2023年7月26日水曜日

〈100年前の世界013〉大正12(1923)年3月15日~31日 共産党石神井会議(綱領草案(「22年テーゼ」)討議) ヨッフェ・後藤会談進む 陪審法成立 上海で対日抗議デモ 天津でも集会 荒畑寒村、モスクワへ出発        

 

荒畑寒村

〈100年前の世界012〉大正12(1923)年3月1日~14日 普選法案否決 レーニンのトロツキー宛メモ(口述筆記) ヨッフェ・後藤交渉開始 日本初の「国際婦人デー」集会 「二十一個条撤回」「旅大回収」のスローガンを掲げた日貨排斥運動(上海、天津で熾烈) より続く

大正12(1923)年

3月15日

・朝鮮義烈団の陰謀事件、発覚。朝鮮総督府爆破陰謀の理由で義烈団員金始顕、黄鈺ら14人逮捕。黄鈺警部事件。

3月15日

・満州紡績(株)設立。

3月15日

・石神井会議。共産党第1回中央委員会総会(臨時大会を兼ねる)。東京府下石神井の料理店「豊嶋館」。総務幹事長から「細胞数十四、細胞員数五十八」と報告。綱領草案(「22年テーゼ」)討議。君主制廃止スローガンに堺利彦らが反対し審議未了。コミンテルン拡大執行委員会への代表として荒畑のモスクワ派遣決定(党成立の正式報告)。

①天皇制廃止を綱領に掲げる事の可否、②当面目標とすべき革命をプルジョワ(民主主義)革命とするかプロレタリア革命とするかの2点に議論を絞るが、結論を得られず。22年テーゼの政治・経済的分野での民主主義的スローガン、当面の具体的戦術として強調された普選運動への参加には討論が及ばず。合法政党結成問題も、執行委員内部では1人を除き賛成で、議会ボイコットはしない事で全員一致していたにも拘らず審議未了、大会延期という結末。

この事態は、①山川均ら共産党主流に、22年テーゼを理解する思想的準備がない、②22年テーゼに勢いづく議会進出派が、テーゼの趣旨に反する新綱領を主流派に作成させなかった、ことを示す。綱領起草委員会が成案を得なかった一つの理由は、普選問題を巡る意見対立であった。この会議で決定された唯一の議題は、コミンテルン拡大委員会への日本代表に荒畑寒村を指名したということで、それは起草委員会の一員で頑強な非普選派の荒畑に、直接コミンテルンの意向を確かめさせようとの配慮に基く。

渡辺政之輔は、議会ボイコット反対・合法無産政党即時結成を強調し、その政党の組織要素は無産階級に限ること、組合幹部を党の幹部としてはならぬことなど、注目すべき発言。

綱領草案は、日本を「封建制度の残存物が今なお優位を占めている」国家とみなし、権力は天皇を頂点とする大地主と一部のブルジョアの連携の上にのっているとみる。そこで、日本革命の第一段階は、プロレタリアートが農民や(権力に繋がっていない)ブルジョアと協力して起こすブルジョア革命(天皇制を廃止して共和制に)、その次の段階がプロレタリア独裁を実現するプロレタリア革命だという二段階革命論に立ち、ブルジョア革命はプロレタリア革命の「直接の序曲となりうる」と判断。この分析の上に、君主制廃止、普通選挙権、出版・集会の自由、労働組合、デモ・ストの自由、八時間労働制、天皇・大地主などの土地没収・国有化などからなる22項目の民主王義的スローガンを当面の要求として示す。

3月中旬

・芥川龍之介、3月中旬から1ヵ月、再び湯河原に静養。その間に「保吉の手帳」(『改造』1923年5月、のち「保吉の手帳から」と改題)を書く。虚構を生かした〈歴史もの〉が億劫になった彼は、身辺に取材した現代ものをこのころから書き始めるの。

3月15日

・ドイツ、シュラゲター事件。右翼急進派アルベルト・レオ・シュラゲター、ルール地方占領妨害の為デュッセルドルフ近郊鉄道爆破。フランス軍に逮捕、軍法会議。5月26日、銃殺刑。

3月15日

・連合国、ポーランド東部国境を確認。

3月18日

・有島武郎、波多野秋子に交際を絶つ手紙を届ける。

有島は15日付で秋子から、夫と有島の間で揺れる心の内を切々と語る手紙を受け取る。

3月18日

・奈良県で水平社員700人と八尾国粋会員および村民ら600人が衝突、軍隊が出動(水国争闘事件)。19日、双方各千数百人が激突。20日、和解。

3月18日

・クロアチア、選挙。急進党とクロアチア農民党が躍進。

3月19日

・埼玉、南畑村小作争議、小作地一斉返還。

3月19日

・日本勧業銀行法中改正(勧業債券の割引発行・農工業向け無抵当短期貸の実施など)・北海道拓殖銀行法中改正(樺太の公共団体向け貸出の容認など)の2法律公布。

3月20日

・衆議院、中野正剛ら提出のソ連承認決議案を否決。

3月21日

・天津団体代表会、①各商店が「二十一個条撤廃・旅大回収」を書いた白旗を店頭に掲揚、②本月26日、南開学校にて市民大会開催、を決議

3月21日

・3月7日付けヨッフェの三条件に対して、首相側からもたらされた回答は、尼港事件の解決や国際義務の履行など、一定の条件が満たされれば、ヨッフェの要求を受け入れるとするものであった。これに力を得た後藤は、3月29 日、30日の両日にわたり、熱海をおとずれてヨッフェと会談し、三条件の内容についての論議をかわした。

