2023年8月22日火曜日

〈100年前の世界040〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑥ 墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(1日~5日)(2) 「地震があって4日目です。土手に行ったら、習志野きへいたいがきていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に坐らせ、きかんじゅうを1発ずつ頭にうって殺しました。」  「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。.....。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。」  

 

朝鮮人虐殺犠牲者の追悼碑

〈100年前の世界039〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑤ 墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(1日~5日)(1) 「1日の夜「津波だあ」というので旧四ツ木橋の土手の近くの原っぱに避難した。その原っぱにいたとき、朝鮮人騒ぎで大変だったんだ。「男の人たちはハチマキして、皆出ろ」とね。〔略〕あくる日、土手に行くとおまわりが立っていた。殺された朝鮮人はずいぶんいた。20〜50人ほども殺されていただろうか。」 より続く

大正12(1923)年

墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(9月1日~5日)(2)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉

鈴木良雄〔当時25機。青森古川町出身、向島墨田村鐘紡工場募集員鈴木福蔵長男〕

〔2日夜、四ツ木橋辺で〕軍隊から又も急報あり「男子は全部後鉢巻して不逞鮮人逮捕の応援に出でよ、後鉢巻の無い者は銃殺刺殺の危険に遭うも致し方無し……」と云う事であった。素破(すわ)! と男子の一隊は直に後鉢巻に日本刀を提げて軍隊、警官隊の傍らに馳せ参じた。軍隊は着剣、驚官は抜剣、青年団・軍人会は日本刀に提灯を忍ばせ殺気紛々として〔略〕。

(『東奥日報・函館日日新聞』1923年9月6日)


首藤安部男〔当時東京相互利殖株式会社勤務〕

「言語に絶せる 鮮人残虐の跡」

〔車中で記者に語る〕私は本所吾嬬町大畑に自宅があったのですが、あの辺は地震にも倒壊せず火災も起らないので安心して避難していたのですが、2日夜になって突然鮮人40名が押かけて〔略〕佐倉連隊に急報すると共に一同小学校に避難婦人を中心にして男子が周囲を警護し襲い来る鮮人を撲殺して防禦したが、奴等は泥溝の中に30分も頭を埋めているという有様、又出した所を一青年が竹槍で顔面を突き刺したら跳んで来て肩に喰いつかれたのを他の青年等が駆けつけて殴り殺した。

京成電車方面では鮮人と青年との格闘が猛烈で全く戦場の様、〔略〕 この鮮人の暴虐比類なき蛮行には彼等の麘殺を図る外はないとて各所共青年団等の奮起を見たのであるが、真に意外とも心外ともたとえようがない蛮行で考えても身の毛がよだちます。

(『いはらき新聞』1923年9月5日)


中島碧川〔本所松倉町で被災〕

〔火災を逃れて船で白鬚橋に上陸し、大正新道を通って荒川堤をめざし、2日、四つ木の友人宅へ。そこで〕丁度〔午後〕7時半頃、俄然幾箇所かの非常警報が乱打されて、何処ともなく、海嘯だ ー 海嘯だ -。

〔略〕昨日から災難続きに怖気のついている幾万の群集はゆめやも分らぬ暗夜に、この海嘯には一層驚いて四ツ木の木橋と、京成電車の鉄橋を越えて幾万の堤上の人が我勝ちにと避難した。その混雑さ、鉄橋を渡る者は枕木と枕木の間に落込んで如何する事も出来ない、その上を後から後から人が逃れて来る、木橋を渡る人は押合い押合って欄干の外に押し出され数十尺の下に落ちるその混雑、私も肝を潰して里芋のご馳走所の騒ぎではない直ぐに起き上って逃げようとしたが、人で逃げられない。その内にこの海嘯は或者の流言であったが、これがその海嘯よりも怖しい事件の襲来の前提でありました。その事件の内容は、私にはここに書き現すの自由が許されておらないのです。

(中島碧川『帝都遭難から長崎まで』国糸之友社出版部、1923年)


長谷川〔仮名〕

2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。

旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


氏名不詳

あの日のことは忘れません。なんの罪もない朝鮮人が土手の坂にすわらせられ、きかんじゅうをひたいに向け一発で殺されていったことを。たしか9月2日のお昼すぎだったと思います。「朝鮮人が火をつけた」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人がぼうどうをおこそうとしている」という”うわさ”が人から人へと伝えられました。町にすむ17才以上の男の人たちは竹やりをかついで集まりました。あやしい人を見つけたら「15円50銭」と言わせるのです。朝鮮人は「チュウコエンコチュッセン」としゃべるからわかるのです。最初につかまったのは木下川にすむ青森からきた年よりです。その人は小説家で文章を書くのはうまいのですが、しゃべる方は、方言(なまり)があって、それにつかまったおどろきでよくしゃべれません。私たちは急いでつかまえられた場所(土手)に行って「この人はちがいます。ちがいます」といって助けてもらいました。

町では夜になってあやしい者がきたらすぐつき殺せ、夜のくらやみの中で味方をまちがえたらいけないから”山”とよばれたら”川”と答えるようにと合言葉までつくられました。

地震があって4日目です。土手に行ったら、習志野きへいたいがきていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に坐らせ、きかんじゅうを1発ずつ頭にうって殺しました。そのきかんじゅうの音はぶきみな音で「プシュ」という音でした。

その1発で朝鮮人は土手の人(ママ)にころげないで後ろにたおれました。土手の上では朝鮮人のお母さんと子どもが死んでいましたよ。

(木下川小学校4年1組『関東大しんさい作文集』添付資料No.3、1983年9月30日。授業で使用した資料)


