建仁3(1203)年
4月1日
・日蝕終って後、甚雨、終日止まず。(『明月記』)
4月3日
・北条義時(41)、鶴岡宮祭に奉幣御使を務む
4月6日
「伊豫の国の御家人河野の四郎通信、幕下将軍御時より以降、殊に奉公の忠節を抽んずるの間、当国守護人佐々木三郎兵衛の尉盛綱法師の奉行に懸けず、別の勤厚を致すべし。兼ねてまた旧の如く国中の近親並びに郎従を相従うべきの由、御教書を給う。平民部の丞盛時これを奉行す。通信年来鎌倉に在るの処、適々身の暇を賜り、明旦帰国すべきの間、御前に召しこの御教書を給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月10日
・定家、酉時に煙を出す北野社旧木のことを聞き道真の「夕されば野にも山にも立つけぶり…」を想起する。
良経の許に参ず。御参内。直盧に於て、装束を改められる。平野祭のためである。宣命を奏す。良経退下。今夜直廬におわします。夕に退出す。この四ヶ日、北野旧木の中、酉の時ごとに煙出づ。人を以て実検さるべき由、宮寺申すと。出納を遣わさる。定めて、これ吉事にあらざるか。愚案す。
ゆふされば野にも山にもたつけぶり嘆きよりこそもえまきりけり(『明月記』)
4月11日
・定家、撰歌を20日以前に進上するよう命あり。この20日ばかり旧歌を見て日夜を過ごす。
早旦、後鳥羽院、熊野詣より還御の由を聞く。よって京極殿に参ず。巳の時許りに、入りおわします。近臣浄衣を着し、多く水無瀬殿供奉に参ずと。皇后宮大夫・予・布衣にてこの御所にあり。信雅布衣にて供奉す。自余、皆御供にあらずといえども、浄衣・垂袴・立烏帽子・道は折烏帽子・脛巾(はばき)・つらぬきなり。すなわち退出す。家長、撰歌来る二十日以前に進むべきの由、書を以て示し送る。此の二十日ばかり、ただ旧歌を見て日夜を送る。(『明月記』)
4月19日
・定家、昨日より撰歌を清書、深更に終了し、翌日進上。
源相公、すでに撰歌を奏覧すと。予、昨日よりこれを書く。(『明月記』)
4月20日
・夜前深更、わずかに撰歌を書き出す。今朝一見し、午の時に持ちて参ず。(『明月記』)
4月21日
「御鞠。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月24日
・夜に入りて、良経三条坊門に渡りおわします。召しによりて、参ず。夜深く行幸に参ぜしめ給う(安井殿)。予、騎馬所労あり、供奉せずして退出す。(『明月記』)
4月27日
・藤原基家誕生
5月1日
・定家、基家産養五夜の儀に参仕。
終日、所労にて平臥す。夕、扶け起し、束帯して九条殿南殿に参ず。人未だ参ぜず、見参に入る。良経北政所に若君出生、その祝宴である。冷泉に帰る。窮屈更になす方なし。(『明月記』)
5月2日
・無力により、平臥す。蛭を飼う。(『明月記』)
5月3日
・定家、基家産養七夜の儀に参仕。
申の時許りに、忠弘の九条の宿所に行き、しばらく休息す。日の入る以前に、束帯して女院に参ず。この夜は宜秋門院が産養(うぶやしない)の儲けをした。(『明月記』)
5月4日
・心神不快。出で行かず。(『明月記』)
5月5日
・秉燭以後、蔵人語るにより、春宮の陪膳を勤めて、退出。心神なお悩む。(『明月記』)
5月10日
・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~14日。後鳥羽院の水無瀬御幸は25日まで。
巳の時許りに、京を出づるついでに、俊成に参ず。見参の後、退出。鳥羽の北門に於て船に乗る。午の時、宿所に着く。
未の時、御所に参ず。申終に入りおわします。遊女参入す。日入る以前に退出。(『明月記』)
5月12日
・午の時に参上す。今日、遊女舞女に衣を賜う。未の時、退出す。(『明月記』)
5月13日
・定家、急に題を賜り詠進、のち御製を賜る(水無瀬殿当座六首歌会)。
巳の時に参上す。向殿におわします。小時ありて、還りおわします。遊女着座す。神崎の妙すべりて顛倒す。
俄に六首の題を給わり、すなわち読進す。勅喚に応うる五人は、公経・通光・定通・定家・家長。詠進する後に御製を給う。己下これを見る。申終に、退下す。(『明月記』)
5月14日
・参上す。例の事終りて、向殿におわします。片野におわしますべし。御狩にあらず、ただ遊覧と。
退下して、宿所に入り、又出でて、船に乗る。船中に於て風雨。日入る以後、鳥羽に着く。夜に入り、冷泉に帰る。(『明月記』)
5月18日
「将軍家鶴岡別當坊に渡御す。伯耆少将・右近衛大夫将監親廣等扈従す。御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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