大正12(1923)年
9月1日~5日 朝鮮人虐殺⑤
【旧四ツ木橋周辺】
曺仁承(チョ・インスン)の証言
「(9月1日)午前10時ごろすごい雨が降って、あと2分で12時になるというとき、グラグラときた。「これ何だ、これ何だ」と騒いだ。くに(故国)には地震がないからわからないんだよ。それで家は危ないからと荒川土手に行くと、もう人はいっぱいいた。火が燃えてくるから四ツ木橋を渡って1日の晩は同胞14名でかたまって封った。女の人も2人いた。
そこへ消防団が4人来て、縄で俺たちをじゅずつをぎに結わえて言うのよ。「俺たちは行くけど縄を切ったら殺す」って。じっとしていたら夜8時ごろ、向かいの荒川駅(現・八広駅)のほうの土手が騒がしい。まさかそれが朝鮮人を殺しているのだとは思いもしなかった。
翌朝の5時ごろ、また消防が4人来て、寺島警察に行くために四ツ木橋を渡った。そこへ3人連れてこられて、その3人が普通の人に袋だたきにされて殺されているのを、私たちは横目にして橋を渡ったのよ。そのとき、俺の足にもトビが打ちこまれたのよ。
橋は死体でいっぱいだった。土手にも、薪の山があるようにあちこち死体が積んであった。」(『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹))
曺仁承は当時22、3歳。この年の正月に釜山から来日し、大阪をどを経て東京に来てから1ヵ月も経っていなかった。
9月1日の夕方以降、大火に見舞われた都心方面から多くの人が続々と荒川放水路の土手に押し寄せた。小松川警察署はその数を「約15万人」と伝えている。土手は人でいっぱいだった。曺と知人たちもまた、「家のないところなら火事の心配もないだろう」と、釜や米を抱えて荒川まで来たのである。・・・
曺らが消防団に取り囲まれたのは夜10時ごろ。消防団のほか、青年団や中学生までが加わって彼らの身体検査を始め、「小刀ひとつでも出てきたら殺すぞ」と脅かされた。何も出てこなかったので、消防団は彼らを縄で縛り、朝になってから寺島警察署に連行したのである。
同胞たちが殺されているのを横目で見ながら曺は警察署にたどり着くが、そこでも自警団の襲撃や警官による朝鮮人の殺害を目撃し、自らも再び殺されかけた。
・・・
曺の証言が収められた『風よ鳳仙花の歌をはこべ』は、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(以下、「追悼する会」)がまとめた本で、下町を中心に、朝鮮人虐殺の証言を数多く掲載している。
そのなかには、避難民でごった返した旧四ツ木橋周辺を中心に、1日の夜、早くも多くの朝鮮人が殺害されていたとする住民の証言もある。鉄砲や刀で2、30人は殺されたという。旧四ツ木橋ではその後の数日間、朝鮮人虐殺がくり返されることとなる。
2日午前5時、曺仁承は、旧四ツ木橋周辺で山のように積まれた死体を目撃したが、この付近ではその後も数日間、朝鮮人虐殺が繰り返された。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』には、80年代にこの付近で地元のお年寄りから聞き取った証言が数多く紹介されている。「追悼する会」が、毎週日曜日に手分けして地域のお年寄りの家をまわり、100人以上に聞き取りを行った成果であった。
9月1日から数日間の旧四ツ木橋周辺の凄惨な状況。
「四ツ木の橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを横から切って下に落とした。旧四ツ木橋の少し下手に穴を掘って投げ込むんだ。(中略)雨が降っているときだった。四ツ木の連中がこっちの方に捨てにきた。連れてきて切りつけ、土手下に細長く掘った穴に蹴とばして入れて埋めた」(永井仁三郎)
「京成荒川駅(現・八広駅)の南側に温泉地という大きを池がありました。泳いだりできる池でした。追い出された朝鮮人7、8人がそこへ逃げこんだので、自警団の人は猟銃をもち出して撃ったんですよ。むこうに行けばむこうから、こっちに来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ」(井伊(仮名))
