大正12(1923)年
5月
・鳥取市会議員選挙。鳥取立憲青年会、定員30名中13名の当選果たす。会長由谷義治の義兄の憲政会鳥取支部長米原章三の支援。翌年5月、由谷が憲政会から総選挙に立候補し当選。
・鈴木茂三郎、解放運動犠牲者を超党派で救援する「防援会」結成準備。布施辰治支援。関東大震災で立消え。昭和3年4月「解放運動犠牲者救援会」創立。
・北大・小樽高商に社会科学研究会設置
・吉野作造「朝鮮人の社会運動に就いて」(「中央公論」)。
朝鮮人の社会運動団体の動向を詳しく紹介し、日朝無産階級の提携を、「頗る注目すべき現象」とし、朝鮮民族運動が単純な政治的独立運動から脱皮しつつあることに「甚津の意義」を見出す。
・平林初之輔「戦線をつくる必要」(「赤旗」)。
山川の方向転換論が「観念的に硬化」することを戒め、「常に敵と味方との階級戦線の全線を見渡しつゝ大衆と共に動く準備を怠ってはならぬ」として、「無産階級が政治運動に於て獲得する寸尺の地歩は同時に労働大衆の解放へのそれだけの接近である」との見地より、合法的無産党の組織の急務を訴える。
・平林初之輔「釈明、弁駁及び啓蒙」(『新潮』) / 「山川均氏夫妻の印象」(『婦人之友』) / 「社会的正義の先駆者(アンケート?)」(『解放』) / 「演劇民衆化の二方面」(『演芸画報』)
・「貞操の切り売りを強いらるる娼妓の悲惨なる告白」(「主婦之友」)。発禁。この頃、「告白物といわれる暴露記事が流行。
・堀辰雄(19)、三中校長広瀬雄に伴われて田端の室生犀星を初めて訪れる。
・宇野千代(26)、尾崎士郎と共に東京府荏原郡馬込町1578番地に転居。
のちに、「馬込文士村」の拠点となる。
尾崎士郎は、愛知県幡豆郡横須賀村宮前に父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。早稲田大学を中退し、堺利彦の売文社に籍を置いたり、『毎夕新聞』や『東京毎日新聞』の記者になったりしたが、身は固まらず、高畠素之の食客になった。「獄中より」が『時事新報』の二等に当選して作家への足がかりを得、改造社の山本実彦の応援を受けて幸徳事件を主題にした「獄室の暗影」を発表したが、全体の三分の一が検閲で削除される始末で世評を賑わすにいたらなかった。
大正6年、山口県玖珂郡横山村(現、岩国市川田町号)の家を出て上京した宇野千代は、東京市本郷区小石川駕籠町の女髪結いの二階に下宿した。この下宿近くの燕楽軒は文士が集まる高級西洋料理店であった。千代は燕楽軒の女給になって芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、今東光、滝田樗陰らと知り合った。
千代は同郷の従兄弟の東京帝大学生藤村忠と婚約中であった。大正8年8月29日、千代は藤村と結婚し、9月上旬、北海道拓殖銀行札幌支店に就職した夫とともに札幌市で生活するようになる。結婚して1年後、無尽の籤で千円を当て、札幌市中央区に古い家を買って移った。この家で千代は小説を書きはじめた。
大正10年、千代は『時事新報』の懸賞短編小説に藤村千代の本名で「脂粉の顔」を応募した。この短編が1等に当選した。選者は徳田秋声、久米正雄、菊池寛で、2等が尾崎士郎、4等が横光利一だった。燕楽軒時代に知り合っていた久米は、宇野千代の名前は知っていたが、藤村千代の名前は知らなかったので、入選後に事情を聞いてびっくりした。
千代は新たに書き上げた原稿を『中央公論』の滝田のもとに送った。しかしその原稿はいつまでたっても掲載されなかった。11年4月、千代は上京し、滝田に会って、私が送った原稿は届いていますか、あなたは読みましたかと問い質した。滝田はここに出ていますよと言って、「墓を発(あば)く」の載った5月号の雑誌を投げてよこした。そしてついでのように原稿料を持って行きますかと365円をくれた。
千代はその金と雑誌を家族に見せるために岩国に帰った。年の暮れ、岩国から札幌行きの切符を買って夫のもとに帰ろうとしたが、滝田に礼を言うために東京で下車し中央公論社へ寄った。その足で「墓を発く」を褒めてくれた室伏高信の家を訪ねてお礼を言い、いざ帰ろうとした時、サーッと雨が降ってきた。雨宿りしているそこへ飛び込んで来たのが士郎だった。
