(『明月記』)

 


〈藤原定家の時代360〉建仁2(1202)年3月24日~28日 後鳥羽院の鳥羽殿馬場で競馬 定家は逃亡「予、逐電シテ退出ス。」「心神無キガ如シ。老屈為方無シ。」「心神疲レ、為方無シ。逃ゲ隠レ了ンヌ。」(「明月記」) より続く

建仁2(1202)年

4月1日

「伊勢神宮禰宜、歌ノ好士タルニ依り、・・・・・謁談シ了ンヌ」(『明月記』)。定家に名簿を捧げ門弟となる。

4月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕

4月3日

「鶴岡臨時祭例の如し。但し左金吾御出で無し。」。時政が使者として神拝。(「吾妻鏡」同日条)。

4月3日

・定家、方違行幸に供奉

4月5日

・日吉社参詣。夜宮廻り、通夜。(『明月記』)

4月6日

・日吉社より帰宅後、病悩。(『明月記』)

4月7日

・定家、兼実小仏事に参仕。水無瀬殿に供奉し、遊女参上。(『明月記』)。~11日。

4月8日

・水無瀬辺りの辻祭。二社あり。其の中の一方、田楽を副えて供奉。種々の風流をほどこす。辻祭、渡り終って遊女退出。(『明月記』)

4月9日

・遊女昇降。(『明月記』)

4月10日

・辻祭一昨日の如し。御前を渡る。(『明月記』)

4月11日

・定家、源具親・同家長・藤原清範・同景頼・同秀能と長岡方の具親領に赴き、詠歌

4月13日

「左金吾掃部の頭親能入道の亀谷の家に渡御す。彼の持仏堂の庭の樹下に於いて御鞠有り。金吾出でしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条)

4月15日

・定家、兼実の仏事に参仕。

4月16日

・定家(41)、良輔の露顕に参仕。長男清家(19、のち光家と改名)を良輔に出仕させる。定家、清家を愚痴る。光家は愚息で他に推挙するところがないから、良輔の母に頼み込んで良輔に出仕させることにしたという。

24日は骨休め。

「二流貴族の家長としては自身一身の進退もさることながら、息子のことも考えてやらなければならぬ。長男の清家(後に光家と改名)は十九歳になったが「此ノ愚息、更ニ吹挙スべキ方無シ。仍テ計略ヲ廻ラシ、参ゼシムル所ナリ」というのは、この子の母方に有力な庇護者がなく出世の見込みもうすく、和歌の方もどうにもならなかったので、主家筋の三位中将九条良輔のもと(八条院)へつれて行ってそこに身柄をあずけることにしたわけで、「此ノ愚息」のすぐ前に、「人定メテ非人ニ処スカ」といういささかおだやかでない書き込みがあるは、この長男をさしおいて男子としては三人目の為家に家跡を継がせる決心をしているからである。世の人はおれを人でなしと非難するかもしれぬが、という気づかいである。

これが四月十六日のことで、この三日後に成定中将の息子が元服の式を行うというと、「此ノ子、此モ美麗ナリ。故中将鍾愛ノ子ナリ。身ヲ以テ之ヲ察シ、私(ヒソカ)ニ悲涙ヲ拭フ」などと自分の「愚息」と比べたりもしているのである。」(堀田「定家明月記私抄」)

「・・・これでは歌のことなどを考える暇があるかと気になるほどのたてこみようである。従って時には、 廿四日。天霽(ハ)ル。病卜称シテ出仕セズ。私(ヒソカ)ニ東山ニ行キ、心ヲ述ブ。晡(ヒグレ)、冷泉ニ帰ル。 こういう日でもなければ気も身体も休まりはしないのである」(堀田「定家明月記私抄」)

4月17日

・稲荷の祭を見るため、小児等を桟敷に向わせる(『明月記』)

4月19日

・三位中将殿の御供にて、宜秋門院に参じ、成定中将の子の元服に参向。

「此ノ子、此(かく)モ美麗ナリ。故中将鍾愛ノ子ナリ。身ヲ以テ之ヲ察シ、私ニ悲涙ヲ拭フ」(『明月記』)

4月20日

・定家、良輔妻の行始の供をす

4月24日

「廿四日。天霽(は)ル。病卜称シテ出仕セズ。私(ひそか)ニ東山ニ行キ、心ヲ述(の)ブ。晡(ひぐれ)、冷泉ニ帰ル。」(『明月記』)

4月25日

・竜寿御前、車をかりて常光院に参ず。帰路来訪。別当殿・防州等相具して来り、夕に帰る。

竜寿御前は、式子内親王に仕え、其の薨後は、忌日毎に常光院の御墓に詣でている。(『明月記』)

4月26日

・夜前より咳病の気にて、心神甚だ悩む。(『明月記』)。~29日。

4月27日

「御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)

4月29日

・銅細工師を呼び、仏を鋳奉ることを依頼する。心中に願いあるためである。咳病同じ事。(『明月記』)


つづく

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