「たしか三日の昼だったぬ。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。をんとも残忍を殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木(仮名))
「(殺された朝鮮人の数は)上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人くらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。そのときは『朝鮮人が井戸に毒を投げた』『婦女暴行をしている』という流言がとんだが、人心が右往左往しているときでデッチ上げかもしれないが・・・、わからない。気の毒なことをした。善良を朝鮮人も殺されて。その人は『何もしていない』と泣いて嘆顧していた」 (池田(仮名))
「警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけをいと言ってきた」という証言も出てくる。
北区の岩淵水門から南に流れている現在の荒川は、治水のために掘削された放水路、人工の川である。1911年に着工し、1930年に完成した。1923年の震災当時には水路は完成し、すでに通水していたが、周囲はまだ工事中で、土砂を運ぶトロッコが河川敷を走っていた。建設作業には多くの朝鮮人労働者が従事していた。彼らは、日本人の2分の1から3分の2の賃金で働いていたのだが、まさにその場所で虐殺された。
9月2日から3日にかけて、軍が進駐してくると、今度は機関銃を使った軍による虐殺が始まる。
〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
I〔本所から四つ木へ避難〕
9月1日の晩方、「つなみだ、つなみだ!」という朝鮮人騒ぎがあって、外へとび出したんですよ。外へ出ると、水がピシャピシャと鳴って……。後で思えば、あの日朝降った雨のたまり水だったんですねえ。
その晩かな、朝鮮人が8人ぐらい、荒川側の土手のそばで、自警団か軍隊かは知らないけれども、死んでいました。すごいんですよ、身重の人なんかも死んでいましたよ。河川敷にねっころがしてありました。みんなあおむけになってねえ、射殺みたいでしたよ。四ツ木橋の上では、後頭部をザックリ切られて、その人はまだ生きていましたねえ。
(「地震と虐殺」誌編集委員会編『地震と虐殺 - 第1次試掘報告』関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会、1982年)
M・M
1日は、土手に行く方にある小川屋というそば屋のあたりの畑に蚊帳をつって夜を過ごしたんだけど、夜遅くなってからだね、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とか「歩いていると殺す」「襲ってくる」というので、近くのホータイ倉庫に逃げたんですよ。
朝鮮人の旦那が(近所にいて)逃げたのか闘ったのかわかりませんが、奥さんと子供が残されていて、ホータイ倉庫に逃げ込んできたのよ。竹槍を持った人達が大勢来て、朝鮮人を出せというんですが、私、こうやって(腕を広げて)、こもか何かかけてかばってやったんだよ。子供も喜んでさ。私は日本人だけど、何たって朝鮮人も支那人も同じ人間なんだからさ。うちじゃ兄弟も皆そこへ逃げたんですよ。
ホータイ倉庫から、京成荒川の踏み切りの所に朝鮮人が20人位殺されていたのを見ました。朝鮮人を殺しといて、木横川橋の元に並べておいたんです。穴に入れといて、2、3日たってから一つずつ米俵に詰めて土色の車で持ってったのよ。緑町か砂町に持ってったんじゃない。八広8丁目公園にもいけてあったね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第32号、1986年)
