2023年8月19日土曜日

〈100年前の世界037〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺③ 〈1100の証言;江東区、品川区、渋谷区、新宿区〉 「3台ほどのオートバイに乗った男の人が、「朝鮮人の暴動だ」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行った」 「〔1日〕まだ明るいうちに憲兵という腕章をつけた軍服の男が、時どきオートバイでやってきて、「朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやってくる。建物の塀や壁などにチョークで印をつけたところでは、井戸に毒物を投げこむから用心するように」などといって走り去る。」     

 


〈100年前の世界036〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺② 〈1100の証言;北区、江東区〉 「その日の夕方、このような人心不安の中に流言蜚語が撒き散らされた。、、、亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。」 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺③

〈1100の証言;江東区/砂町・州崎〉

M

1日の晩、砂町小学校に避難しました。「朝鮮人が井戸に毒を入れる」とその日の晩から騒ぎはじめました。「赤ん坊、泣かすな! 朝鮮人が来る。火をつけるな! 朝鮮人が来る!」

〔略〕朝鮮人と間違えられた死体がいっぱい積んであった。みんな竹槍を作って「山と川」合言葉で言えなかったり、とっさに出なかったり、どもったり、ズブツとやられたんだから。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)

〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉

鈴木ふよ〔荏原郡桐ケ谷在住。相ケ谷通りで被災〕

〔1日〕早めに夕食の支度をすることにして、外にコンロを持ち出して乾物などを焼いていました。そのとき、3台ほどのオートバイに乗った男の人が、「朝鮮人の暴動だ」と連呼しながら五反田駅方面へ疾走して行ったのです。近所の商店の人たちが血相を変えて、「早く女や子供を避難させるように」と家から家へ伝言し合いました。〔略〕恐ろしい事態を予想しながら、後から追われるような気持ちで、どこをどう歩いているのか、砂利道を延々と歩いて御殿山までたどり着いたのでした。

(「被災後の食料不足に悩む」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

竹内鉄雄〔中延で被災〕

〔1日〕日暮れになっても父が帰らないためどうしたやらと案じているうちに、近所の人たちの間に「外国人の暴動が起きて、日本人は手当たり次第殺されている」との噂が流れ、そして、大井立会方面では自警団ができたなど本当らしく伝えられました。当時は通信の手段が口伝えでしたので、話はだんだん大きくなり、暴徒は多摩川を渡って中原街道沿いに東京を目指している、もう洗足池まで来ていると伝えられ、老人や婦女子は逃げた方がよいだろうと、誰からともなくいわれました。

私の家では父が帰らぬので心配しておりましたが、夜になって近所の人々といっしょに逃げようと決まり、家を戸締りして、母は子供の手をひいたり背負ったりして歩きました。暗い中をあちこち歩き、大きな建物のある森の中も歩きました。後でわかったことですが、そこは目黒の不動様でした。私たちは不動様の境内で何事もなく夜明けを迎え、つかれた足を引きずって中延の方に向かいました。家に着いたら、父や働いている人が元気で馬や牛の世話をしていました。

(「流言にだまされて歩く」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる ー 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

芳根彌三郎

〔1日〕やがて市内方面に爆発音が絶間なしに聞えて来た。目黒の火薬庫が爆発しているのだろうと話し合った。〔略〕午後3時頃1台のオートバイが中原街道を多摩川方面から爆音けたたましくとんで来て、立会川の橋上で只今多摩川を朝鮮人が2千人程大挙して、毒薬を所持し渡河中なり要心ありたし、とさけびながら市内方面へ疾走して行くのだった。さあ大変、たちまち蜂の巣を掻き回した様な騒ぎになってしまった。[略]一同興奮に逆上し、たちまち白刃を竹槍を或は飛(ママ)口を持出し武装したのである。その間各戸に伝令はとび、女子供は学校に避難せよ寺院に集合せよとの布れが間断なしにとび、寺院は鐘を乱打し各戸においでは、石油缶を乱打するもの、題目を唱名する者、一瞬にして叫喚の巷と化してしまった。

〔略〕伝家の宝刀を横たえ竹槍をコン棒をあらゆる武器を持った青壮年が陸続として中原街道を多摩川方面指して行く。やがて在郷軍人が出て来、乗馬の軍隊が出動して来るに及んで平静になり出した。

(芳根彌三郎『荏原中延史・前編』私家版、1954年)"

〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉

全錫弼

震災当時、私は東京の大井町でガス管敷設工事場で働いていました。飯場には朝鮮人労働者が13名いました。〔略。1日〕夕方、6時頃だったと思います。あちこちから日本人が手に手に日本刀、鳶口、ノコギリなどを持って外に飛び出していました。しかし私達はそれが何を意味しているのか少しもわかりませんでした。しばらくして、「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてきました。〔略〕私達の住んでいた周囲の日本人は、とても親切な人達でした。その人達がとんできて、大変なことになった、横浜で朝鮮人が井戸に毒薬を入れたりデパートに火をつけたりするから、朝鮮人は片っ端から殺すことになった、一歩でも外に出ると殺されるから絶対に出てはいけない、じっとしていれば私達がなんとかしてあげるから・・・といってくれました。しかし私達はそのようなことが本気に信じられませんでした。

夜も遅くなって受持ちの巡査と兵隊2人と近所の日本人15、6名が来て「警察に行こう。そうしなければお前達は殺される」といいました。私達は家を釘づげにして品川警察署に向いました。私達13人のまわりは近所の人が取り囲み前後を兵隊が固めました