氏名不詳〔3日午後4時水戸着の夫婦者。本所から亀有駅へ避難〕

「避難する道で 鮮人3名突き殺す」

ようやく三ツ木の荒川用水路あたりまで逃げのびて来ますとその付近には昨夜(2日)は鮮人が出没し、鮮人なる事をまぎらかす手段として日本人の洋装を奪おうとするので役場員、駐在巡査、騎兵等で警戒しておりました。私共も死を決して鮮人を見付け次第殺そうと2人して竹槍を持って注意しておりました。

そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。昨夜は一人まで突殺しましたがもう自分は命をかけてしたのです。

夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。〔略〕一昨夜の荒川用水路辺はまるで鮮人の出没で戦争の様でした。

(『いはらき新聞』1923年9月4日)


青木〔仮名〕

たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川駅〔現・八広駅〕の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。〔略〕大きな穴を掘って拙めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


司法省「鮮人を殺傷したる事犯」

①2日夕刻、吾嬬町放水路四ツ木橋附近の堤防で、配馬音五郎が朝鮮人1名を鉄棒で殴打殺害した。

②3日午前5時、吾嬬町大畑荒川放水路四ッ木橋附近堤防下で、中島五郎が朝鮮人2名を日本刀で顔面右肩及胴を斬り付け殺害した。

③3日午前2時半、吾嬬町大畑荒川放水路堤防で、堀子之吉外2名が朝鮮人1名を日本刀で斬殺した。

④3日午前5時、吾嬬町字木下荒川放水路堤防で、外山利太郎が朝鮮人1名にピストルを発射し傷害を与えた。

(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


『国民新聞』(1923年10月21日)

9月3日午前零時荒川放水路の土手下空地にて姓不詳の鮮人3、4名を殺害した犯人寺島村字玉ノ井431土木請負業吉井半之助(44)同679自動車運転手松戸宇之助(32)同772土工山田龍雄(46)同小島君太郎(34)の4名に令状執行収監す。

つづく

2023年8月21日月曜日

低い年金 増える生活保護の高齢者 | | 鎮目真人(毎日);「年金制度が維持されたとしても、(基本的な生活費を保障する)生活保護制度の生活扶助費にも満たない給付しか受けられないなら、年金制度がなんのためにあるのか、国民は理解できなくなります」

 

〈100年前の世界039〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑤ 墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(1日~5日)(1) 「1日の夜「津波だあ」というので旧四ツ木橋の土手の近くの原っぱに避難した。その原っぱにいたとき、朝鮮人騒ぎで大変だったんだ。「男の人たちはハチマキして、皆出ろ」とね。〔略〕あくる日、土手に行くとおまわりが立っていた。殺された朝鮮人はずいぶんいた。20〜50人ほども殺されていただろうか。」    

 

旧四ツ木橋(昭和7年)

〈100年前の世界038〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺④ 〈1100の証言;墨田区〉 「1日の夕方、5時か6時ころその原っぱ〔現・東あずま公園〕に通っている東武線の踏切のところに憲兵隊が3人くらいやって来た。憲兵隊は蓮田のなかにピストルをドカンドカンと撃ちこんで「朝鮮人が井戸のなかに薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ」と避難民に命令しました。〔略〕一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。」 「自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。.....。在郷軍人が憲兵に相当協力していました。」  より続く

大正12(1923)年

9月1日~5日 朝鮮人虐殺⑤

【旧四ツ木橋周辺】

曺仁承(チョ・インスン)の証言

「(9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14名でかたまって封った。女の人も2人いた。

そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつをぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。

翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。

橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。」(『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹))


曺仁承は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪をどを経て東京に来てから1ヵ月も経っていなかった。

9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。・・・

曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。

同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり着くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。

・・・

曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(以下、「追悼する会」)がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。

そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。

2日午前5時、曺仁承は、旧四ツ木橋周辺で山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。

9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況。


「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略)雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」(永井仁三郎)


「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉地という大きを池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうに行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」(井伊(仮名))


「たしか三日の昼だったぬ。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。をんとも残忍を殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木(仮名))

「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが・・・、わからない。気の毒なことをした。善良を朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆顧していた」    (池田(仮名))


「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけをいと言ってきた」という証言も出てくる。

 北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成した。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で虐殺された。

9月2日から3日にかけて、軍が進駐してくると、今度は機関銃を使った軍による虐殺が始まる。

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉

I〔本所から四つ木へ避難〕

9月1日の晩方、「つなみだ、つなみだ!」という朝鮮人騒ぎがあって、外へとび出したんですよ。外へ出ると、水がピシャピシャと鳴って……。後で思えば、あの日朝降った雨のたまり水だったんですねえ。

その晩かな、朝鮮人が8人ぐらい、荒川側の土手のそばで、自警団か軍隊かは知らないけれども、死んでいました。すごいんですよ、身重の人なんかも死んでいましたよ。河川敷にねっころがしてありました。みんなあおむけになってねえ、射殺みたいでしたよ。四ツ木橋の上では、後頭部をザックリ切られて、その人はまだ生きていましたねえ。

(「地震と虐殺」誌編集委員会編『地震と虐殺 - 第1次試掘報告』関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会、1982年)


M・M

1日は、土手に行く方にある小川屋というそば屋のあたりの畑に蚊帳をつって夜を過ごしたんだけど、夜遅くなってからだね、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とか「歩いていると殺す」「襲ってくる」というので、近くのホータイ倉庫に逃げたんですよ。

