大正12(1923)年
4月12日
・摂政・皇太子裕仁、台湾訪問
4月13日
・大阪鉄道の大阪天王寺駅が開業。
4月14日
・石井・ランシング協定廃棄の日米公文交換。16日、発表。
4月15日
・日華合弁魯大公司設立(鉱業会社)。
4月15日
・中野重治と愛し合った薄金まさを(「歌のわかれ」の頼子のモデル)、寺沢正好と結婚するため、横浜からサンフランシスコに向う。まさをの兄と寺沢が同級生であり、結婚話が進んでいた。
しかし、この結婚はうまく行かず、まさをは寺沢と離婚して帰国することになる。
のち、まさをは石川氏と再婚し、子どもはなかったが、幸福な晩年をおくった。
彼女は、1984年11月25日、京都市伏見区深草の自宅で急性心不全のために86歳で亡くなった。亡くなる3年まえ、彼女は兄の雨田光平と「重治さんとすず子さまのお墓詣でにまゐり、まはりの草をとり、つつじの間にお花の種をまきちらしてまゐりましたが、なみだで胸一はいで御座いました」と、大牧富士夫氏あて81年8月16日づけの手紙に書いている(『幻野』第27号)。
4月17日
・日本労働総同盟中央委員会、「朝鮮人労働運動の調査及提携を進めること」決議。
8月25、26日の中央委でも「植民地人民の無産階級運動の促進に努力する」と決議。
4月17日
・ソ連共産党第12回大会。~25日。レーニン不在。ジャノビエフ・カーメネフ・スターリンの3頭制台頭。トロツキー、工業製品と農産物の鋏状価格差に警告。トロツキーはグルジア問題に言及せず工業化の弁論を行う。スターリンは代議員選択を周到に行う。
4月18日
・ニューヨーク州にヤンキー・スタジアム開設。
「ヤンキースは1913年からポロ・グラウンズをニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と共用していた。しかし1920年、ベーブ・ルースがレッドソックスからヤンキースに移籍、54本塁打をマークする大活躍で一気にスター選手になり「ルース効果」でヤンキースの年間観客動員が大リーグ史上初めて100万人を突破した。これに気分を害したジャイアンツのジョン・マグロー監督は「1921年以降はポロ・グラウンズを使うな」とヤンキースに通告した。
そこでヤンキースは新球場の建設を決めた。最初はマンハッタンへの建設が検討されたがルース効果で儲かっていたヤンキースでさえ手が出せないほどマンハッタンの地価・花崗岩掘削費が高かったため、これは断念せざるを得なかった。他の地区を調査したヤンキースは1921年2月6日、ハーレム川を挟んでマンハッタンの反対側に位置するブロンクス区の材木置き場を10エーカー購入した。.....。新球場は、僅か230日で建設され1923年4月18日、ボストン・レッドソックス戦で開場。74,217人の観衆が集まり、さらに20,000人ほどが球場に入りきれなかったという。
こういった建設の経緯から、ヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」(The house that Ruth built )との異名をもつ(開場翌日の19日に「ニューヨーク・イブニングテレグラム」のスポーツライターフレッド・リーブが呼んだとされる)。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(Death Valley)=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。また、この球場で初の本塁打を放ったのもルースで、「ここで初めてホームランを打ったのは僕だけど最後に打つのは神様しか知らない」と発言した。.....
(略)
ちょうど開場50周年となった1973年のシーズン終了後、ヤンキー・スタジアムは老朽化のためいったん取り壊された。翌2年間新ヤンキー・スタジアム建設工事が行われ、その間ヤンキースはメッツの本拠地シェイ・スタジアムを間借りした。新球場は1976年4月15日に開場。その姿は、重厚な外観やフィールドの形状などの旧球場の特徴を残していた。.....
1980年代に入るとヤンキースは長い低迷期に入った。.....
1996年にヤンキースは15年ぶりのリーグ優勝・18年ぶりの世界一と復活を果たした。1976年以降は20,000人台だった1試合平均の観客動員が、世界一の翌年の1997年からは30,000人を下回らなくなった。2003年以降は観客動員が全30球団中1位となりながらなお伸び続け、球場移転へと至っている。
2009年には新ヤンキー・スタジアムが完成し、それにともない従来のヤンキー・スタジアムは2008年のシーズンをもって閉鎖されることとなった。.....」(Wikipediaより)
4月19日
・山崎今朝弥・平沢計七の「労働週報」、廃刊。山崎の労働戦線統一の企て破れ、意欲喪失。
4月19日
・エジプト国王ファード1世、憲法公布。立憲君主制(エジプト王国の独立)・普通選挙制・二院制を規定。9月27日民族主義政党ワフド党、選挙で大勝。1924年1月28日サード・ザグルール、首相に就任。
4月20日
・蒋介石、広州に至り大本営参謀長に就任。
4月20日
・内田外相、後藤新平に日ソ第3次交渉開始に異議のない旨を通告。
4月20日
・有島武夫、秋田雨雀・橋浦泰雄と山陰の旅(米子、松江、鳥取)に出かける。鳥取の講演会翌日、砂丘に遊び「浜坂の遠き砂丘の中にして寂しき我を見出たるかな」を与謝野晶子に送る。
4月23日
・第2次ローザンヌ会議。連合国・トルコ、ローザンヌ条約締結
4月24日
・朝鮮衡平社(こうへいしゃ)結成。姜相鎬ら。40万人の被差別民(白丁)網羅。慶尚南道晋州。水平社(1922年結成)とも連携。
4月25日
・上海、大韓民国臨時議政院会議。議員13人の署名で臨時大統領李承晩弾劾案提出。大正14年3月除名。臨時大統領に朴殷植(80)。
4月25日
・午後、荒畑寒村・片山潜・山崎一雄、ロシア共産党第12回大会傍聴。議長カーメネフ。会場で、ラデック、ロゾフスキー、カラハン、ジノヴィエフ(26日)、ルナチャルスキー、セマシコに紹介される。トロツキー、ジェルジンスキーの演説。ジノヴィエフから大会での挨拶を要請され、コミンテルン極東部長代理ヴォイチンスキーに添削して貰い、夜、議事終了後、英語で挨拶。外務次官補リトヴィノフが通訳。
4月26日
・メキシコで1917年の革命以前に与えられた石油採掘権の効力が認められる。
4月27日
・政府、台湾銀行滞貸金整理資金5,000万円を特別融通。
4月下旬
・天津総領事吉田茂、直隷交渉員祝惺元に、日貨排斥に対する取締を要求。だが、この段階の北京政府は運動にある程度支持的な態度を取っていたため、祝はすぐに返答しなかったので、吉田は直接省長王承斌に、再度取締を強く求める。
つづく
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