2023年5月28日日曜日

〈藤原定家の時代374〉建仁3(1203)年2月17日~30日 密かに大内花見 「年をへて御幸(みゆき)に馴(なれ)し花の陰(かげ)ふり行(ゆく)身(み)をもあはれとや思ふ」(定家) 「定家は四十二歳、、、、なかで長明は最年長(四十九歳くらい)であったろうと思われるが、この長明が横笛を用意して来ていてそれを吹き鳴らす、というところが私には何とも言えず面白いのである。」(堀田善衛)   

 


建仁3(1203)年

2月17日

・巳の時、良経の許に参じ、御供して院に参ず。御修法結願。事終りて退出。窮屈度を失す。(『明月記』)

2月18日

・窮屈により出仕せず。夜に入り、良経御神事あり、人なき由、以経告ぐ。よって参入し、陪膳。深更に退下す。(『明月記』)

2月19日

・巳の時許りに、良経の許に参ず。ついで中納言中将殿に参じ、御供して参内。祈年穀定め。此の間、予、陪膳を勤む。ついで西の陣より、神祇官に参じ給うの間、予、大内に入りて桜花を見る。御供して良経の許に参ず。明日、一品宮、熊野御進発の間、中納言殿参ぜしめ給うと。夕、家に帰る。(『明月記』)

2月20日

・小童を相具し、一条黄門の亭に向い、謁し終りて、帰宅す。院に参じ、越中内侍に遇う。臨時祭の使、勤むべきの由、御気色あり。今年、殊に計略なし。但し、別の仰せに於ては、この限りにあらざる由、申し伝う。(『明月記』)

2月21日

・巳の時許りに、宜秋門院に参じて退出、八条院に参ず。中納言中将殿の御供して良経の許に参ず。ついで大内に向う。有家同じく参ず。外記の庁、南所等を歴覧。政の間の事、粗々沙汰す。申終許りに、良経の許に帰参、夕に退出す。(『明月記』)

2月23日

・和歌所歌合。定家、勧盃を勤める。相互に判を行い、定家の判は有家と番えられる。

乗燭以後、院に参ず。小時ありて、弘御所に出でおわします。公卿以下、召しによりて参着。殿上人長押の下に在り。今夜別の儀あり。各々二人、相替りて評定し勝負すべしと。着座し終りて、予を召し、歓盃。公卿、判者に番文を渡さる。各々披きて見る。ついで殿上人、召しによりて着座。ついで頭弁を召し、講師となし、和歌を読み上ぐ。良経・慈円の御判あり。ついで隆房・公継円座に着く。又読み上ぐ。難を陳ぶるに及ばず (只、猿楽の如し)。次第に相替る。通光、所労を申して参ぜず。よって雅経、中納言と対揚をなす。家長、具親参ずべき由、仰せらる。一巡終りて、鼻返す事、興あるべしといえども、大略言うに足らず。松火の題の如し。三溝終りて、講師退く。今夜、作者を顕わさず。人々皆退出す。甚雨。良経御退出の後、途より家に帰る。(『明月記』)

後鳥羽院は、通常の歌合の形式を破ろうと、いろいろ新儀を考える。この夜は、二人が交替で評定。しかし、定家は、興なくて「猿楽の如し」と評す。

2月24日

・密かに大内花見。帰宅後、雅経に誘われて再び大内訪問。家長・最栄・長明・中原宗安・景頼・秀能と詠歌、連歌。余興尽きず、帰路、即興の管楽の演奏まであった。あの鴨長明が横笛を吹く。

「廿四日。天晴ル。巳ノ時、正親町ニ向フ(女房、小童ヲ具ス)。相公(公経)ニ謁シテ即チ出デ、大内ニ向ヒ、密カニ花ヲ見ル。一時許リニシテ、帰宅スルノ間、藤少将・兵衛佐来タリテ、招引シ、又大内ニ向フ。南殿ノ簀子(すここ)ニ坐シテ、和歌一首ヲ講ズ。狂女等、謬歌ヲ擲(な)ゲ入ル。雑人(ざふにん)多ク見物ス。講了リテ連歌アリ。少将・兵衛佐・馬助家長・其ノ兄の最栄・長明・宗安・兵衛尉景頼・秀能等ナリ。家長盃酒ヲ取リ出ス。秉燭(へいしよく)、大内ヲ出ヅ。家長・長明横笛ヲ吹キ、少将篳篥(ひちりき)ナリ。四人相乗リ、蓬戸ニ帰ル(四人、又後車ニ乗ル)。」(『明月記』)

「このときに定家の講じた歌は、


年をへて御幸(みゆき)に馴(なれ)し花の陰(かげ)ふり行(ゆく)身(み)をもあはれとや思ふ


というものであり、(中略)

数え切れないほどの年をへて ー 新古今集では「春をへて」と変えられている ー 上皇の御幸にも馴れた御所の左近の桜、この桜の陰で老いて行く自分をあわれと思ってくれるだろうか、という次第である。

(中略)

定家は四十二歳、雅経は三十四歳であり、なかで長明は最年長(四十九歳くらい)であったろうと思われるが、この長明が横笛を用意して来ていてそれを吹き鳴らす、というところが私には何とも言えず面白いのである。

(中略)