朝鮮人の旦那が(近所にいて)逃げたのか闘ったのかわかりませんが、奥さんと子供が残されていて、ホータイ倉庫に逃げ込んできたのよ。竹槍を持った人達が大勢来て、朝鮮人を出せというんですが、私、こうやって(腕を広げて)、こもか何かかけてかばってやったんだよ。子供も喜んでさ。私は日本人だけど、何たって朝鮮人も支那人も同じ人間なんだからさ。うちじゃ兄弟も皆そこへ逃げたんですよ。

ホータイ倉庫から、京成荒川の踏み切りの所に朝鮮人が20人位殺されていたのを見ました。朝鮮人を殺しといて、木横川橋の元に並べておいたんです。穴に入れといて、2、3日たってから一つずつ米俵に詰めて土色の車で持ってったのよ。緑町か砂町に持ってったんじゃない。八広8丁目公園にもいけてあったね。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第32号、1986年)


S〔当時19歳〕

荒川の土手で5人ぐらい倒れているのは見ましたけどね、後は見ませんでしたね。家の前(八広)が駐在所になっていて、最初に知らせにきた人がいました。巡査が「初めてで大変なことになった」ってんで聞いてましたね。それが最初でしたね、私がそういう騒動が始まったっていうのを聞いたのは。〔略〕土手で軍隊が機関銃で撃ったという話は聞きましたね。

2日の夜くらいから、朝鮮人が井戸に毒を入れるってんで、皆、井戸番をしたんですよ。それが自警団で、狩り出されたんですがね。夜なんか、歩く人もいないから、顔の分からない通行人を調べろって言われたんですが、そういうの1回もなかったですよ。通る人がいないから。一つ井戸に5、6軒使ってて、井戸といっても掘り井戸でなく、ポンプ井戸だから入れようがない。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第28号、1985年)


池上君子〔当時東京市立京橋高等小学校1年生〕

〔1日、大畑で〕ちょうど夜中頃であった「つなみだ!」といったのでおどろいて「もしほんとだったらどうしよう〔略〕 こんどこそそうなったら命はない」と覚悟した。少しすると「小松川から朝鮮人が300人ばかりおしよせてくるから男はみんな出て下さい」というおふれが出た。男はみんなはちまきをして出た。しばらくたつと音や叫ぶ声等がしていた。

(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)


斉藤大作〔本所小梅業平町4で被災〕

〔1日夕方〕着いたのが四つ木で、四ツ木橋のふもとでは外国人が背中を日本刀で縦に切られて両手をついて呻いていた。

〔略〕その夜は外国人が押し寄せて来るとの噂に自警団を組織して1時間交代、徹夜で日本刀や竹槍を持って又避難民は棒切れを持って警戒した。夜明けと共に伯父一家は柴又へ避難し私は焼け跡を一応見定めに戻った。道々外国人の死骸が道端の溝に。果して放火したのだろうか、又井戸に毒を入れたのか、実に疑わしい。しかし警察でも念のため確めるまでは井戸水を飲まぬよう注意書が出ているので、喉が渇いても無暗に水が呑めない。

〔略。荒川の鉄橋を渡り〕やっと向岸にたどり着いた。ほっとして歩くうち、銃を持った自警団の青年2人に止められ、自警団本部へ連行された。そこは田圃の中の一固まりの森の中に祠があり、左側に小さな池があってその池の緑に立たされた。自警団の若い連中は皆竹槍や木刀を持ち、それをつき付けられ身動きも出来ない。何と説明、弁解しても外国人だといって承知しない。私もこの時ばかりは観念した。

〔略〕折もよし軍隊が来たとの声、私は逆に銃殺かと観念した。騎兵が2騎来て「私刑はいかん。軍へ渡せ」と。私は両手を縛られ、馬の後から引張られるように2、3町程来たかと思った所で質問2、3、最後に教育勅語をやりかけ「よろしい、気の毒だった。早くここを離れなさい」と縄を解いてくれた。私は再生の想いでその場を去った。

(「危うく殺されそうに」墨田区総務部防災課編『関東大震災体験記録集』墨田区、1977年)


富山〔仮名〕

1日の夜「津波だあ」というので旧四ツ木橋の土手の近くの原っぱに避難した。その原っぱにいたとき、朝鮮人騒ぎで大変だったんだ。「男の人たちはハチマキして、皆出ろ」とね。〔略〕あくる日、土手に行くとおまわりが立っていた。殺された朝鮮人はずいぶんいた。20〜50人ほども殺されていただろうか。殺したのは一般の人だった。鉄砲のある人は鉄砲、刀のある人は刀を持ってたから。〔略〕おまわりなんか手が出せないもの。警察が手を出すとあべこべにやられるほどみんな殺気立っていた。このとき、土手にいた在郷軍人とおまわりが「朝鮮人がわざと津波のうめきを出して、家を空けたところを、どろばうしているから家を空けるな」と言っていた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


水野明善〔文芸評論家〕

敗戦の年をさかのぼること二三年。一九二三年、大正一二年九月一日。

生家の浅草橋場から北東へ約2キロ半、隅田川をこえて、荒川放水路にかかる旧四ツ木橋の西詰。その夜半、わが家の方向にあたる向島側から人々の異様なけたたましいばかりのざわめきが近づいてきた。私は極度の疲れでぐっすり眠っていた。目がさめた。疲れと興奮とでウトウトしていた。荒川の河川敷に橋桁をたよりに蚊帳を吊って、その蚊帳ばりのなかで息をこらす私たち、母と生後10日足らずの末妹・秀子、そして6歳になる私。母子にはその異様の極限ともいうべきざわめきが何を意味するか、まったく見当がつかない。