S〔当時19歳〕
荒川の土手で5人ぐらい倒れているのは見ましたけどね、後は見ませんでしたね。家の前(八広)が駐在所になっていて、最初に知らせにきた人がいました。巡査が「初めてで大変なことになった」ってんで聞いてましたね。それが最初でしたね、私がそういう騒動が始まったっていうのを聞いたのは。〔略〕土手で軍隊が機関銃で撃ったという話は聞きましたね。
2日の夜くらいから、朝鮮人が井戸に毒を入れるってんで、皆、井戸番をしたんですよ。それが自警団で、狩り出されたんですがね。夜なんか、歩く人もいないから、顔の分からない通行人を調べろって言われたんですが、そういうの1回もなかったですよ。通る人がいないから。一つ井戸に5、6軒使ってて、井戸といっても掘り井戸でなく、ポンプ井戸だから入れようがない。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第28号、1985年)
池上君子〔当時東京市立京橋高等小学校1年生〕
〔1日、大畑で〕ちょうど夜中頃であった「つなみだ!」といったのでおどろいて「もしほんとだったらどうしよう〔略〕 こんどこそそうなったら命はない」と覚悟した。少しすると「小松川から朝鮮人が300人ばかりおしよせてくるから男はみんな出て下さい」というおふれが出た。男はみんなはちまきをして出た。しばらくたつと音や叫ぶ声等がしていた。
(「震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)
斉藤大作〔本所小梅業平町4で被災〕
〔1日夕方〕着いたのが四つ木で、四ツ木橋のふもとでは外国人が背中を日本刀で縦に切られて両手をついて呻いていた。
〔略〕その夜は外国人が押し寄せて来るとの噂に自警団を組織して1時間交代、徹夜で日本刀や竹槍を持って又避難民は棒切れを持って警戒した。夜明けと共に伯父一家は柴又へ避難し私は焼け跡を一応見定めに戻った。道々外国人の死骸が道端の溝に。果して放火したのだろうか、又井戸に毒を入れたのか、実に疑わしい。しかし警察でも念のため確めるまでは井戸水を飲まぬよう注意書が出ているので、喉が渇いても無暗に水が呑めない。
〔略。荒川の鉄橋を渡り〕やっと向岸にたどり着いた。ほっとして歩くうち、銃を持った自警団の青年2人に止められ、自警団本部へ連行された。そこは田圃の中の一固まりの森の中に祠があり、左側に小さな池があってその池の緑に立たされた。自警団の若い連中は皆竹槍や木刀を持ち、それをつき付けられ身動きも出来ない。何と説明、弁解しても外国人だといって承知しない。私もこの時ばかりは観念した。
〔略〕折もよし軍隊が来たとの声、私は逆に銃殺かと観念した。騎兵が2騎来て「私刑はいかん。軍へ渡せ」と。私は両手を縛られ、馬の後から引張られるように2、3町程来たかと思った所で質問2、3、最後に教育勅語をやりかけ「よろしい、気の毒だった。早くここを離れなさい」と縄を解いてくれた。私は再生の想いでその場を去った。
(「危うく殺されそうに」墨田区総務部防災課編『関東大震災体験記録集』墨田区、1977年)
富山〔仮名〕
1日の夜「津波だあ」というので旧四ツ木橋の土手の近くの原っぱに避難した。その原っぱにいたとき、朝鮮人騒ぎで大変だったんだ。「男の人たちはハチマキして、皆出ろ」とね。〔略〕あくる日、土手に行くとおまわりが立っていた。殺された朝鮮人はずいぶんいた。20〜50人ほども殺されていただろうか。殺したのは一般の人だった。鉄砲のある人は鉄砲、刀のある人は刀を持ってたから。〔略〕おまわりなんか手が出せないもの。警察が手を出すとあべこべにやられるほどみんな殺気立っていた。このとき、土手にいた在郷軍人とおまわりが「朝鮮人がわざと津波のうめきを出して、家を空けたところを、どろばうしているから家を空けるな」と言っていた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
水野明善〔文芸評論家〕
敗戦の年をさかのぼること二三年。一九二三年、大正一二年九月一日。
