2023年7月25日火曜日

〈100年前の世界012〉大正12(1923)年3月1日~14日 普選法案否決 レーニンのトロツキー宛メモ(口述筆記) ヨッフェ・後藤交渉開始 日本初の「国際婦人デー」集会 「二十一個条撤回」「旅大回収」のスローガンを掲げた日貨排斥運動(上海、天津で熾烈)    

 

山川菊枝

〈100年前の世界011〉大正12(1923)年3月 上海総商会の旅順・大連回収と対日経済絶交運動 左翼労組のためレフト結成 中野重治(21)、体操(軍事教練)で2度目の落第(第四高等学校) 中原中也、「文学に耽りて」山口県立山口中学校を落第(4月、立命館中学校に補欠合格・第3学年に編入) より続く

大正12(1923)年

3月上旬

・画家林倭衛、パリで大杉栄に逢う(「フランス監獄及法廷の大杉栄」(『改造』大正13年6月)。

大杉は、リヨンの中国人の同志のところへいったり、マルセイユに出かけて、上海から同船したロシア婦人Nを訪ねたり、またリヨンにかえってドイツに行く許可申請をやったりしていたという。

大杉との関係については、「彼と初めて知り合ったのは、ちょうど十年前になる。その頃、彼は荒畑君と共に最初の近代思想を出し、大久保の住居で極く内輪同志のセンディカリズム研究会をやっていた。- 僕は年齢からいっても彼より十歳の年少でもあり、- その後二年はども経って、僕が絵を描くようになって、自然それまでの同志とのつき合も疎遠になって来た頃から、以前のように同じ主義、同志という意味をむしろ除いて、却って彼との交りは深くなって行った」と回想。また、大杉の肖像《出獄日のO氏》を描いて大正7年の二科展で問題になったこともあった。

3月1日

・衆議院での普選案審議は2月26日、27日と続けられたが、3月1日の本会議で加藤首相は、選挙権拡張については政府は目下慎重研究中であるとして本案に反対の意向を明らかにし、結局この普選法案は、委員会に附記されることなく、否決されてしまった。

3月1日

・小山内薫「息子」初演(帝劇。6世菊五郎ら。装置田中良。22日。1922年7月「三田文学」に発表)。

3月1日

・ウルグアイ、最初の直接選挙実施。セラトが大統領に就任.

3月2日

・孫文、第3次広東軍政府樹立。中華民国軍政府海陸軍大元帥就任。元老派:寥仲愷・胡漢民・汪精衛。太子派:孫科・呉鉄城(国共合作反対派)。

京漢鉄道スト大弾圧により、ホップでの基盤を失った共産党は、労働運動の基盤を再構築する必要から国民党に接近せざるを得なくなり、陳独秀は広州に赴き孫文と協議を始める。

3月3日

・アメリカ初の週刊ニュース雑誌『タイム』が創刊。

3月4日

・米、農業信用法、制定。

3月4日

・ソ連、レーニン「量は少なくても、質のよいものを」(「プラウダ」)。

3月4日

・クーザ(ルーマニア)、ファシスト団体の国家キリスト教擁護連盟を結成。

3月5日

・モンタナ州・ネバダ州、月額25ドルの老齢年金を初めて導入。

3月5日

・レーニン、トロツキー宛メモを口述筆記させる。

「私は、君が党中央委員会で、グルジア問題の弁護を引受けてくれることを、是非お願いする。本件は現在、スターリンとジェルジンスキーの「追及」のもとにあるが、私は彼らの公正さを信用できない。むしろ、その逆である。」 

グルジア問題:スターリンがグルジアでの自分の足場を確保するため、オルジョニキーゼやジェルジンスキーの支持を得て、党活動家を弾圧。

3月初旬、レーニンは数回の軽い発作(2度目の卒中が近づきつつある)。トロツキーは腰痛で数週間寝たきり。

レーニンの秘書が、トロツキーに伝える。

①レーニンは、党大会準備段階で、スターリンのグルジアでの分派活動のため極度に興奮している。

②レーニンは「大会に向けて、スターリンに対する爆弾を用意」している。

③レーニンは、トロツキーがグルジア問題をトロツキーが引受けてくれることを願っている。

秘書が、古参ボルシェヴィキのムディヴァニはじめグルジアのスターリン反対派に宛てたレーニンの手紙を、トロツキーに持ってくる(トロツキー、カーメネフにも宛てたもの)。「私は、心から、諸君の問題を見守っている。私は、オルジョニキーゼの粗暴な行動とスターリンおよびジェルジンスキーの黙認に憤りを禁じえない。諸君のため、私は文書と演説を用意している。」 