わが家の方、向島側、西南方は禍色を帯びた紅蓮の炎に天地はおおわれている。

阿鼻叫喚ともいうべきものがけたたましさに変わった。我々の頭上あたりまで迫ってきた。その阿鼻叫喚がいくらかおさまったと思われた時、母がマッチをすった。マッチを上下左右させた。押し殺したギャツという叫びが母の口を辛くもついて出た。《血よ、血よ》。私の目はパチッと開いた。母はもう1本、もう1本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴー》《哀号》と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聴きわける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ凍えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。

生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。

やがて、暫くして父がもどってきた。

《おい、津る、明善はどこだ?》……《やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ》。そういうなり向島側に駆け戻っていった。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。

後年、早稲田へ入ってそのことを詰問すると、母は《そんなこと忘れなさい》と云い、父は《大杉栄夫妻さえ憲兵隊に殺されたんだ。当り前のことだ》と突っぱねた。

一九二三年、大正一二年九月一日の関東大震災は初震の凄まじい大揺れ、そのごの絶ぇまない余震の恐ろしい記憶以上に、上述した旧四ツ木橋下荒川河川敷で体験した歴史的な朝鮮人大虐殺の一コマが強烈至極に私の幼い脳裡に焼きつき、私からその前後数ヶ年の記憶を奪ってしまった。

〔略〕ようやくのことに、まだ木橋であった四ツ木橋西詰の土手にたどりついたのは、日がくれようという一瞬のことであった。河川敷に〔大八〕車をおろし、橋桁下に蚊帳をつり、ござ、ふとん、飲み水、あらかじめ作ってきたにぎり飯、必要な身の回り品だけを車からおろし、その蚊帳のなかに身を横たえた。父だけは飛び出していったきり、戻ってこない。かなりたって、血走ったような父が、一度戻ってきた。そして云ったそうだーというのは、この記憶は私になく、後年母から聴いたものー、《覚悟しておけよ。これから凄じいことが起るが、決して取り乱すな》。こう父は云って向島側に走り去った、ということである。

そして、あの阿鼻叫喚、赤血のしたたり。

四ツ木橋下での恐怖の一夜、非人道そのものともいえる一夜をへて、翌朝、渡った四ツ木橋の所々方々に見受けられた血塊が無残であった。橋から見た浅草橋場の方角は、有無を云わさず、すでにすべてが灰塵に帰していることを物語る余塵のみがくすぶっていた。四ツ木橋をやっと渡ったと思うと、今度は、二度程、激しい吐き気を催す死臭に往生した。炎天下の野天で焼く死者のものであった。幼年の私に死臭の印象は消し去りがたかった。

(水野明善『浅草橋場 - すみだ川』新日本出版社、1986年)

〔水野明善の父親(水野一善)は、大正10年に本所相生磐繁署の巡査になり、震災の年のはじめにはのちの特高(当時の高等警察官)になり、私服づとめで警察にかようようにまでなっていたが、震災前の次弟の急死で、浅草橋場の水野窯業所を継いでいた〕


つづく

『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹)


2023年8月20日日曜日

【特集】維新の正体 「週刊文春」電子版 ; 次期衆院選では野党第一党を窺う勢いの「日本維新の会」。だが、所属議員をめぐる“疑惑”は絶えない。パワハラ、ストーカー、違法献金……。彼らの「正体」とは何なのか。維新関係者の不祥事を暴いた「週刊文春」の記事を紹介する     



 

維新なのに新選組?日本維新の会、新マスコットキャラクターに総ツッコミ!「れいわ新選組の内通者が!」「志士を弾圧しとる側やないかw」(中日スポーツ);「かつて日本青年会議所が考案し、排外的な言動による炎上の末、姿を消した「宇予くん」に似ていると指摘する声もある」 / 「アホの考えることはよくわからん」維新の会マスコット、「新選組」彷彿とさせる見た目に大ブーイング「敵対した存在では」(FLASH) / 「日本維新の会」また炎上! 新マスコットに「歴史を知らんのか」とツッコミ殺到(日刊ゲンダイ) / 「政党のマスコットなのに刃物を持っている」      

 



 

「確かに愛した相手は馬鹿だったかもしれないけど、誰かを愛したことは馬鹿じゃないんだよ」 大島渚 中森明菜自殺未遂後、近藤真彦との記者会見を見た後のコメント。 / 「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」 小津安二郎の言葉です。      

 

〈100年前の世界038〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺④ 〈1100の証言;墨田区〉 「1日の夕方、5時か6時ころその原っぱ〔現・東あずま公園〕に通っている東武線の踏切のところに憲兵隊が3人くらいやって来た。憲兵隊は蓮田のなかにピストルをドカンドカンと撃ちこんで「朝鮮人が井戸のなかに薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ」と避難民に命令しました。〔略〕一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。」 「自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。.....。在郷軍人が憲兵に相当協力していました。」 

 


〈100年前の世界037〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺③ 〈1100の証言;江東区、品川区、渋谷区、新宿区〉 「3台ほどのオートバイに乗った男の人が、「朝鮮人の暴動だ」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行った」 「〔1日〕まだ明るいうちに憲兵という腕章をつけた軍服の男が、時どきオートバイでやってきて、「朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやってくる。建物の塀や壁などにチョークで印をつけたところでは、井戸に毒物を投げこむから用心するように」などといって走り去る。」 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺④

