2023年8月12日土曜日

〈100年前の世界030〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災⑤ 〈火災被害の実態と特徴(内閣府防災情報)〉   同時多発火災の発生と強い風 延焼動態と火災による死者の発生状況 被服廠跡の悲劇と火災旋風 〈政府の動き〉 水野錬太郎内相・赤池濃警視総監が当面の責任者          

 

浅草十二階

〈100年前の世界029〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災④ 〈東京の揺れの被害〉 〈東京府の被害概要;出火・延焼の状況〉 本所区横網町の陸軍被服廠跡の惨劇 より続く

大正12(1923)年

9月1日 関東大震災⑤

〈火災被害の実態と特徴(内閣府防災情報)〉

同時多発火災の発生と強い風

東京市では、地震発生直後から火災が発生し、それらの一部は大規模火災となって9月3日午前10時まで46時間にわたって延焼が続いた。東京震災録によると、全出火点134ヵ所のうち即時消し止め火災が57ヵ所で、消し残った77ヵ所が延焼火災となった。

延焼は、市域全面積79.4km2のうち43.6%にあたる34.7km2に及び、日本橋区、浅草区、本所区、神田区、京橋区、深川区ではほとんどの市街地が焼失している。とくに浅草区北部、神田区西部、本所区では、軟弱地盤による地震動の増幅が木造家屋の倒潰を招き、そのことが延焼火災の同時発生という最悪の事態をさらに招いて、多くの火災による犠牲者を出すという結果となった。

9月1日から2日にかけて気象の変化はかなり激しく、1日昼過ぎまで南風であったのが、夕方には西風になり、夜は北風、2日朝からは再び南風となっている。こうした風向の変化に伴う延焼方向の変化が延焼範囲の拡大や避難者の逃げ惑いを生じさせ、逃げ場を失った避難者の犠牲が増大する要因につながっている。1日午後12時から19時の間は、風速は元衛(もとえ)町(中央気象台)で12.3~16.1m/s、品川で2.6~10.3m/sとなっており、8月、9月の東京では月に1度程度しかないほどの強い風であった。

延焼動態と火災による死者の発生状況

東京市の焼死者は52,178名で、全死者58,420名のほぼ9割に達している。

火災による死者発生場所と焼失範囲の時間を追って見ると、延焼動態と死者発生の関係が明らかになる。地震発生後1時間後の1日13時には、神田区南神保町、浅草区江戸町などで、逃げ遅れによる死者が出始めている。14時には、浅草区浅草寺周辺の火災12ヵ所、神田区神保町付近の9ヵ所が合流して、浅草区田中小学校、吉原公園など100名を超える死者が発生。16時には、深川区、本所区の火災が合流して、太平町横川橋、枕橋、竪川河岸など河川や運河際で死者を発生させている。17時には、避難場所として安全だと思い込んでいた被服廠跡地も火災にのまれ、多数の死者が発生。19時には、神田駅が西側と東側から迫ってきた火災に呑み込まれ、避難していた人が犠牲となった。多数の死者がひとつの場所で発生するのは18時頃までで、それ以降は少人数が散発的に亡くなっていることが図より読み取れる(図1)。


被服廠跡の悲劇と火災旋風

火災旋風で約38,000人の命がごく短時間に失われた本所区横網町の旧陸軍被服廠跡での悲劇的な火災被害の記憶が今でも語り継がれている。火災による旋風は、東京だけでも被服廠跡以外に110個あり、横浜、小田原等でも発生した。多くの証言によると、15時30分くらいから16時30分くらいの間に被服廠跡付近に火災旋風が襲来し、そこに避難していた人々の命が短時間のうちに奪われた。

図2は、旋風が被服廠跡を襲った頃の被服廠跡周辺の火災状況であるが、火災旋風が襲ったとされる15時30分頃から16時30分頃には、被服廠跡の北、東、南側に火の手が迫り、隅田川対岸の東京高等工業学校を火元とする火災も南北に広がっていた。隅田川を渡って被服廠跡にやって来た旋風が火災の影響で生じたものだとすると、高等工業高校を火元とする大規模な火災域の影響で旋風が発生したと考えることができる。

このような横風を受ける火災域風下に発生する旋風についての研究は少なく、その発生メカニズムはまだ十分には解明されておらず、現在も研究が続いている。

被服廠跡でなぜ一度に多くの命が失われたかの理由については、発災前、被服廠跡が四方から火災域に囲まれていて逃げ場のない状態にあったこと、そして被服廠跡内に避難者によって大量に持ち込まれていた家財道具などの可燃物に周囲の火災域から飛来する飛び火や火の粉が着火し、12m/sを超す強風や、あるいは周辺から襲来した旋風で生じた80m/sにも及ぶ猛烈な風によって被服廠跡内で急速な延焼を引き起こしたであろうことは容易に想像できる。これらは火災旋風の発生とともに被服廠跡での悲劇的な火災被害を生じさせた大きな要因である。



〈政府の動き〉

8月24日に加藤友三郎首相が没し、地震発生時は、後任に推された山本権兵衛が組閣工作の最中で、震災の応急対策には、臨時首相内田康哉外相ら加藤内閣の閣僚で、水野錬太郎内相・赤池濃警視総監が当面の責任者(朝鮮の独立運動弾圧の当事者コンビ。水野は米騒動当時の内相で、万歳事件後、斎藤実総督の下で朝鮮総督府政務総監となり、赤池を警務局長に起用。赴任の際には爆弾の洗礼を受けている)。

政府は地震直後に首相官邸の庭で臨時閣議を開き、首相を総裁とする臨時震災救護事務局を設ける。だが、この間に、深川の米倉庫が焼け、越中島の陸軍糧秣廠にも危険が迫り、食料不足の懸念により、緊急勅令によって非常徴発令を出すことにする。

午後4時半、赤池総監は、東京衛成司令官近衛師団長森山守成に対し出兵を請求。警視庁・警察署が焼失し、弱体化した警察力では帝都の治安を完全に維持することは国難であり、まして窮乏困憊した民衆を煽動して事を起そうと企てる者がないとは限らないとの判断で、兵力による人心安定を図ろうとする。

1日夜、近衛師団・第1師団は宮城・官公庁・停車場・銀行・物資集積所などの警備に出動し、憲兵も市内の治安維持にあたる。しかし、赤池総監は、5年前の米騒動の体験から、民衆の騒擾を恐れ、労働運動・社会主義運動の急進化にも不安を感じており、羅災地一帯に戒候令を布く事を水野内相に進言


つづく


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