2025年1月23日木曜日

大杉栄とその時代年表(384) 1902(明治35)年 〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2) 日本留学ブーム 中国人留学生の容貌:黄興、魯迅 前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台)   

 

黄興

大杉栄とその時代年表(383) 1902(明治35)年 軍備拡張・植民地経営・殖産興業を軸とする「戦後経営」による財政膨張。増税。 日本最初の中国留学生のための日本語学校・弘文学院創立 清国留学生会館設立 中国共産党創設メンバ13人中、日本留学生4人 より続く

1902(明治35)年

この年

〈日本最初の中国留学生のための日本語学校弘文学院創立と中国人留学生〉(2)

日本留学ブーム

弘文学院が開校したこの年(明治35年、1902年)、日本には清国人留学生が合計500名(600名とも)いた。翌年には千人、1904年(明治37年)には1,300名になった。1905五(明治38)年に日本が日露戦争に勝利したことと、同年に清国で科挙制度が廃止されたことから、日本留学ブームに一気に火が付き、同年は約8千名、翌1906六(明治39)年には約1万2千名に急増した。立身出世に不可欠な資格であった「科挙」試験がなくなったことで、今後は海外留学を立身出世の資格とみなし、「洋科挙」と呼ぶ者もいたほど。

留学生の動向としては、まず東京にできた日本語学校に入学して半年から一年間ほど日本語を学び、その後、早稲田、法政、慶應などの東京を中心とした私学を目指すのが一般的だった。東京や九州、京都、東北、北海道などの帝国大学へ入学するには、まず難関の高等学校に入学しなければならず、合格者はごく限られていた。その点、私学には短期育成の「清国留学生部」や「専門部」が特設され、1、2年だけ学んで帰ろうという学生の受け皿になった。私学の「本科」へ正式入学するには勉強に専念しなければならず、進学したのは全留学生総数の半分にも満たない。その他、軍事教育を専門に行う振武学校や成城学校もあり、軍事教練と基礎教育を受けた後、試験を受けて陸軍士官学校へ進学するのだが、難関の試験に合格する者はほんのひと握り。


中国人留学生の容貌1:黄興

辛亥革命では十度の熾烈な戦いの最前線で指揮を執り、同志たちの信頼はすこぶる篤かった。辛亥革命が成功して中華民国臨時政府が樹立すると、請われて陸軍総長に就任した。

黄興は湖南省出身、1874年に名門の家に生まれ、名を軫、号を克強という。19歳で科挙の試験に合格して「秀才」の称号を得て、湖広総督の張之洞の設立した両湖書院で学び、外国人教師のティモシー・リチャードの西洋近代史の講義を受けて、革命の志を立てたという。

1902(明治35)年。28歳のときに、湖北省派遣の官費留学生10名のうちの一人として来日し、清国留学生のための日本語学校、弘文学院速成師範科の第一期生になった。

但し、黄興の留学は「一時避難」の意味合いが強かった。清国では1900年の義和団事変で清朝政府が惨敗し、欧米列国に対する巨額の賠償金を抱え込んで、国力は衰退の一途を辿っていた。古色蒼然とした清朝政府に業を煮やした開明派の官僚や知識人は政治改革を模索し、激した青年たちは政府転覆を図って全国各地で暴動を企てた。

黄興の出身地・湖南省でも、秀才で有名な唐才常が清朝政府から独立することを主張して「自立軍」を組織し、武装蜂起を企てたが失敗し、唐才常は処刑された。唐才常に呼応して蜂起しようとした黄興は機を逸し、再起を図って準備する間、しばらく日本で新知識でも得ようと来日したのである。

しかし、弘文学院は設立したばかりで、教育方針も経営方法も手探りの状態だった。清国留学生たちは日本の風俗習慣に戸惑い、授業のカリキュラムや寄宿舎生活にも不満を募らせた。学校側と折衝したものの話し合いはつかず、ついに怒った学生たちは授業をボイコットして宿舎から立ち退くという「退学事件」が起こったりもした。

そもそも黄興は、日本語の勉強どころではなく、日本で知り合った宋教仁ら、同郷の留学生たちを集めて再起を誓い合い、1903年に帰国すると、湖南省で「華興会」を結成して長沙蜂起を画策した。しかし決起直前に情報が洩れて、失敗。黄興は再び日本へ亡命する羽目になった。

中国人留学生の容貌2:魯迅

魯迅(本名周樹人)は、1881年、浙江省紹興府(現、紹興市)で生まれた。3人兄弟の長男で、実家は地元の名士として知られる高級官僚の家系だったが、祖父の代に没落し、父も病没して家産が傾いた。そのため魯迅は少年時代から家長としての自覚に目覚めたようだ。