〈1100の証言;墨田区/吾嬬・小村井〉

内田〔仮名〕

1日の夕方、5時か6時ころその原っぱ〔現・東あずま公園〕に通っている東武線の踏切のところに憲兵隊が3人くらいやって来た。憲兵隊は蓮田のなかにピストルをドカンドカンと撃ちこんで「朝鮮人が井戸のなかに薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ」と避難民に命令しました。〔略〕一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。これは私がはっきりこの目で見て知ってます。それでみんながいきりたって朝鮮の方がたを田んぼのあぜ道で……。本当にもう見ていられませんでした。朝鮮の方がたは田んぼの中の水のなかにもぐって竹の筒を口にくわえて上へ空気を吸いながら隠れていました。それも見つけだして、もうなんと言うか…‥。あぜ道に死体がずらっと並べられているのを見ました。殺された朝鮮人は普段からよく顔を合わせていたので知っていました。また朝鮮人は服がちがうからすぐわかりました。

〔略〕自警団はすぐに、1日か2日のうちにできました。自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。憲兵は、軍がのちにどうのこうのと言われないように、ことがすんだら、2、3日のうちにばあっと消えてなくなりました。在郷軍人が憲兵に相当協力していました。在郷軍人は在郷軍人会に入っていたので、自警団には入りませんでした。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


千早野光枝〔当時東京モスリン女工。1日の夜は工場の運動場で夜を過ごす〕

〔1日〕火焔が四万の空に物凄い光りを映して燃えていました。その中、誰言うとなく津波が襲って来るの、××人が押し寄せて来たの、〇〇人が爆弾を持って皆殺しに来るのと恐ろしい事ばかり、一晩中安らかな心もなく脅やかされ通しで、あっちへ逃げこっちへ逃げして明してしまいました。

翌る日はそれでも小さな掘り飯を一つずつ貰って餓をしのぎました。〔略。2日〕その夜も津波騒ぎ、〇〇人騒ぎで脅やかされ通しです。

(震災共同基金会編『十一時五十八分 - 懸賞震災実話集』東京朝日新聞社、1930年)


山本〔仮名〕

小村井のあたりは全部田んぼで、家はぽつぽつある程度でした。

9月1日の夜から「朝鮮人が来るぞ」というようなうわさがとんだ。私たちは余震があるので、近くの土方さんの家の前に並べて置いてあった土を運ぶ大きな四角い箱のなかに入って寝ていたけど、朝鮮人のうわさを聞いて危ないからと、また家のなかに入って寝ました。

香取神社〔軍の大隊本部設置〕の祭のやぐらの下には、死体がいっぱい運びこまれて、むしろがかけてありました。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉

鈴木〔仮名〕

9月1日は早く逃げて夜は雨宮ケ原という原っぱに行きました。東武線の小村井駅の近くの大きな蓮田で、東洋モスリン(東京モスリン亀戸工場と思われる)の女工さんたちも何千人だか全員避難していました。一般の人も避難していました。そのとき、朝鮮人騒ぎがあったんです。朝鮮人がモスリンの女工さんに絡まったとか、泥棒したとかいうデマが飛んで、朝鮮人狩りみたいなことが始まったんです。

朝鮮人も蓮田に逃げた。その蓮田で朝鮮人を竹槍で殺したんです。2人か3人殺されるのを見ました。蓮田で殺された1人は女の人で、この人をつかまえてきて殺すのを見ました。手をすって謝っているけど、皆いきりたってるからやっちゃうんだね。どぶの中をころがしたり、急所を竹槍で突き通したりして殺したのを見ました。現にそんなことをやったんだからね。ああいう奴はもう酷だをと思ったけれど、止めることも何もできませんでしたね。ただ茫然と私は見ていた状態なんです。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


宮沢〔仮名〕

私たちは最初、いまの錦糸公園のところの原っぱに逃げ、亀戸天神まで行きましたが、火の粉が飛んでくるのでおおぜいの人たちと小村井の雨宮ケ原に逃げていきました。

〔略〕1日の真夜中に朝鮮人騒ぎがありましたよ。「オーイ、オーイ」と呼びあって、逃げないように取り囲み、丸太ん棒や鉄棒で殴り殺していました。まだ死なないと魚屋の若い人がまたいで出刃包丁で胸のところからちんぽのところまで裂いてしまい、木の棒などで腹わたをえぐり出していた。〔略〕そのことは父親から聞いたんです。

〔略〕雨宮の原っぱでは朝になると水ぶくれになった死体が荒縄で縛られ、ほっぽり投げられていました。2、3人殺されていました。焼けているほうからはドカーンドカーンと大きな音がして、それは朝鮮人が爆弾を投げたんだと騒いだりしていました。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/請地・押上・横川〉

『報知新聞』(1923年10月20日)

「暴動の協議中に殺された30名」

朝鮮人労働者は〔略〕震災直後1日午後1時府下吾嬬町請地に集合〔略〕激昂せる付近住民が襲撃して三十余名の鮮人悉く撲殺した事実あり関係住民は厳重取調べをうけている。

〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉

A・I 〔当時7歳〕

1日、津波が来るというので私は叔母におぶさって荒川の土手の方へ逃げました。

〔略〕石井さんは私の家の前に住んでいて、白鬚橋の近くの久保田鉄工所で溶鉱炉の親方をしていました。とても義侠心の強い人で、銚子の出身なので言葉は荒かっだですが、すごくやさしみのある人でした。その石井さんの2階に2、3人の若い人が住み込んで溶鉱炉に働いていました。その中に「コウドゥさん」という朝鮮人も住んでいました。コウドゥさんはおとなしくていい人でした。言葉は日本語でしたが、アクセントや言葉使いは変でした。