カーメネフがトロツキーのところに呼ばれる。彼はどうしてよいか判らないと告白。また、クルプスカヤに呼ばれて行ったところ、彼女から「ウラジミール・イリイッチは、スターリンに宛てて、彼と一切の関係を断つという手紙を速記者に口述させたばかり」と告げられた、原因はスターリンの粗暴さ、とトロツキーに告げる。

トロツキーは、カーメネフに、チフリス党協議会でレーニン的民族政策を支持するグルジア人に関する路線を転換するよう伝える。カーメネフは了解するが、その日の深夜、彼がスターリンを訪ね、スターリンが全てを受入れたこと、クルプスカヤに謝罪文を書いたことを告げられ、これをトロツキーに伝える。実際には、カーメネフは、グルジア党協議会ではレーニンに反対するスターリンの政策を遂行。

3月7日

・ヨッフェとの交渉は、後藤の老母の死去などのため遅れていたが、後藤が葬儀を終えて3月5目帰京するや、翌々7日、ヨッフェは後藤宛書簡によって、日ソ交渉開始の前提として、①両国平等の権利の承認、②法律上のソビエト承認、③北樺太撤兵時期の明示の三条件を示し、実質的交渉の口火を切った。後藤はこれを加藤首相に送って意見を求める。

3月8日

・神田YMCA、社会主義婦人グループ、日本初の「国際婦人デー」集会を開催。陰の支援者は青野季吉・小牧近江・金子洋文ら「種蒔く人」同人。有島武郎が会場費百円カンパ。赤化防止団の野次。山川菊枝の登壇で「解散」命令。石垣綾子は会場前ビラ配り。

3月9日

・レーニン、3回目の発作を起し、政治活動不能となる。

3月10日

・北京政府、日本に21ヶ条条約廃棄を通告、旅順・大連の返還を要求。14日、日本はこれを拒絶。

1月、北京の衆議院で、期限満了となる旅大回収建議案が通過。政府は特別外交委員会を組織し、3月10日、「該条約は中国政府が圧迫されたため止むを得ず忍んで最後通牒中の各条件をうけたものである。北京政府は当時にも声明文を出しており、パリ講和会議やワシントン会議の際に、条約の廃止を要求した。殊にこれが実に日中親善の最大障害であり、極東並びに世界平和に極めて有害なること」といった内容の照会文を日本政府に渡した。

日本政府は、3月14日付回答文で、交換公文が両国全権によって調印され合法的であること、すべて条約は双務的なもので、一国が勝手に廃棄することは国際通念に反し承認できないこと、旅大問題は既定の事実で応答の必要を認めないこと、などが弁明されている。

日本政府のこうした回答がそもそも敵対感情が燃えていた中国国民の抵抗運動をエスカレートさせ、「二十一個条撤回」・「旅大回収」というスローガンを掲げた五回目となった日貨排斥運動が全国に広がっていた。

今回の運動は南においては、上海が最も熾烈となっていたのに対し、北においては天津が突出した存在であった。

3月10日

・東洋拓殖(株)、米国で外債募集(1,990万ドル)の仮契約成立。

3月10日

・サイパン、チャランカノアの南興(南洋興発)の製糖工場落成式。建坪千坪余。鉄筋3階建て。南興関係者・ガラパンの官民代表1千以上が参列。式後、第1回甘薯品評会。石山万太郎も成績優良者に選ばれる。

3月10日

・スペイン、全国労働連合(CNT)活動家セギ、暗殺。

3月11日

・目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)目蒲線、目黒 - 丸子(現・沼部)間が開通。

3月12日

・与謝野晶子、寛、西村伊作、渡辺湖畔、高木藤太郎、奥田鴻巣と共に伊豆山に遊ぶ(熱海ホテル2泊。同ホテルにソビエト連邦共和国の大使ヨツフェの秘書官で詩人のシュワルサロンが同国の芸術の状況や将来の理想を語り、14,5の言葉を詠みこんだ「日本婦人に棒ぐる歌」1編を晶子に献じた)

3月13日

・大山康晴、誕生。

3月14日

・ドイツ、国事裁判所、プロイセン、バーデン、ザクセンなど諸州のナチ党禁止処分を正当と判決。バイエルン州のみナチ党放任。

22日、プロイセン州ゼーベリング内相、ナチ党とドイツ国家人民党などが設立の「ドイツ民族解放党」も禁止・解散処分。

3月14日

・連合国、ビルナと東ガリチアをポーランド領と認める。


つづく

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