吃りながら挨拶する士郎を見た瞬間、「ながい間、意識することもなしに過して来た渇望のようなものが、ふいに、堰を切って、溢れ出すような錯覚に襲われた」。千代は士郎に一目惚れし、彼が暮らしていた菊富士ホテルまでついて行き、二人はごく自然に性的関係に入っていった。千代は札幌へ帰る意志をなくし、そのまま士郎との同棲生活に入った。
11年12月、千代は藤村と協議離婚し、5月に結婚した。
・瀧本誠一編『続日本経済叢書』刊行開始。
・芥川龍之介「保吉の手紙」(「改造」)。のち「保吉の手帳から」と改題。
・横光利一「日輪」(「新小説」)、「蝿」(「文芸春秋」)
・宮沢賢治(27)、劇「植物医師」「飢餓陣営」を上演[花巻農学校開校記念行事]。
・若山牧水「山桜の歌」(「新潮社」)
・倉田百三、論文集「転身」(曠野社)。なかの「自由恋愛論」で多夫多妻論主張。2年半後、「一夫一婦の根拠について」を書いて転換。
・帝キネ、芦屋に現代劇撮影所を開設。
■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年5月、荷風45歳)
五月三日。雨終日小止もなく降りつゞきたり。・・・。午後一葉全集の中たけくらべ濁江の二篇を讀む。
(*註 一葉を読むところ、ワタシ的には嬉しい)
五月六日。立夏。曇りて夕暮れより雨ふる。・・・。深更地震。
五月七日。雨もよひの空なり。・・・。
五月八日。終日雨歇まず。
五月十一日。・・・。深夜雨聲あり。風呂をたきて浴す。
五月十三日。麦藁帽子を、購ふ。
五月十四日。・・・。風湿気を含みて冷なること梅雨中の如し。・・・。
五月十五日。昨日の如く曇りて風冷なり。濱町阿部病院に往きラヂウム治療の後、深川邊を散歩せむと新大橋を渡りしが、風甚冷湿なれば永代橋より電車に乗り、銀座にて夕餉をなして家に歸る。此日午前邦枝完二来訪。・・・。
五月十六日。・・・。雨ふり出して寒冷冬の如し。
五月十七日。曇りて寒し。・・・。
五月十八日。快晴。気候順調となる。・・・。
五月十九日。晴れて風爽なり。午後某雑誌記者の来訪に接したれば家に在るや再びいかなる者の訪ひ来るやも知れずと思ひ、行くべき當もなく門を出でたり。日比谷より本所猿江町行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿ふて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に歸る。大正二三年のころ、五ツ目より中川逆井の邊まで歩みし時の光景に比すれば、葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、蒹葭の間に葭雀の鳴くを聞かず。たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ。
五月廿一日。風歇み蒸暑くなりて雨ふり出しぬ。深更に至りていよいよ降りまさりぬ。
五月廿三日。雨ふりつゞきて心地爽かならず。・・・。
五月廿四日。両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り讀書創作意の如くならず、夜々眠り得ず。大石國手の許に使を遣し薬を求む。午後雨の晴間を窺ひ庭のどうだん黄楊の木などの刈込をなす。夜四谷の妓家にお房を訪ひ歸途四谷見付より赤坂離宮の外墻に沿へる小路を歩みて青山に出で電車に乗る。曇りし空に半輪の月を見たり。
五月廿八日。黄昏驟雨。
五月三十日。・・・。此日曇りて風涼しく歩むによければ、神田橋より二重橋外に出で、愛宕山に登りて憩ひ、日暮家に歸る。初更雨烈しく降り出しぬ。
五月三十一日。陰晴定りなく時々雨あり。・・・。夜また雨。"
・ドイツ、ハンブルク市、警察の家宅捜索で秘密兵器庫・国防軍と右翼団体の連携文書発見。
・ドイツ、ザクセン州社会民主党指導部、共産党と連携してプロレタリア防衛組織結成決定。
・オランダ領インドネシアで電車・鉄道組合がストライキに突入。3週間で終息。スマウンら共産党指導者、逮捕の後、流刑や国外追放となる。
・バルセロナ地方でゼネスト。
つづく
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