大正12(1923)年
4月
・満鉄ハルビン事務所に調査課設置。嶋野三郎・宮崎正義らロシア語のベテランが配置、「北満およびこれに接壌せる極東露領の基本的調査」という要請にこたえ、設置後まもなく「労農露国研究叢書」(全6巻)、「露西亜経済叢書」(全8巻)を刊行、定期刊行物として「ハルビン事務所調査時報」も発行、~大正15年12月。
・(株)マキノ映画製作所創立(改組)。11月、マキノキネマ(株)となる(社長牧野省三。俳優阪東妻三郎ら)。1924年6月東亜キネマ(1923年12月設立)と合併。
・荒畑寒村(36)、「反対運動に対する所信(アンケート)」(『進め』算1巻第3号 4月号)
・平林初之輔「知識階級の分解」(『解放』)
・広津和郎、芸術社を設立、「武者小路実篤全集」刊行。事業は失敗、この年の震災で家屋は倒壊し会社は破綻。
・正宗白鳥「生まざりしならば」(「中央公論」)
・江戸川乱歩「二銭銅貨」
・太宰治(14)、青森県立青森中学校(現・青森高等学校)に入学。遠縁の青森市寺町14番地豊田太左衛門方に寄宿。
・宮沢賢治(27)、~5月。詩「外輪山」、童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」(岩手毎日新聞)。詩「角礫行進歌」「青い槍の葉」[国柱会機関誌天業民報]。
前年(1922(大正11)年)11月27日、結核で病臥中のトシが死去。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。
また、この翌年(1924(大正13)年)4月20日『心象スケツチ 春と修羅』刊行。同年12月1日『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』刊行。
・武田麟太郎(19)、京都の第三高等学校文科甲類に入学。この頃、文学に対する疑問が生じ苦悩の日々を過ごす。上級に梶井基次郎、中谷孝雄、外村繋がいたが、交わりをもつのは上京後。同級の真下信一がこの頃を通じての友。
・窪川鶴次郎、四高理科乙類を落第し、二度目の二年生を始める。自分で自分をもてあましていた鶴次郎は、堕落から抜け出す道を文学に求めることに決め、文芸部でやっている短歌会へ出席するようになる。
四高の短歌会は兼六園の貸席で開かれ、その会に出かけてゆくと、そこに中野重治がいた。その邂逅を手始めに鶴次郎は毎日重治とともに時を過すようになる。「ひとりでいると身体そのもののバランスが破れるようで、中野との文学的な交遊関係以外には私の生活はなかった」という具合になった。
・秩父宮、皇族としての素養をつむ為の進講を受ける。~大正14年4月の英国留学までの2年間。
■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年4月、荷風45歳)
四月一日。東京の櫻花は未開かず。風烈し。・・・。
四月二日。晴天旬餘。風強く塵烟雲の如し。市兵衛町表通の老櫻三分通花ひらく。午後四谷のお房来りて書斎寝室を掃除す。夜随筆耳無草を草す。
四月三日。・・・。風冷なり。
四月五日。風俄に寒く夜に入りて雨雪に変ず。
四月七日。雨歇みしが空晴れず風冷なり。富士見町に往き賤妓鶴代と九段の花を見る。
四月八日。夕刻驟雨。
四月十一日。快晴。・・・。夜に至り雨ふる。
四月十二日。雨午後に晴る。
四月十四日。・・・。春日駘蕩、品海の眺望甚佳し。・・・。
四月十五日。晴天。風猶寒し。今年花開きてより気候順調ならず。
四月十六日。俄に暑くなりぬ。・・・。
四月十七日。夕方より風吹き出で大雨となる。・・・。
四月十八日。日の光夏らしくなれり。・・・。風吹き出でしが雨にはならず。・・・。
四月二十日。晴れしが風猶冷なり。本年の春ほど気候不順なる時節は罕なるべし。宿痾よからず。深更雨。
四月廿一日。・・・。曇りて風寒し。・・・。
四月廿四日。午後散歩。・・・。風寒く日暮雨となる。四月末の気候とは思はれず、暖爐に火を焚く。
四月廿五日。雨ふる。・・・。
四月廿八日。・・・。薄暮細雨糠の如く風竹淅瀝たり。・・・。
四月三十日。曇りて風冷なり。・・・。
・アメリカ、共産党,コミンテルンの指導により地下指導部を解散し,アメリカ労働者党に一体化.
・アメリカ、農業信用法制定。
・ブルガリアとユーゴスラビア、ニッシュ協約締結。マケドニア人のテロ行為防止のため、国境規制を強化。
・ブルガリアで選挙。農民同盟大勝。
・アルジェリア、財政審議会選挙でハーリド派敗北。
・トロツキー、ウクライナで『ロシア共産党第12回大会の課題』と題して演説をし、ネップの問題と民族問題を訴える。
・ヘミングウェイ(24)、「リトル・レビュー」誌に超短編6作と詩1編が掲載。
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