〔略〕コウドゥさんを石井さんがかくまっていることを知ったのは震災後少し間がありました。石井さんの奥さんは病弱な人でして、私が見舞いに行った時「かわいそうだからかくまっているのよ」とポッリと話してくれて、私も「そう」と言いました。

〔略〕私の父は、お店に売る物がなくなったので、竹槍を持って、四ツ木橋を渡って千葉の百姓さんの家へ買い出しに行きました。お芋を買ってきて、ふかして売るのです。父は「朝鮮人が出たら竹槍で殺してやる」と言うので、「そんなことしないでよ、おとうちゃん」と私が言うと、「俺の命だって大切なんだ」と言ってきました。そういうつまらないことで殺された朝鮮人も多いと思いますね。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第34号、1986年)"

〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉

佐多稲子〔作家。勤務していた日本橋の丸善で被災、寺島の家へ戻り、そばの京成電車の停留所に近所の人と避難〕

〔1日〕暮れかけてきて、どこからともなしに伝わってきたのは、朝鮮人が井戸に毒を投げた、という噂であった。その井戸は近くだし、あっちでも朝鮮人が毒を投入する瞬間につかまえられた。そしてそれは打殺され川に投げられた、という。

〔略〕弟はどこから持ってきたのか、私に、消防の持つとび口を1本握らせた。とび口のさきは鋭く、銀色に光って、それは重いものだった。弟はこれを私の護身用に、それも朝鮮人に対する護身用に握らせたのであった。〔略〕とび口はしかるべき官筋から出たのにちがいなかった。

〔略〕その一夜を心細く、とび口を抱いて地べたに坐っていた。この空地の周囲で、いわゆる朝鮮人騒ぎが起こっているからであった。

アラララ、と聞こえる高い叫び声は朝鮮語らしく聞こえる。竹刀でも激しく打ち合うような音も聞こえる。朝鮮人がこの大動乱に乗じて暴動を起したという筋書を疑う力もないから、空地の周囲の叫び声や、打ち合うもの音を、朝鮮人との戦いなのだ、と私は思っていた。

〔略〕近くのどぶ川にうつぶせに浮んでいたのは、町の住民に殺された朝鮮人の死体であった。工場街である寺島のあたりは朝鮮人騒ぎの大きかった所と聞いている。

(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)


相馬〔仮名〕

9月1日の夜になると朝鮮人が井戸に毒を入れるなんて言われてこわくてねえ。それで寺島警察の前の材木置場のところに避難していました。〔略〕夜はねむれませんでしたよ。ワーツとかオーッという鬨の声が聞こえてくるんです。若い人たちが朝鮮人を寺島警察に連れてくるんです。〔略〕一晩中でしたかしら。次の日はひっそりでしたけどね。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/原公園〔現・橘銀座商店街内〕

田幡藤四郎〔当時寺島警察署管内隅田交番勤務〕

九月一日の地震のときは合宿所にいて、すぐ隅田交番にかけつけた。一日の夜は白鬚橋近くの法泉寺で避難民の救済にあたったの。夜の一〇時ごろ「原公園のほうから朝鮮人が二、三〇〇来る」って騒いだわけ。避難民のだれかが言ったのだろう。「それじゃ大変だ」ってわけで自警団の連中があっちに行こう、こっちに行こうって言うから、それはいけないって一時押さえて「とにかく寺島警察署に行って、そんなことはあろうはずがないから聞いてみるから」って出かけたの。[略]警察署に行ってみたら「心配はないからむこうに帰って説得してくれ」って。それで、いままでの情報はただの風説だからってしずめたの。だから自分の警戒区域にはなんの事故も起きていないんだ。

[略]九月二日には自分の交番に帰った。このときにはもう騒ぎはおさまりがつかない。流言蜚語で住民が極限状態になっているんだ。常識じゃ考えられない状態だ。交番にずっといた相棒の巡査は流言を信じこんでいて、自分で朝鮮人を引っ張ってくる。そしてこれを持っていたからって、役者が持つような刀を見せるんだ。「こんなもの切れるわけじゃない。おもちゃじゃないか」って言っても、「とんでもない、刺せば切れる。お前は朝鮮人の味方か」って夢中になってる。警官の同僚までそうなんだから、一般の人が騒ぐのはあたりまえだ。交番の裏には在郷軍人がずっとテントを張っていた。

[略。その朝鮮人を寺島警察署に連れて行く途中で]いつのまにか鳶口を持ったりなんかして、あっちからもこっちからも集まってくる。[略]まわりを取り囲んで、一間もある鳶口でやられるでしょ。だから防ぎようがないんだよ。引っ掛けられて引っ張られて、結局死んじゃった。いけないって阻止したって聞くわけじゃない。何人もで右を止めれば左から出る。制止したって制止しきれるわけはない。いきりたってる。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


つづく




2023年8月19日土曜日

お盆の家族ギャザリングの締めは町中華で晩ゴハン 2023-08-19

 8月19日(土)はれ

今日は長男家族を入れて、今年のお盆の家族ギャザリングの締め。

東戸塚駅前の「福盛楼」で晩ゴハン。セットメニューではなく、個別オーダー方式にしたら、結果、12品目の町中華料理となった。どれも美味しかった。

今日は、マゴちゃんたちお泊り。






「前大統領、書店をひらく」(『世界』9月号)をよみました。 韓国の前大統領・文在寅氏が故郷に帰って書店を開いたとこと。その書店には小さな図書館も併設し、読者と著者が交流するブッククラブも作ったと。 「本は民主主義を意味し、民主主義を実現する力だと思います」という言葉が印象的。 — 有志舎・永滝稔