大通りに出ると待機していた自警団がワァツーとかん声をあげながら私達に襲ってきました。近所の人達は大声で「この連中は悪いことをしてはいない、善良な人達だから手を出さないでくれ」と叫び続けました。

しかし彼等の努力も自警団の襲撃から私達を完全に守ることは出来ませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気立った自警団は野獣の群のように随所で私達を襲いました。

数時間もかかってやっと品川警察署にたどり着きました。〔略〕品川警察署は数千の群集に取り囲まれていました。彼等は私達を見つけるやオオカミのように襲ってきました。

その時の恐怖は言葉や文章で表すことができません。そのうち巡査が多数出てきて殺気立った群集を払いのけ私達を警察の中に連れ込みました。警察署は木の塀で囲んであったので夜になっても自警団の襲撃は絶えませんでした。

(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年) 


〈1100の証言;渋谷区〉

林雄二郎〔未来学者。当時広尾尋常小学校1年生。渋谷の諏訪神社そばの借家住まい〕

〔1日〕やがて夜になった。外が何となく騒がしい。と、自警団の人が来てすぐに諏訪神社の境内に集まれという。朝鮮人が暴動を起こして手がつけられない状態になっている。家にいては危ないからというのである。全く寝耳に水のような話であるが、自警団の人は目を血走らせてとても尋常な様子ではない。

〔略。諏訪神社に避難すると〕こういう人間の集まっているところは、とかく噂に尾ひれがついてひろまる。つまり流言飛語の温床になりやすいものである。〔火事・旋風等の話や〕朝鮮人の暴動の話もおそろしかった。何の音か知らないが、時々、どこかでパーンという何かが爆発するような音やら、人の叫ぶ声のようなものが聞こえてくる。私にはそれが朝鮮人の暴動の音のように聞こえて、今にもここがおそろしい修羅場になるような気がして不安でならない。〔東京の真ん中に第二の富士山ができて噴火するという話も聞いた〕。

〔略。翌朝家に帰ると〕間もなく父は帰ってきた。しかもいろいろの救恤品を持ってである。さすがに情報力においては抜群の海軍である。父はいろいろの状況説明をしてくれた。朝鮮人の暴動が全くのデマであることをはじめとして、それまで耳にしていたさまざまの情報のどれが正しく、どれが間違っているかを私たちははじめて知った。

(林雄二郎『日本の繁栄とは何であったのか - 私の大正昭和史』PHP研究所、1995年)

〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉

尹秀相〔当時新聞配達をしなから研数学館に留学〕

朝鮮には地震がない。だから初めての体験だった。避難者の列に加わって靖国神社に行ったら、「午後1時半にはもう一度大きな揺れがある」とマイクで言う人がいた。

時刻を過ぎてもそれほど大きな余震はないので、武田さん(勤め先の新聞店主。牛込区矢来町)の家に帰ろうと四谷見附あたりまで歩いてきた時のことだ。1台の車が止まって、降りてきた紳士に「出身はどこか」と尋ねられ、「朝鮮慶尚南道・・・」と答えると、ちょっと、と連れていかれたのが神楽坂警察署だった。

収容された武道殿のホールには朝鮮人がすでに40~50名いた。女の人もいたが、学生風の人はあまりいなかった。翌朝ちょうど武田さんの隣に住む警察官に会ったので、心配させてはと、収容されていることを伝えてもらった。午前11時ごろ武田さんが羽織、袴を着てやってきた。署長さんに「私が保証するから出してもらいましょう」と、身元引受書を書いて印をおして、それで私を連れて帰った。

武田さんの家にはほかに韓国人が5人おって、2階に閉じこもっておったんですよ。すると隣の青年が、「武田さん、お宅の朝鮮人はまじめだと言うが、けしからんことをしたら保証できるのかい。出してもらいましょう」と、1週間ものあいだ、1日に2度ぐらい来たのを、武田さんはていねいにみな帰してしまったですね。「私が責任をおうし、そういうはずのない朝鮮の学生さんだから勘弁してくれ」と。

それで2週間目に総督府でなにか見舞いを持ってきた。それでいよいよわれわれが街頭をあるくことができたですよ。閉じこもっているあいだ、近所の15歳ぐらいの男が「今日私も朝鮮人を2人やっちやった」と、われわれの前ですらすらっと。聞きたくもなかったけれど、止めろとも言われないし、妊婦の腹を裂いて腹の中の胎児まで、それを自分でどうしたとかそういうことも言うじゃないですか。

5年後に故郷に戻ったとき、同郷出身の人が9人ほど犠牲になったと聞いた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き響き』1984年)

〈1100の証言;新宿区/戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉

宮崎世良〔政治家。戸塚源兵衛で被災〕

〔1日〕まだ明るいうちに憲兵という腕章をつけた軍服の男が、時どきオートバイでやってきて、「朝鮮人の一隊が、目黒の行人坂をこちらに向かってやってくる。建物の塀や壁などにチョークで印をつけたところでは、井戸に毒物を投げこむから用心するように」などといって走り去る。わたしどもの家のまえには、一本の道路があり、そのうえの土手に鉄道がとおっており(西部武蔵野線)、そのむこう側には女学校があった。その女学校に朝鮮人が逃げこみ、それを迫っていた兵隊さんが古井戸に落ちた、などという情報が乱れとぶ。何しろあたりは暗闇だし、余震はまだやまないし、流言はとびかうし、戦々兢々たる情況であった。
近所に風呂屋と向かいあって交番があったが、数人の者がお巡りさんをつかまえて、「朝鮮人なら斬ってもよいですか」と訊ねている。

(宮崎世良『宮崎世民回想録』青年出版社、1984年)


つづく


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