大正12(1923)年
9月1日 朝鮮人虐殺④
〈1100の証言;墨田区/吾嬬・小村井〉
内田〔仮名〕
1日の夕方、5時か6時ころその原っぱ〔現・東あずま公園〕に通っている東武線の踏切のところに憲兵隊が3人くらいやって来た。憲兵隊は蓮田のなかにピストルをドカンドカンと撃ちこんで「朝鮮人が井戸のなかに薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ」と避難民に命令しました。〔略〕一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。これは私がはっきりこの目で見て知ってます。それでみんながいきりたって朝鮮の方がたを田んぼのあぜ道で……。本当にもう見ていられませんでした。朝鮮の方がたは田んぼの中の水のなかにもぐって竹の筒を口にくわえて上へ空気を吸いながら隠れていました。それも見つけだして、もうなんと言うか…‥。あぜ道に死体がずらっと並べられているのを見ました。殺された朝鮮人は普段からよく顔を合わせていたので知っていました。また朝鮮人は服がちがうからすぐわかりました。
〔略〕自警団はすぐに、1日か2日のうちにできました。自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。憲兵は、軍がのちにどうのこうのと言われないように、ことがすんだら、2、3日のうちにばあっと消えてなくなりました。在郷軍人が憲兵に相当協力していました。在郷軍人は在郷軍人会に入っていたので、自警団には入りませんでした。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
千早野光枝〔当時東京モスリン女工。1日の夜は工場の運動場で夜を過ごす〕
〔1日〕火焔が四万の空に物凄い光りを映して燃えていました。その中、誰言うとなく津波が襲って来るの、××人が押し寄せて来たの、〇〇人が爆弾を持って皆殺しに来るのと恐ろしい事ばかり、一晩中安らかな心もなく脅やかされ通しで、あっちへ逃げこっちへ逃げして明してしまいました。
翌る日はそれでも小さな掘り飯を一つずつ貰って餓をしのぎました。〔略。2日〕その夜も津波騒ぎ、〇〇人騒ぎで脅やかされ通しです。
(震災共同基金会編『十一時五十八分 - 懸賞震災実話集』東京朝日新聞社、1930年)
山本〔仮名〕
小村井のあたりは全部田んぼで、家はぽつぽつある程度でした。
9月1日の夜から「朝鮮人が来るぞ」というようなうわさがとんだ。私たちは余震があるので、近くの土方さんの家の前に並べて置いてあった土を運ぶ大きな四角い箱のなかに入って寝ていたけど、朝鮮人のうわさを聞いて危ないからと、また家のなかに入って寝ました。
香取神社〔軍の大隊本部設置〕の祭のやぐらの下には、死体がいっぱい運びこまれて、むしろがかけてありました。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉
鈴木〔仮名〕
9月1日は早く逃げて夜は雨宮ケ原という原っぱに行きました。東武線の小村井駅の近くの大きな蓮田で、東洋モスリン(東京モスリン亀戸工場と思われる)の女工さんたちも何千人だか全員避難していました。一般の人も避難していました。そのとき、朝鮮人騒ぎがあったんです。朝鮮人がモスリンの女工さんに絡まったとか、泥棒したとかいうデマが飛んで、朝鮮人狩りみたいなことが始まったんです。
朝鮮人も蓮田に逃げた。その蓮田で朝鮮人を竹槍で殺したんです。2人か3人殺されるのを見ました。蓮田で殺された1人は女の人で、この人をつかまえてきて殺すのを見ました。手をすって謝っているけど、皆いきりたってるからやっちゃうんだね。どぶの中をころがしたり、急所を竹槍で突き通したりして殺したのを見ました。現にそんなことをやったんだからね。ああいう奴はもう酷だをと思ったけれど、止めることも何もできませんでしたね。ただ茫然と私は見ていた状態なんです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
宮沢〔仮名〕
私たちは最初、いまの錦糸公園のところの原っぱに逃げ、亀戸天神まで行きましたが、火の粉が飛んでくるのでおおぜいの人たちと小村井の雨宮ケ原に逃げていきました。
〔略〕1日の真夜中に朝鮮人騒ぎがありましたよ。「オーイ、オーイ」と呼びあって、逃げないように取り囲み、丸太ん棒や鉄棒で殴り殺していました。まだ死なないと魚屋の若い人がまたいで出刃包丁で胸のところからちんぽのところまで裂いてしまい、木の棒などで腹わたをえぐり出していた。〔略〕そのことは父親から聞いたんです。
〔略〕雨宮の原っぱでは朝になると水ぶくれになった死体が荒縄で縛られ、ほっぽり投げられていました。2、3人殺されていました。焼けているほうからはドカーンドカーンと大きな音がして、それは朝鮮人が爆弾を投げたんだと騒いだりしていました。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
〈1100の証言;墨田区/請地・押上・横川〉
『報知新聞』(1923年10月20日)
「暴動の協議中に殺された30名」
朝鮮人労働者は〔略〕震災直後1日午後1時府下吾嬬町請地に集合〔略〕激昂せる付近住民が襲撃して三十余名の鮮人悉く撲殺した事実あり関係住民は厳重取調べをうけている。
〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉
A・I 〔当時7歳〕
1日、津波が来るというので私は叔母におぶさって荒川の土手の方へ逃げました。