3月21日

陪審法成立。この日、貴族院本会議に上程。若槻礼次郎が4時間に及ぶ反対演説、花井卓蔵が2時間にわたる賛成演説。深夜11時すぎの記名投票で賛成派が圧勝、陪審法はようやく成立。

陪審制は明治43年政友会が党議として取り上げた。一般国民を司法に参与させるための、立憲政と不可分の制度として主張され、原敬がその実現に力を入れてきた。

しかし、この制度が司法権の独立を犯し、帝国憲法に違反するとの反対論が枢密院・貴族院の一部で強く唱えられていた。枢密院が陪審の結論の裁判官に対する拘束力を弱め、また陪審に付する事件の範囲を限定するなどの修正を行なったうえで、大正11年2月27日、ようやく陪審法案を可決した。高橋内閣はこの陪審法案を折から開会中の第四五議会に提出、衆議院は通過したが、貴族院では反対派議員の審議引きのばしにあい、結局審議未了・廃案とされた。

原・高橋両内閣で司法大臣としてこの問題の直接の責任者であった大木遠吉は鉄道大臣として閣内にあり、また新たに大臣となった岡野敬次郎もこの法案の実現に熱意を示したため、陪審法案は第四六議会に再び提出され。

同法案は3月2日衆議院を通過、3月5日より貴族院での審議に入り、委員会では可決された。

陪審法は5年の準備期間を経て、昭和3年10月1日から実施されたが、国民の間には定着せず、陪審事件数は昭和4年以降減少の一路を辿り、昭和18年3月には、ついに制度の運用を停止され、そのまま今日に至っている。

3月25日

・上海市民、対日抗議デモを実施(各省に波及)。

3月26日

・天津商会及び団体代表会の動員により、天津各界20万余が参加した市民大会が南開学校で開催。

大会開催後、日貨排斥計画がたて始められる。

27日、団体代表会が「貴会は天津商業を全うする重要な機関であり、日貨排斥につき、弊会はご指示を仰いでいる」との手紙を天津商会に出す。また、29日には、団体代表会が代表3名を天津商会に派遣し、日貨排斥問題について打ち合わせる。代表の訴えに対し、天津商会会長は「商会会董・行董会議を4月3日に開き、この件を討議する」と決め、同日、団体代表会が各商店に対し「本宣言発表の日を日貨購買の最後の期限とし、これ以降の購買は違反行為と見做す」といった宣言書を出した。

但しこの時点では、天津『大公報』は、「市民が連日でデモなり、講演会なり、市民大会なりと行って居るが、問題の根本は日貨排斥にあり、日貨排斥こそ敵を痛めつけることができる。だが、日貨排斥が行われるか否かは天津商会の会議決定にかかるのであろう」と指摘している。

3月26日

・海軍技術研究所設立。

3月26日

・5海軍区を3海軍区とし舞鶴・鎮海両軍港を要港とする旨公布。4.1 施行。

3月26日

・フランス、女優サラ・ベルナール(78)、没。

3月27日

・遠藤周作誕生

3月29日

・北京商連会、21ヵ条取消し運動への支援を各国に訴える。

3月30日

・工場法改正(15歳未満適用を16歳未満に引き上げ、雇用者の責任を加重)・工場労働者最低年令法(14歳未満者の就業禁止。1926.7.1 施行)各公布。

3月30日

・日本銀行、朝鮮銀行に対し、朝鮮・樺太事業の為に発行する第1回5分利国庫債券引受資金特別融通を承認(限度額1,228万円)。

3月31日

・対支文化事業特別会計法公布。対中国文化事業助成のため特別会計を設置。団匪賠償金その他を対中国文化事業に充当。5.7 対支文化事業局完成公布。

3月31日

・航空局官制改正公布。航空局を陸軍省から逓信省へ移管。

3月31日

・ドイツ、エッセン市クルップ工場流血事件。労働者とフランス軍の紛争。労働者殺害13、エッセン郊外ウェルデン町での軍法会議でクルップ社長に禁固15年など判決。ドイツ議会・新聞の抗議。

3月下旬

荒畑寒村、モスクワへ出発。下関~長崎~上海、マーリングに会い入露手続きなど教わる。4月1日上海発。~南京~天津~3日奉天着~4日長春~5日ハルピン着~7日満州里着。ロシア領事館に入る。夜8時、馬車でロシア領最端国境停車場「八十一駅」着。1時間でマツィエフスカヤ駅着。12時チタ行き列車乗車。8日午後5時チタ(ザバイカル州首都)着。8日間滞在。14日チタの極東事務局でモスクワまでの同伴者カガンを紹介される。16日午前11時半チタ発。24日午後5時モスクワ北停車場着。


つづく

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