〈100年前の世界037〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺③ 〈1100の証言;江東区、品川区、渋谷区、新宿区〉 「3台ほどのオートバイに乗った男の人が、「朝鮮人の暴動だ」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行った」 「〔1日〕まだ明るいうちに憲兵という腕章をつけた軍服の男が、時どきオートバイでやってきて、「朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやってくる。建物の塀や壁などにチョークで印をつけたところでは、井戸に毒物を投げこむから用心するように」などといって走り去る。」     

 


〈100年前の世界036〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺② 〈1100の証言;北区、江東区〉 「その日の夕方、このような人心不安の中に流言蜚語が撒き散らされた。、、、亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。」 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺③

〈1100の証言;江東区/砂町・州崎〉

M

1日の晩、砂町小学校に避難しました。「朝鮮人が井戸に毒を入れる」とその日の晩から騒ぎはじめました。「赤ん坊、泣かすな! 朝鮮人が来る。火をつけるな! 朝鮮人が来る!」

〔略〕朝鮮人と間違えられた死体がいっぱい積んであった。みんな竹槍を作って「山と川」合言葉で言えなかったり、とっさに出なかったり、どもったり、ズブツとやられたんだから。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)

〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉

鈴木ふよ〔荏原郡桐ケ谷在住。相ケ谷通りで被災〕

〔1日〕早めに夕食の支度をすることにして、外にコンロを持ち出して乾物などを焼いていました。そのとき、3台ほどのオートバイに乗った男の人が、「朝鮮人の暴動だ」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行ったのです。近所の商店の人たちが血相を変えて、「早く女や子供を避難させるように」と家から家へ伝言し合いました。〔略〕恐ろしい事態を予想しながら、後から追われるような気持ちで、どこをどう歩いているのか、砂利道を延々と歩いて御殿山までたどり着いたのでした。

(「被災後の食料不足に悩む」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

竹内鉄雄〔中延で被災〕

〔1日〕日暮れになっても父が帰らないためどうしたやらと案じているうちに、近所の人たちの間に「外国人の暴動が起きて、日本人は手当たり次第殺されている」との噂が流れ、そして、大井立会方面では自警団ができたなど本当らしく伝えられました。当時は通信の手段が口伝えでしたので、話はだんだん大きくなり、暴徒は多摩川を渡って中原街道沿いに東京を目指している、もう洗足池まで来ていると伝えられ、老人や婦女子は逃げた方がよいだろうと、誰からともなくいわれました。

私の家では父が帰らぬので心配しておりましたが、夜になって近所の人々といっしょに逃げようと決まり、家を戸締りして、母は子供の手をひいたり背負ったりして歩きました。暗い中をあちこち歩き、大きな建物のある森の中も歩きました。後でわかったことですが、そこは目黒の不動様でした。私たちは不動様の境内で何事もなく夜明けを迎え、つかれた足を引きずって中延の方に向かいました。家に着いたら、父や働いている人が元気で馬や牛の世話をしていました。

(「流言にだまされて歩く」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる ー 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

芳根彌三郎

〔1日〕やがて市内方面に爆発音が絶間なしに聞えて来た。目黒の火薬庫が爆発しているのだろうと話し合った。〔略〕午後3時頃1台のオートバイが中原街道を多摩川方面から爆音けたたましくとんで来て、立会川の橋上で只今多摩川を朝鮮人が2千人程大挙して、毒薬を所持し渡河中なり要心ありたし、とさけびながら市内方面へ疾走して行くのだった。さあ大変、たちまち蜂の巣を掻き回した様な騒ぎになってしまった。[略]一同興奮に逆上し、たちまち白刃を竹槍を或は飛(ママ)口を持出し武装したのである。その間各戸に伝令はとび、女子供は学校に避難せよ寺院に集合せよとの布れが間断なしにとび、寺院は鐘を乱打し各戸においでは、石油缶を乱打するもの、題目を唱名する者、一瞬にして叫喚の巷と化してしまった。

〔略〕伝家の宝刀を横たえ竹槍をコン棒をあらゆる武器を持った青壮年が陸続として中原街道を多摩川方面指して行く。やがて在郷軍人が出て来、乗馬の軍隊が出動して来るに及んで平静になり出した。

(芳根彌三郎『荏原中延史・前編』私家版、1954年)"

〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉

全錫弼

震災当時、私は東京の大井町でガス管敷設工事場で働いていました。飯場には朝鮮人労働者が13名いました。〔略。1日〕夕方、6時頃だったと思います。あちこちから日本人が手に手に日本刀、鳶口、ノコギリなどを持って外に飛び出していました。しかし私達はそれが何を意味しているのか少しもわかりませんでした。しばらくして、「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてきました。〔略〕私達の住んでいた周囲の日本人は、とても親切な人達でした。その人達がとんできて、大変なことになった、横浜で朝鮮人が井戸に毒薬を入れたりデパートに火をつけたりするから、朝鮮人は片っ端から殺すことになった、一歩でも外に出ると殺されるから絶対に出てはいけない、じっとしていれば私達がなんとかしてあげるから・・・といってくれました。しかし私達はそのようなことが本気に信じられませんでした。

夜も遅くなって受持ちの巡査と兵隊2人と近所の日本人15、6名が来て「警察に行こう。そうしなければお前達は殺される」といいました。私達は家を釘づげにして品川警察署に向いました。私達13人のまわりは近所の人が取り囲み前後を兵隊が固めました。