〔略〕石井さんは私の家の前に住んでいて、白鬚橋の近くの久保田鉄工所で溶鉱炉の親方をしていました。とても義侠心の強い人で、銚子の出身なので言葉は荒かっだですが、すごくやさしみのある人でした。その石井さんの2階に2、3人の若い人が住み込んで溶鉱炉に働いていました。その中に「コウドゥさん」という朝鮮人も住んでいました。コウドゥさんはおとなしくていい人でした。言葉は日本語でしたが、アクセントや言葉使いは変でした。
〔略〕コウドゥさんを石井さんがかくまっていることを知ったのは震災後少し間がありました。石井さんの奥さんは病弱な人でして、私が見舞いに行った時「かわいそうだからかくまっているのよ」とポッリと話してくれて、私も「そう」と言いました。
〔略〕私の父は、お店に売る物がなくなったので、竹槍を持って、四ツ木橋を渡って千葉の百姓さんの家へ買い出しに行きました。お芋を買ってきて、ふかして売るのです。父は「朝鮮人が出たら竹槍で殺してやる」と言うので、「そんなことしないでよ、おとうちゃん」と私が言うと、「俺の命だって大切なんだ」と言ってきました。そういうつまらないことで殺された朝鮮人も多いと思いますね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第34号、1986年)"
〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉
佐多稲子〔作家。勤務していた日本橋の丸善で被災、寺島の家へ戻り、そばの京成電車の停留所に近所の人と避難〕
〔1日〕暮れかけてきて、どこからともなしに伝わってきたのは、朝鮮人が井戸に毒を投げた、という噂であった。その井戸は近くだし、あっちでも朝鮮人が毒を投入する瞬間につかまえられた。そしてそれは打殺され川に投げられた、という。
〔略〕弟はどこから持ってきたのか、私に、消防の持つとび口を1本握らせた。とび口のさきは鋭く、銀色に光って、それは重いものだった。弟はこれを私の護身用に、それも朝鮮人に対する護身用に握らせたのであった。〔略〕とび口はしかるべき官筋から出たのにちがいなかった。
〔略〕その一夜を心細く、とび口を抱いて地べたに坐っていた。この空地の周囲で、いわゆる朝鮮人騒ぎが起こっているからであった。
アラララ、と聞こえる高い叫び声は朝鮮語らしく聞こえる。竹刀でも激しく打ち合うような音も聞こえる。朝鮮人がこの大動乱に乗じて暴動を起したという筋書を疑う力もないから、空地の周囲の叫び声や、打ち合うもの音を、朝鮮人との戦いなのだ、と私は思っていた。
〔略〕近くのどぶ川にうつぶせに浮んでいたのは、町の住民に殺された朝鮮人の死体であった。工場街である寺島のあたりは朝鮮人騒ぎの大きかった所と聞いている。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)
相馬〔仮名〕
9月1日の夜になると朝鮮人が井戸に毒を入れるなんて言われてこわくてねえ。それで寺島警察の前の材木置場のところに避難していました。〔略〕夜はねむれませんでしたよ。ワーツとかオーッという鬨の声が聞こえてくるんです。若い人たちが朝鮮人を寺島警察に連れてくるんです。〔略〕一晩中でしたかしら。次の日はひっそりでしたけどね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
〈1100の証言;墨田区/原公園〔現・橘銀座商店街内〕
田幡藤四郎〔当時寺島警察署管内隅田交番勤務〕
九月一日の地震のときは合宿所にいて、すぐ隅田交番にかけつけた。一日の夜は白鬚橋近くの法泉寺で避難民の救済にあたったの。夜の一〇時ごろ「原公園のほうから朝鮮人が二、三〇〇来る」って騒いだわけ。避難民のだれかが言ったのだろう。「それじゃ大変だ」ってわけで自警団の連中があっちに行こう、こっちに行こうって言うから、それはいけないって一時押さえて「とにかく寺島警察署に行って、そんなことはあろうはずがないから聞いてみるから」って出かけたの。[略]警察署に行ってみたら「心配はないからむこうに帰って説得してくれ」って。それで、いままでの情報はただの風説だからってしずめたの。だから自分の警戒区域にはなんの事故も起きていないんだ。
[略]九月二日には自分の交番に帰った。このときにはもう騒ぎはおさまりがつかない。流言蜚語で住民が極限状態になっているんだ。常識じゃ考えられない状態だ。交番にずっといた相棒の巡査は流言を信じこんでいて、自分で朝鮮人を引っ張ってくる。そしてこれを持っていたからって、役者が持つような刀を見せるんだ。「こんなもの切れるわけじゃない。おもちゃじゃないか」って言っても、「とんでもない、刺せば切れる。お前は朝鮮人の味方か」って夢中になってる。警官の同僚までそうなんだから、一般の人が騒ぐのはあたりまえだ。交番の裏には在郷軍人がずっとテントを張っていた。
[略。その朝鮮人を寺島警察署に連れて行く途中で]いつのまにか鳶口を持ったりなんかして、あっちからもこっちからも集まってくる。[略]まわりを取り囲んで、一間もある鳶口でやられるでしょ。だから防ぎようがないんだよ。引っ掛けられて引っ張られて、結局死んじゃった。いけないって阻止したって聞くわけじゃない。何人もで右を止めれば左から出る。制止したって制止しきれるわけはない。いきりたってる。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
つづく
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