日本へ来たのは1902(明治35)年3月、21歳のときに官費留学生として同期生5人とともに来日し、弘文学院に入学した。魯迅はここで日本語以外に数学や英語、物理、化学など、清国にはない近代科目を2年間学んだ後に、仙台の医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)へ推薦入学した。そこで出会った生物学の指導教官だった藤野教授をモデルにした小説『藤野先生』は有名。

しかし、僅か1年半で仙台の医学専門学校を退学してしまう。その理由について、魯迅は『藤野先生』の中で、授業の合間に日露戦争の戦況を知らせる幻燈を見たとき、ロシア兵が清国人スパイを処刑する場面があり、物見高い清国の人々が薄ら笑いを浮かべて見物していたことに衝撃を受けて、近代医学で身体だけ治療しても、精神面から教育しなければ、決して中国人は救済できないと知ったと、書いている。これは後付けの理屈らしく、後にしばしば医学を捨てた理由を尋ねられ、簡潔に説明したかったというのが本音のようだ。刺激の少ない仙台の生活に寂しさが募り、活気のある東京へ戻りたかったのではないか。

彼はもともと文芸に強い関心があり、来日当初から留学生たちの発行する雑誌に寄稿したり翻訳したりしていた。当時の東京が新興メディア都市として急成長していく中で、情報にあふれた大都会は刺激的で、最新の文芸に触れる機会も多かったのである。


この年

前田家の崩壊(漱石『草枕』の舞台)

前田家の財産を巡る争いは明治26~27年頃に始まる。

当主前田案山子の引退後、前田家はどうするのか?。案山子が隠居して家督を譲れば、前田家の財産はすべて長男下学のものになる。下学はその常識を主張した。

一方、長女の卓は、他の兄弟姉妹にも分け与えるべきだと主張した。家の財産は長兄だけが継ぐという、従来の家制度への反撥だけでなく、それ以上に妹弟を助けたい、助けなければならないという長女的体質の主張だった。

(前田案山子の末の娘は宮崎滔天の妻)

滔天が妻槌宛ての手紙で、「下学兄の話を聞けばこれにも中々尤もの処あり。また、於卓姉方の方に尤もの処あり」と書くように、どちらの理屈も通っていた。


前田家の崩壊への過程では、一時的にではあれ、財産をめぐって、親子兄弟が骨肉の争いを繰り広げた。裁判沙汰にまでなっての決着だった。裁判は長男下学と当主案山子の間で行われたが、きっかけをつくったのは長女の卓である。

卓らの父前田案山子は、維新後、小天の村民のために地租問題で奔走し、そのことから自由民権運動や国会開設運動へと向かい、第一回衆議院選挙で選ばれて国会議員となった。そしてその議員生活は一期で終え、地租問題の全面解決を見とどけて、明治26年(1893年)に政治活動から身を引く。その間、膨大な活動費用を蕩尽したであろうことは、容易に想像がつく。

そして、火災、明治34年12月24日

11月、案山子は下学に家督を譲り、完全に隠居していた。その時、財産分けについて、何らかの妥協があったようだ。しかし本邸は焼失し、財産は大きく目減りした。そこで話がこじれたのだろう。

この本邸焼失をきっかけに、財産分与問題は裁判に持ち込まれる。名家のお家騒動に、熊本の法曹界の気鋭が関わったとされる。けれどもなかなか決着がつかず、最終的には県知事が乗り出して、十分割案で収まった。十分の六を下学と清人の遺族が受け継ぎ、残り十分の四を、卓、槌、行蔵、九二四郎、寛之助、利鎌の六人が平等に分けて分家とした。そして漱石も訪ねた本邸、『草枕』に「蜜柑山に建つ立派な白壁の家」と書かれた家は、二度と再建されなかった。

このお家騒動について、二つの記録がある。一つは下学の長男学太郎が書き残した記録で、もう一つは、案山子の甥前田金儀の「明治三十五年 雑録」だ。学太郎は当然下学の立場に立っており、金儀の場合は案山子らにぴたりと寄り添っている。

学太郎の記録は、死の床の枕の下から発見された「遺稿」である。B5割のノートに、その生涯で心に残った事々を書き留めたもので、その中に「(十六)お家騒動」の題で2ページ余りが書き記されている。学太郎は、清人の入院以来、父親の名代として東京から小天に来ており、いわばこの騒動の当事者の一人だった。本邸焼失後も、焼け跡の蔵の二階に寝泊まりしながら、騒動の行方を見守ることになった。

