2023年5月9日火曜日

〈藤原定家の時代355〉正治3/建仁元(1201)年12月2日~30日 定家、日吉社参籠(官位昇進の祈願の為) 兼実妻の葬儀に参列せず 「夢想已ニ虚ナリ」 石清水社歌合

 


〈藤原定家の時代354〉正治3/建仁元(1201)年11月2日~29日 頼家の蹴鞠への執着続く 後鳥羽院、『新古今和歌集』編纂の勅(「上古以後ノ和歌、撰進スベシ」との院宣) より続く

正治3/建仁元(1201)年

12月2日

・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕。鳥羽殿影供歌合に出席、執筆を勤める。

12月3日

・頼家、佐々木経高に没収した所領の内の一ヶ所を返還する。泰時は義時に対して、どうして全てを返還しないので、これでは恨みが残ると言う

「中務入道経蓮御所に参り、近日帰洛すべきの由を申す。・・・左金吾対面し給う。収公せらるる所の所領の内、先ず一所を返し給うべきの由、経蓮に仰せ下さる。その次いでを以て條々述懐に刻を移す。・・・左衛門の尉義盛以下、親しく往事を視聴するの老人等、これを聞き多く落涙す。また江間の太郎殿内々家君に申されて云く、経蓮収公せらるる所の地、勲功の賞に非ずと云うこと莫し。罪科を宥めらるる上は、悉くこれを返し付けらるべきか。彼は譜代の勇士たり。その恨みを貽さば、公私に於いて定めて阿党の思いを挿むべし。盍ぞ慎しみ思し食されんやと。」。(「吾妻鏡」同日条)。

12月3日

・定家、八条殿仏名に参仕

12月5日

・定家、兼実九条殿御堂の懺法に参仕

12月6日

・定家(40)、日吉神社参籠。~13日迄。例の永信の宅に着く。

月明し。なお雨そそぐ。法華経八巻を写経。

正四位下・安芸権介・和歌所寄人。中将を望む。日吉社参籠は官位昇進の祈願の為。除目が12月22日に迫っている。定家は兼実正室没(10日)を聞いても、都に帰らず参籠を続ける。

12月7日

・定家、終日写経。夜宮廻りして通夜。

12月8日

・定家、終日写経。

12月9日

・定家、終日写経して籠居。「日夜、只身運ヲ思ヒテ、覚エズ涙下ル」

12月10日

・九条兼実の妻藤原兼子(50)、没。没後49日に兼実が出家。

12月11日

・定家、終日なお写経。咳病又発る(~15日)。甚だ術なし。微恙(びよう、軽い病気)なりといえども恐るべし。

「無常ノ理、目前ニ浮ブ。悲シムベン、悲シムベシ」。今夜、父母の夢を見る。この夢想を吉とみずから占ったが、後に思えば虚しかった。

「・・・父と母がいた。母が立って来て、紫宸殿と貞観殿を見ようと言う。そこで共に立ってみると、そこは忽ち山里の家となり、なかに烏龍が一つあった。その中の小鳥を出して鴨を入れようとすると、そこへ犬が来たから追い出すと、染絲をかける棹のところから逃げた。・・・」

「此ノ事ヲ思フニ、神恩ヲ戴キテ、所望ヲ遂グべキノ想ヒナリ。」すなわち、母は当社の権現、紫宸殿は除目御覧の間、鳥籠は近衛府、小鳥は少将、大鳥(鴨)は中将、小鳥と大鳥を入れ替えて自分は中将になり、これを妨げる犬を追い出し、その犬が染絲のところから逃げ出すとは、染絲すなわち禁色を聴(ゆる)される前兆である、「早ク亜相(大納言)ノ望ヲ遂グ。即チ夕郎(蔵人)ヲ拝スべキノミ」

後日これに追記して「夢想已ニ虚ナリ」と失望するにいたる・・・」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

12月12日

・定家、写経終る。咳病更に発り、甚だ悩む。

12月13日

・定家、兼実の室が逝去したが今日九条殿に参ぜず。穢を怖れるためである。

「穢ヲ忘レ、遂ニ木石ノ如シ。生涯詠□□□取ル所ナキナリ」

12月14日

・今夜、北政所御葬送と。

定家、今夜参せず。なお以て心中の恥となす。内々に御遺恨あるの由伝え聞く。

葬送に参じ、穢れれば、院に参向出来ないからである。これを定家の世智というべきか、冷淡というべきか。これまた俊成以来の家の風儀か。

12月15日

・定家、長楽寺杲云の許に高倉尼の病を見舞う

12月17日

・定家、昨夜夢想あり、吉夢と思う。内大臣通親に(中将)所望の事を申し入れる。通親は風邪気味で臥しているとのことだが、「具(つぶさ)の申入ルベキノ由、返事アリ」とのこと。

12月18日

・頼家、「御所の御鞠。」回数は320回(「吾妻鏡」同日条)。

12月18日

・定家、沐浴の後、日入る程に束帯し東宮に参ず。東宮安井殿行啓に供奉。

12月21日

・定家、東宮仏名に参仕

12月24日

・太皇太后多子(62)、没。近衛天皇の皇后で二条天皇に再入内(永暦元年(1160)1月26日、21歳)。父は公能(権大納言から右大臣)

12月28日

・「石清水社歌合」。後鳥羽院ら歌人30名参加。定家、講師を勤める。小侍従(81)参加。後、小侍従の名は歌壇から見えなくなる。翌年に没。

「明月記」の歌合披講の記事(日時不明):

定家が到着した時、源具親は先着している。定家は宿院に入り夕食をとる。戌刻終頃(午後9時近く)、参議源通具が宿院に着き雑談の後、布衣の定家・具親は徒歩で、衣冠に笏をもった通具は輿で、山上の本殿に進み、神前で歌人30人が詠んだ3題90首の歌合を披講し色紙に書く。別当道清はこの歌合を神前に奉納するよう希望し、定家は参議通具と相談のうえ、23日奉納することとする。源通具・源具親は宿院に宿泊。定家は帰宅。

「即ち又馳せ帰る。寒風堪へ難し。夜半過ぎ廬に帰る。奉公粉骨甚だ無益か。和歌の道此の如き重役許りなり。」(「明月記」)。

和歌所寄人源具親は歌人生蓮(源師光)の子。

参議左近衛中将で和歌所寄人の源通具は、権力者内大臣右近衛大将源通親の次男。彼は定家の姪と結婚していたが、それをおいて新しく妻を迎える。通具の新妻は承明門院在子の妹信子(後鳥羽院女房、土御門院乳母按察局)で、従二位一条能保の妻、夫没後、政敵源通親の子と通ずる。

12月29日

・梶原景時の一味、勝木則宗が釈放され鎮西に帰される。

12月29日

・定家、二条殿新宮に馬衣等を奉納

12月30日

・定家、九条邸破損につき高倉邸に移る


つづく

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