2026年2月19日木曜日

大杉栄とその時代年表(759) 1907(明治40)年11月23日~29日 「「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。」(荒正人)   

 

上田敏

大杉栄とその時代年表(758) 1907(明治40)年11月10日~22日 「『読売新聞』に、白雲子「漱石の人物と其作物」掲載される。・・・人物では徳義を知らず、作物では第三流に位すると批評する。自然主義者たちの反感を代表したものというよりも、『読売新聞』の漱石への反感を露骨に主張したもので、非難と罵倒の限りを尽くしている。『読売新聞』では、明治三十九年末頃から明治四十年初めまで、入社を期待し再三「社告」を出したにも拘らず、裏切られたという感じが強かったと推定される。」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

11月23日

名古屋において開港式挙行

11月24日

大杉栄(22)、牛込区牛込赤城元町の貸席・清風亭で劉師培らが開いた社会主義講習会(第6回)に出席。前回に引き続き「バクーニンの連邦主義」を講演。参加者100余名。

25日、東京控訴院で電車賃値上反対騒擾事件の控訴審判決。大杉栄(22)無罪(のち検事長によって大審院に上告される)。西川光二郎、岡千代彦、山口義三、吉川守圀、斎藤兼治郎、樋口伝、半田一郎、竹内余所次郎、松永敏太郎、鈴木高次、増山伝吉、羽鳥滝三も控訴棄却で無罪。一審で各重禁錮1年6ヶ月だった千葉操と山本不美男は、一審判決を取り消して、千葉は重禁錮1年、山本は無罪。

11月25日

(漱石)

「十一月二十五日(月)、上田敏欧米私費留学の送別会、与謝野鉄幹の肝煎りで、上野の精養軒で行われ、出席する。森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・木下杢太郎・成瀬無極ら五十人余り集る。森鴎外の次に壮行の辞を指名される。西洋から新式の便器を持って帰った話をする。森鴎外は独特のユーモアに感心する。この会は「市楊会」と名付けられる。

十一月二十七日(水)以前、荒井某、紹介状なしで訪ねて来て、信州に帰る旅費を得たいからと『坑夫』の素材を売り込む。上田敏が洋行の暇乞いに来ていたため、荒井某に再び来るようにと云い、若干の金を渡す。

(十一月二十七日(水)、上田敏、横浜港からサイベリア号で出発する。京都帝国大学総長岡田良平、上田敏に京都帝国大学に来るように勧める。明治四十一年二月十五日(土)付夫人宛手紙に、京都帝国大学就職の件はぼ決定したこと、三月二十四日(火)付(ナポリ発)夫人宛手紙で確実に決定したことを伝える。


(荒井某);当時、十八、九歳。その後、書生として住み込み、漱石の子供たちの作文や習字に、甲乙を付けたりする。明治四十一年四月三日までいた。『坑夫』が発表されてから、漱石の悪口を沼波瓊音(『万朝報』)や新渡戸稲造に持ち込んだことを沼波瓊音から聞かされる。荒井某に問い訊すと否定したが、翌日急に帰りたいと云い家を出る。その後二、三度訪ねて来たが、会わない。このことがあってから、紹介状のない人物には会わぬことにする。


(上田敏);アメリカを経て、フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・ドイツ・オーストリー・スイス・イタリアを廻り、明治四十一年十月十四日(水)帰国する。文学のほか、音楽・美術に関する見聞を拡げる。」(荒正人、前掲書)

11月27日

上田敏(33)、横浜港からサイベリア丸で出航、アメリカを経てヨーロッパ留学に向かう。

翌明治41年10月22日帰国。

上田敏には婁悦子との間に娘瑠璃子(6歳)があり、高等師範学校教授と東京帝大文科大学講師とを兼ねていた。彼の研究、翻訳等の仕事は、明治38年10月に出した「海潮音」を最高潮として、休息期に入った感があった。「海潮音」は白秋、霞風、太田正雄等の新詩人たちに取っては極めて大きな意味を持っていたが、出版当時は売れ行きが悪く、出版社本郷書店では残本をもてあましていた。