「此の不祥事は自分の脳裏に深く刻み込まれ忘れ得ざるところなるも、記して何ら益するものに非ざれば略す」と、苦渋のほどを雷いている。書きたいことは山ほどあったが、今さら始まらないと、頻末だけを簡単に記した。

「本宅全焼に先立ち、父が家督相続をしたにつけお家騒動が起こった」という書き出しで始まるその文章は、その発端と経過と結論を簡潔に、生々しく伝える内容だ。まず発端については、「予て快からず思っていた父母〔下学夫妻〕に、お卓伯母さん達のこと故、兄弟達を疎外するに違いないと、〔略〕お祖父さん〔案山子〕を口説き落とし、お卓伯母さん達兄弟が隠居取り消しの訴訟を起こしたのが始まり」という。つまり、学太郎の両親と卓ら妹弟はかねて仲が悪かったこと、そして、家督を譲ったことで自分たちが疎外されると思い込んだ卓らが、案山子を説得し、その相続を取り消す訴訟を起こしたというのだ。その争いは、小作人も巻き込んで三年余り続いた。「祖父方は小作米を差し押さえ、行蔵九二四郎の両伯父は、夜中大刀を腰にして小作人住宅の周囲を徘徊して威圧する狂態を演じた」という。"

一方、前田金儀の「雑録」は、明治35年正月明けからの、裁判の流れを追った日記で、案山子側と下学側の要求ややりとりを詳しく書いている。

金儀に田尻東平、田尻準次、田尻於菟来馬ら親戚と、行蔵、九二四郎が、一団となって案山子のもとにかけつけた。彼らは小天と熊本を何度も往復し、宿に泊まって、毎日のように下学と交渉したり、弁護士との打ち合わせを行い、裁判所に書類を提出した。卓もときおり連絡に熊本まで出かけた。こうした行動はすべて案山子の指示で行われ、「案山子様」という呼び名が何度も出てくる。そのさまはまさに陣を張り、戦をするといったおもむきで、裁判所に書類を提出したことを、「本日いよいよ開戦の矢を放てり」などと、いきましい。

しかしその一方でこの記録には、矢を放つことになった苦衷を案山子が和歌に詠んだり、母キヨが号泣したという記述もある。その争いは、下学の家長としてのプライドと常識に対し、妹弟は長男の付属物ではないとする卓の主張から始まった。その主張に案山子も弟や妹たちも、周囲の親戚も賛同した。卓の激しい気性が引き起こしたのである。

そして最終的には、「裁判長検事の調停で」、「不動産を父が五分五厘祖父が四分五厘に分割する条件で成立」したと、学太郎は書く。当時の不動産は、「政治運動に失われて半減したといわれながらも未だ四十町歩ほどあった」という。その宅地、田、畑、山林などの一つ一つを五・五と四・五で分け、さらに不動産以外の書画骨董などの財産をふくめての最終的な分割が、下学六、案山子らが四ということになった。学太郎によれば、卓たちの側が書画骨董を多く取ったとされる。それにしても学太郎が嘆くのは、そこまで両者の間がこじれたことであり、この3年間の訴訟沙汰で、さらに財産をなくしたということだ。「双方三年間に費やしたる莫大の費用は逆に没落の悲運を招いた。行きがかりとはいえ是ほどの愚挙を祖父も父もどうして気づかなかったろう」と。

「愚挙」ではあっても、なさねばならなかった。それが前田家一族の姿なのだろう。卓だけでなく、下学も他の妹弟も、そうした愚直とも言える熱い血を案山子から受け継いだのだ。その気性には、家産を守るために、妥協し我慢するなどという言葉はない。たとえ家産をなくしても、自分が正しいと思うことにしたがって疾走せずにはいられないのである。


けれども、彼らがこの争いをいつまでも引きずらなかったことに救われる。なぜなら、それからほんの数年後、卓が中国同盟会の民報社で働くようになると、下学もその協力者の一人として再び登場する。男まきりだが、さっぱりした気性の持ち主だった卓は、「兄さん協力してよ」と、屈託なく声をかけたのだろう。晩年の卓、槌、九二四郎らが、下学の家と盛んに行き来していたことは、前田裕子さんの証言で明らかである。佑子さんの父学太郎と卓は、姉弟のように遠慮のない口をきき合ったという。表面的にはそこになんのわだかまりも見られなかった。屈託があったにしでも学太郎は、老いた卓を暖かく迎えたのだ。

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)より


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