大通りに出ると待機していた自警団がワァツーとかん声をあげながら私達に襲ってきました。近所の人達は大声で「この連中は悪いことをしてはいない、善良な人達だから手を出さないでくれ」と叫び続けました。

しかし彼等の努力も自警団の襲撃から私達を完全に守ることは出来ませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気立った自警団は野獣の群のように随所で私達を襲いました。

数時間もかかってやっと品川警察署にたどり着きました。〔略〕品川警察署は数千の群集に取り囲まれていました。彼等は私達を見つけるやオオカミのように襲ってきました。

その時の恐怖は言葉や文章で表すことができません。そのうち巡査が多数出てきて殺気立った群集を払いのけ私達を警察の中に連れ込みました。警察署は木の塀で囲んであったので夜になっても自警団の襲撃は絶えませんでした。

(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年) 


〈1100の証言;渋谷区〉

林雄二郎〔未来学者。当時広尾尋常小学校1年生。渋谷の諏訪神社そばの借家住まい〕

〔1日〕やがて夜になった。外が何となく騒がしい。と、自警団の人が来てすぐに諏訪神社の境内に集まれという。朝鮮人が暴動を起こして手がつけられない状態になっている。家にいては危ないからというのである。全く寝耳に水のような話であるが、自警団の人は目を血走らせてとても尋常な様子ではない。

〔略。諏訪神社に避難すると〕こういう人間の集まっているところは、とかく噂に尾ひれがついてひろまる。つまり流言飛語の温床になりやすいものである。〔火事・旋風等の話や〕朝鮮人の暴動の話もおそろしかった。何の音か知らないが、時々、どこかでパーンという何かが爆発するような音やら、人の叫ぶ声のようなものが聞こえてくる。私にはそれが朝鮮人の暴動の音のように聞こえて、今にもここがおそろしい修羅場になるような気がして不安でならない。〔東京の真ん中に第二の富士山ができて噴火するという話も聞いた〕。

〔略。翌朝家に帰ると〕間もなく父は帰ってきた。しかもいろいろの救恤品を持ってである。さすがに情報力においては抜群の海軍である。父はいろいろの状況説明をしてくれた。朝鮮人の暴動が全くのデマであることをはじめとして、それまで耳にしていたさまざまの情報のどれが正しく、どれが間違っているかを私たちははじめて知った。

(林雄二郎『日本の繁栄とは何であったのか - 私の大正昭和史』PHP研究所、1995年)

〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉

尹秀相〔当時新聞配達をしなから研数学館に留学〕

朝鮮には地震がない。だから初めての体験だった。避難者の列に加わって靖国神社に行ったら、「午後1時半にはもう一度大きな揺れがある」とマイクで言う人がいた。

時刻を過ぎてもそれほど大きな余震はないので、武田さん(勤め先の新聞店主。牛込区矢来町)の家に帰ろうと四谷見附あたりまで歩いてきた時のことだ。1台の車が止まって、降りてきた紳士に「出身はどこか」と尋ねられ、「朝鮮慶尚南道・・・」と答えると、ちょっと、と連れていかれたのが神楽坂警察署だった。

収容された武道殿のホールには朝鮮人がすでに40~50名いた。女の人もいたが、学生風の人はあまりいなかった。翌朝ちょうど武田さんの隣に住む警察官に会ったので、心配させてはと、収容されていることを伝えてもらった。午前11時ごろ武田さんが羽織、袴を着てやってきた。署長さんに「私が保証するから出してもらいましょう」と、身元引受書を書いて印をおして、それで私を連れて帰った。

武田さんの家にはほかに韓国人が5人おって、2階に閉じこもっておったんですよ。すると隣の青年が、「武田さん、お宅の朝鮮人はまじめだと言うが、けしからんことをしたら保証できるのかい。出してもらいましょう」と、1週間ものあいだ、1日に2度ぐらい来たのを、武田さんはていねいにみな帰してしまったですね。「私が責任をおうし、そういうはずのない朝鮮の学生さんだから勘弁してくれ」と。

それで2週間目に総督府でなにか見舞いを持ってきた。それでいよいよわれわれが街頭をあるくことができたですよ。閉じこもっているあいだ、近所の15歳ぐらいの男が「今日私も朝鮮人を2人やっちやった」と、われわれの前ですらすらっと。聞きたくもなかったけれど、止めろとも言われないし、妊婦の腹を裂いて腹の中の胎児まで、それを自分でどうしたとかそういうことも言うじゃないですか。

5年後に故郷に戻ったとき、同郷出身の人が9人ほど犠牲になったと聞いた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き響き』1984年)

〈1100の証言;新宿区/戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉

宮崎世良〔政治家。戸塚源兵衛で被災〕

〔1日〕まだ明るいうちに憲兵という腕章をつけた軍服の男が、時どきオートバイでやってきて、「朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやってくる。建物の塀や壁などにチョークで印をつけたところでは、井戸に毒物を投げこむから用心するように」などといって走り去る。わたしどもの家のまえには、一本の道路があり、そのうえの土手に鉄道がとおっており(西部武蔵野線)、そのむこう側には女学校があった。その女学校に朝鮮人が逃げこみ、それを迫っていた兵隊さんが古井戸に落ちた、などという情報が乱れとぶ。何しろあたりは暗闇だし、余震はまだやまないし、流言はとびかうし、戦々兢々たる情況であった。
近所に風呂屋と向かいあって交番があったが、数人の者がお巡りさんをつかまえて、「朝鮮人なら斬ってもよいですか」と訊ねている。

(宮崎世良『宮崎世民回想録』青年出版社、1984年)


つづく