明治39年1月、彼は馬場孤蝶、森田草平、生田長江とともに雑誌「芸苑」を再興した頃から、日本の芸術一般の批評家として活動しようと試みた。彼はこの雑誌に「芸苑子」なる名前で「鏡影録」を連載し、文学のみでなく、演劇、音楽等の分野についても具体的批評を行った。この雑誌は、はじめ殆ど上田敏一人が仝誌面を埋めて書いていたが、次第に若い人々が登場した。生田長江がよく活躍し、彼があまり長い「小栗風葉論」を書いたので、それまでの星郊(せいこう)という号のかわりに、長江という号を上田敏からもらった、という喝が出た。また上田敏の従弟蘆風吹田順助が詩を書き、暮潮小牧健夫、江村川下基一、草野柴二こと若杉三郎、茅野蕭々、辻村鑑等の新人が執筆した。森田草平と生田長江が主として文壇時評を行い、横瀬夜雨、石川啄木、三木露風等が詩を寄稿した。

明治40年1月、上田敏は、「読売新聞」が恒例によって行う、新年特輯号に依頼されて217行の長詩「牧羊神(ぼくようしん)」を発表した。それは、「阜(をか)の上の森陰に直立(すぐた)ちて/牧羊の神パアン笙(しやう)を吹く」で始まり、「『ざらば明日参らう。/うえうちり、たちえろ』/白樺木立わけ入れば、/東の阜に月はのぼりぬ」で終る力作感に満ちたものであったが、牧羊神の説明的な挿句が多く、「踏絵」のような鮮明な集中的な効果は持ち得なかった。

明治40年、彼は森田草平や生田長江の世話で、九段中坂下のユニヴァーサリスト教会を会場として、芸苑社の連続講演会を開き、藤村、孤蝶等の講師に混って彼自身も「希臘古典劇論」、「旧訳書の文学的価値」、「中世文学」等の欝を行った。Lかしこれ等の講演でも、「芸苑」編輯でも、彼は文壇の常識からは遥かに高い学究的レベルを崩そうとせず、その隔離感を自ら持てあましたかのように、この年5月、通巻17号で「芸苑」発行を中止した

この年の夏頃、画商小林文七が、浮世絵の販路を海外に拡める計画を立て、上田敏にその仕事を援助する意味での同行を求めた。彼はそれを受け容れ、アメリカ~ヨーロッパに遊ぶこととした。

11月25日、与謝野寛の肝煎りで、上野の精養軒で送別会が開かれた。出席者は、鴎外、漱石、藤村、孤蝶等を50余名。東京帝大や高等師範学校で彼に学んだ学生の外、「芸苑」「明星」等の関係で直接間接に上田敏を知る青年たちも多かった。太田正雄や成瀬清(東京帝大独文科学生、数え23歳)もいた。成瀬は、「帝国文学」に小説や戯曲を書き無極という雅号を持っていた。彼は独文科で藤代素人(そじん)の指導を受けていたが、フローレンツの講義は時々怠けて、漱石のシェイクスピア講義を聞きに行ったりしていた。漱石はこの年の春に東大をやめたので、この日成瀬は久しぶりでその姿を見た。

テーブル・スピーチは、鴎外が先ず指名され、彼は「人生というものは」で始まる鄭重な送別の言葉を述べた。次に漱石が指名され、漱石は、「西洋から雪隠を土産に持って帰った男の話」をした。角ぼった顔に口髭を生やした漱石は、唇のあたりに微笑を漂わせながら低い声で語った。ロンドンで西洋便所に感心した男が、新式の便器を買って持ち帰ったところ、日本でもとうにそれ以上のものが出来ていた、ということである。自分は洋行などはつまらぬものと思う。洋行する金があったら家でも建てた方がいい、というのがその趣旨であった。

成瀬清はたまたま鴎外の近くに坐っていたので、鴎外が傍の者に「夏目君にはああした独特のユーモアがある」と言ったのが聞えた。成瀬はそれを聞いて、鴎外は自分に欠けているものを認めたのだ、と思った。

(『日本文壇史』より)

11月27日
同志9名(斎藤兼次郎、半田一郎、樋口伝、岡千代彦、竹内余所次郎、山口義三、吉川守圀、西川光二郎、大杉栄)で、電車賃値上反対騒擾事件弁護のお礼として「弁護士諸君に謝す」を執筆。

11月28日

最初のコロタイプ印刷、東京の村山旬吉発明(特許とする)

11月29日

荒畑寒村、白柳秀湖の入営送別会を兼ねて開かれた金曜講演会(第13回)で「兵士の問答」を講演。


つづく


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