1902(明治35)年
1月
シベリア鉄道全面開通。ウラジオストク~ハバロフスク間が開通(1891.5~)。
1月
松本英子(毎日新聞記者)「鉱毒地の惨状」出版。
1月
利島・川辺両村に遊水池反対運動起こる。
1月
1月 ロンドンの漱石
「一月(推定)、この頃から『文學論』をまとめ始める。この頃、「自分の立場を正當にするために、『趣味の差違』と云ふ題目の下にあらゆる類例を集めにかゝつた。」と評論『観賞の統一と獨立』(明治四十三年七月二十一日『東京朝日新聞』)に記す。」(荒正人、前掲書)
1月
矢野文雄『新社会』
1月
大原祥一『社会問題」
1月
煙山専太郎『近世無政府主義』
1月
イタリアの地中海鉄道の従業員、労働組合承認を要求してスト突入(~2月)。ゼネストの危機に発展。6月に和解成立。
1月
大学アメリカン・フットボールの覇者を決定するローズ・ボウル、初めて開催。
1月
米、労働局設立。
1月1日
白井松次郎・大谷竹次郎兄弟によって、京都新京極に明治座が開場。この年松竹(資)設立。
1月1日
子規、新年に際し松山の親戚には短冊賀詞を認めたが、一般には正月刊行の「ホトトギス」第五巻四号誌上に、「新年目出度候。病中につき一々御答礼不致候。正岡常規」とのみ印刷文で掲げた。
1月1日
1月1日、6日 ロンドンの漱石
「一月一日(水)、元日。午後、渡辺和太郎(太良)の新居、 Crystal Palace (クリスタル・パレス、水晶宮)に近い Sydenham (シデナム)の下宿の二階で開かれた太良坊運座に出席する。「山賊の顔のみ明かき榾(*ほた)火かな」と詠む。選句をする。
(『朝日新聞』では振り仮名付きの活字を使用する。)
一月六日(月)、鏡に頼んでおいた押絵二枚、ハンケチ一枚届いたので、遅れたが、クリスマスの贈物として、下宿の主婦に贈る。」(荒正人、前掲書)
*「山賊の顔のみ明かき榾(ほた)火かな」(『ホトトギス』第5巻第7号4月20日発行に掲載)
1月2日
与謝野鉄幹・晶子、関西に下る。晶子は実家に泊まり、鉄幹は大阪の文学同好者新年大会に出席。
13日、婚姻届。
この月、支払いのトラブルからか、伊藤文友館と発売委託を解約、「明星」は「第二明星」となり、発行所は新詩社に変わる。
1月2日
深夜、大杉栄(17)、東京に向かうべく新発田を出発。行きのため、この日の夕方、北越線の新潟駅に着く。
3日頃、上京。
文学をやりたいとの願いは反対されたが、外国語学校でフランス語を学ぶということで上京を許される。牛込区矢来町の四畳半の部屋に下宿。受験準備のため、神田区猿楽町の予備校・東京学院中学校五年級受験科に入る。夜は、牛込区箪笥町の安藤忠義(陸軍大学仏語教授)らの仏語学校に通う。
「僕は東京に着く早々、何もかも忘れて昼夜ただ夢中になって勉強していた。が、何よりも僕は、僕にとってのこの最初の自由な生活を楽しんだ。直ぐ向いには監督であり保証人である大尉がいるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしいことを云うのでもなし、また僕の生活について何一つ聞いてみるというのでもなかった。僕は全く自由に、ただ僕の考えだけで思うままに行動すればよかった。
東京学院にはいったのも、またフランス語学校にはいったのも、僕は自分一人できめた。そして大尉や父には、ただ報告しただけだった。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが始めてであり、そしてその後もずっとこの習慣に従って行った。というよりもむしろ、だんだんそれを増長させて行った。
僕は幼年学校で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも遁れ、父や母の日からも遁れて、終日練兵場で遊び暮らした新発田の自由な空気を思った。その自由がいま完全に得られたのだ。」(自叙伝-新生活二)
「東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんなことにはちっともかまわずに、ただその教えることだけを教えて行けばいいという風だった。出席しようとしまいと、教授時間中にはいって行こうと出て行こうと、居眠りしていようと話していようと、そんなことは先生には何んの関係もなかった。一時間の間、膝にちゃんと手をおいて不動の姿勢のまま瞬き一つせず、先生の顔をにらめている幼年学校と較べれば、まるで違った世界だった。僕はただ僕自身にだけ責任を持てばよかったのだ。そして僕はこの自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけただ夢中になっていた。」(同前)
1月4日
マルタ、新税と、イタリア語から英語への公用語変更に対して抗議運動。
1月5日
伊藤元老、ロンドン出発。
1月7日
西太后と光緒帝ら、西安から北京宮殿到着。保定~北京150kmは列車22両で移動。
1月7日
住井すゑ、誕生。
1月10日
廈門対岸のコロンス(鼓浪嶼)に共同租界設置。
つづく
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