生家の浅草橋場から北東へ約2キロ半、隅田川をこえて、荒川放水路にかかる旧四ツ木橋の西詰。その夜半、わが家の方向にあたる向島側から人々の異様なけたたましいばかりのざわめきが近づいてきた。私は極度の疲れでぐっすり眠っていた。目がさめた。疲れと興奮とでウトウトしていた。荒川の河川敷に橋桁をたよりに蚊帳を吊って、その蚊帳ばりのなかで息をこらす私たち、母と生後10日足らずの末妹・秀子、そして6歳になる私。母子にはその異様の極限ともいうべきざわめきが何を意味するか、まったく見当がつかない。
わが家の方、向島側、西南方は禍色を帯びた紅蓮の炎に天地はおおわれている。
阿鼻叫喚ともいうべきものがけたたましさに変わった。我々の頭上あたりまで迫ってきた。その阿鼻叫喚がいくらかおさまったと思われた時、母がマッチをすった。マッチを上下左右させた。押し殺したギャツという叫びが母の口を辛くもついて出た。《血よ、血よ》。私の目はパチッと開いた。母はもう1本、もう1本とマッチをつけた。橋上から滴り落ちる液体が蚊帳を伝わる。赤褐色。血だ。私には、阿鼻叫喚のなかに《アイゴー》《哀号》と泣き叫ぶ声がまじっていようなど、聴きわける分別などあろうはずもなかった。やがて蒲団の上の白い毛布に、はっきりその血痕が印されている。私はただただ凍えおののいた。母も私の両手をにぎり、やがて上半身をしっかり抱きしめ、身震いが止まらない。その身震いが、そのまま、私に伝わった。
生涯、私が母に暖かくも冷たくも抱かれた記憶は、この時、ただ一度だけである。
やがて、暫くして父がもどってきた。
《おい、津る、明善はどこだ?》……《やった、やったぞ、鮮人めら十数人を血祭りにあげた。不逞鮮人めらアカの奴と一緒になりやがって。まだ油断ならん。いいか、元気でがんばるんだぞ》。そういうなり向島側に駆け戻っていった。炎を背に父のシルエットが鮮やかだった。
後年、早稲田へ入ってそのことを詰問すると、母は《そんなこと忘れなさい》と云い、父は《大杉栄夫妻さえ憲兵隊に殺されたんだ。当り前のことだ》と突っぱねた。
一九二三年、大正一二年九月一日の関東大震災は初震の凄まじい大揺れ、そのごの絶ぇまない余震の恐ろしい記憶以上に、上述した旧四ツ木橋下荒川河川敷で体験した歴史的な朝鮮人大虐殺の一コマが強烈至極に私の幼い脳裡に焼きつき、私からその前後数ヶ年の記憶を奪ってしまった。
〔略〕ようやくのことに、まだ木橋であった四ツ木橋西詰の土手にたどりついたのは、日がくれようという一瞬のことであった。河川敷に〔大八〕車をおろし、橋桁下に蚊帳をつり、ござ、ふとん、飲み水、あらかじめ作ってきたにぎり飯、必要な身の回り品だけを車からおろし、その蚊帳のなかに身を横たえた。父だけは飛び出していったきり、戻ってこない。かなりたって、血走ったような父が、一度戻ってきた。そして云ったそうだーというのは、この記憶は私になく、後年母から聴いたものー、《覚悟しておけよ。これから凄じいことが起るが、決して取り乱すな》。こう父は云って向島側に走り去った、ということである。
そして、あの阿鼻叫喚、赤血のしたたり。
四ツ木橋下での恐怖の一夜、非人道そのものともいえる一夜をへて、翌朝、渡った四ツ木橋の所々方々に見受けられた血塊が無残であった。橋から見た浅草橋場の方角は、有無を云わさず、すでにすべてが灰塵に帰していることを物語る余塵のみがくすぶっていた。四ツ木橋をやっと渡ったと思うと、今度は、二度程、激しい吐き気を催す死臭に往生した。炎天下の野天で焼く死者のものであった。幼年の私に死臭の印象は消し去りがたかった。
(水野明善『浅草橋場 - すみだ川』新日本出版社、1986年)
〔水野明善の父親(水野一善)は、大正10年に本所相生磐繁署の巡査になり、震災の年のはじめにはのちの特高(当時の高等警察官)になり、私服づとめで警察にかようようにまでなっていたが、震災前の次弟の急死で、浅草橋場の水野窯業所を継いでいた〕
つづく
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