その夜家長は後鳥羽院に「誰々が心とまる歌よめりつる」と問われ、この歌を教える。後鳥羽はこの歌を「述懐のこゝろもやさしく」と定家の苦衷を認め、「もっとも自讃すべき歌とみえき」とほめた。従って新古今集に自讃歌として入れられるべきものと、後鳥羽院はかんがえたのである。

ところが定家は頑強に拒否した。自分でもどことなく険があると思ったものであろう。

後鳥羽院もまた執念深い男である。後で隠岐の島での、今日『後鳥羽院御口伝』として伝えられている歌論書に「定家は左右なき物なり」、すなわち定家はもうどうしようもない頑固男だ、と前置きをしてこの時の歌を引き、「傍若無人、理(ことはり)も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず」とまで言い出す素地をつくるのである。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

2月25日

・大内花見御幸当座歌会。定家、講師を勤める。

召しあるによりて、歓喜光院に参ず。文車を披き見るの間、青侍奔り来り、院より召しある由を告ぐ。

騎馬し、大内に馳せ参ず。御供の殿上人・北面、春華門ならびに議所の辺りに充満す。定家の行方を御尋ねの後、程を経るの由、各々相示す。よって、敷政宣仁門より東階の方に参ず。中納言・有家、東階の簀子に坐す。その辺りに参ず。此の間、南階の簀子におわします。早く歌を置くべきの由、仰せ事あり。沈思するに及ばず。各々清書す。家長・清範・宣綱(以上、上北面)・長明・宗保・影頼・秀能、樹の下に在り。すなわち歌を進む。予を召す。参上して、読み上ぐ。納言読師。一反詠終りて、還りおわします。御製、

あまつ風しばし吹きとぢよ花ぎくら雪とちりまがふくものかよひぢ

白昼、見苦しといえども、騎馬し馳せ帰りて、休息す。後に聞く、此の花、御硯の蓋に入れ、良経に奉らる。御贈答ありと。(『明月記』)

「後鳥羽院は、前日の定家等の、大内での当座の小歌合に誘われて、急に大内の桜の下の歌合を思いついたのであろう。

この時の定家の歌は、

年を経てみゆきになるる花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ

であり、これは初句を「春を経て」に改めて『新古今集』雑に入集、詞書を、「近衛づかさにて年久しくなりて後上のをのこども大内の花見にまかれりけるによめる」と附している。隠岐本にも残された。

後鳥羽院と良経の贈答は、やはり『新古今集』春歌下に

ひととせ忍びて大内の花見にまかりて侍りしに庭にちりて侍りし花を硯のふたに入れて摂政の許に遣はし侍りし

太上天皇

今日だにも庭を盛と移る花さらずはありとも雪かとも見よ

かへし     摂政太政大臣

さそはれぬ人のためとや残りけむあすよりさきの花の白雪

とある。良経は、「このたびの撰集の我が歌にはこれ詮なり」と自賛したと、後鳥羽院は『後鳥羽院御口伝』に書いている。(中略)一方、定家は、この時の「年を経て」の歌に愛着しなかった。その事を院は、「定家は題の沙汰いたくせぬ者なり」「惣じて彼の卿が歌存知の趣、いささかも事により折によるといふことなし」と批判する。院にとっても、又良経に於ても、歌は宮廷のものであった。帝王として、摂政として左近の桜を詠じることは時と場を重く見たのであった。定家の詩人として純粋は、ただ風騒としてしか理解されなかったのか。『拾遺愚草』には、「大内の花ざかりに、宮内卿、藤少将などにさそはれて」の詞書のもとに記されていて、初句「春を経て」である。そして定家は院の大内歌合の前日の私の会として記録している。詞書の宮内卿は家隆であるが、この日も翌日も彼は参会していない。故意か、記憶違いか。いずれにせよ定家は、院には、自讃歌ではない、撰集に入れるのもいかがと思わせながら、この歌にひどくこだわっていると、私には思われる。『拾遺愚草』は、彼が再び侍従の官にあった、建保4年(1216)に、正編3巻が編まれ、天福元年(1233)の頃まで、みずからの手で増補されつづけた自撰家集である。よって、彼の到達した歌への思いが結晶した集と思われる。正二位の位を極めた定家が、久しい近衛の官を歎く、「年を経て」の述懐を、よしとしなかったのか。明らかに、この歌に於ても、後年隠岐の流され王を意識していたのであった。ちなみに、『源家長日記』もまた、「年を経て」の歌を家長も共にあった小歌合の作としている。院は、「さそはれざりけるこそくちをしけれ」と仰せられたと記す。」山中智恵子『「明月記」をよむ ― 藤原定家の日常』)

2月27日

・巳の時許りに、院に参ず。良経御参。御退去の後に退出。女房示し合さらるる事によりて、宜秋門院に参ず。良経・良輔御坐す。良経仰せていう、今夜、前駆等早く退出すべし。汝この辺りに宿し、明旦、院参に供すべしと。よってこの辺りに宿す。(『明月記』)

2月28日

・辰の時に参上。巳の時許りに御供して、院に参ず。未の時許りに還りおわしまして、退出す。(『明月記』)

2月29日

・巳の時、院に参ず。相次いで良経の許に参ず。慈円御坐す。見参せずして退出し、八条院に参ず。良輔に見参し、家に帰る。夜に入りて参内。蔵人俊光語るにより陪膳し、退出す。(『明月記』)

2月30日

・午の時、九条に向う。出でて日吉社に参ず。晩景に宮廻る。夜に入り、雨を凌ぎて通夜。(『明月記』)


つづく


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