2023年8月18日金曜日

〈100年前の世界036〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺② 〈1100の証言;北区、江東区〉 「その日の夕方、このような人心不安の中に流言蜚語が撒き散らされた。、、、亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。」

 


〈100年前の世界035〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺① 1日夕方、流言発生。警官が流言を流している。 〈1100の証言;荒川区、江戸川区、太田区〉 「1日夕方頃からだれ言うともなく「在留外国人が、日本に対する反感から東京中の井戸の中に毒を入れて、日本人を皆殺しにする」という噂が広がり、.....」 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺②

〈1100の証言;北区〉

鈴木忠五〔裁判官、弁護士。滝野川の姉の家で被災〕

〔1日〕夕暮れ近くなった頃、どこからともなく、また誰いうともなく、朝鮮人が復讐を企てて、諸方の井戸に毒薬を投げ入れたり、集団で強盗をはたらいたりしている、というような噂が伝ってきた。これは地震や火事以上に怖ろしいことである。そんなことはデマにちがいないと考えながらも、人々は半信半疑で大きな不安につつまれていった。近所の人たちがよりより話しあって、自警団をつくることになり、2、3人ずつで付近の警戒にあたるもの、井戸を監視するものなど、それぞれ役割をきめてさっそく実行しはじめた。

(鈴木忠五『青春回想記』谷沢書房、1980年)


氏名不詳

〔1日〕やがて上野駅付近から下町全体は猛火に包まれ、火と津波におびえる数十万の避難者が日暮里・田端の高台を目ざして押し寄せて来た。〔略〕夜になっても電灯はつかず、もちろんラジオもなかったので不安はつのるばかり、そこへだれいうとなく西ヶ原の火薬庫に火をつける者がいたとか、井戸の中に毒を投げ入れる者が現われたとかたいへんなデマが飛んで、みんな恐ろしさにふるえた。町では自警団を作ったり、在郷軍人会や青年会や町内有志で自発的に見回ったりして自衛につとめたが、女や子どもはまったく生きた心地がなかった。

(「北区立滝野川第一小学校創立六十周年記念誌」→近藤富枝『田端文士村』講談社、1983年)


村上信彦〔作家、女性史家。根岸から田端へ避難〕

〔1日夜〕朝鮮人がこの震災を利用して暴動を企てているというのである。品川に朝鮮人が3千人上陸し、こちらに向かっているという、まことしやかな情報まであった。そして銃撃戦が起ったとき流れ弾にやられないようにというので、田端の家では蒲団をたくさん積んでバリケードにし、その蔭に寝た。それほどこの噂は真に迫っていた。私はここへ来る途中の坂道で会った、額の割れた青年の顔をふと思い出した。もしかしたら彼は朝鮮人だったのではあるまいか。朝鮮人であることで傷つけられ、追われていたのではないかと思ったのである。

(村上信彦『大正・根岸の空』青蛙房、1977年)

〈1100の証言;江東区〉

宇佐美政衛〔材木商。当時深川木場在住〕

第一夜であった。真夜中、「朝鮮人数百名が押しよせて来たから皆出て応援してくれ」との事であった。みな寝ており起きるものもなく、私一人で出て見た。しかし私は(朝鮮人が攻めて来る様な事はない。そんな事がある筈がない。うろたえるにもほどがある)と腹の中で思うのであった。が出ないわけにも行かず、行って見たところ果して私の思った通りであった。

そのうち川の中に鮮人が3人ばかりいると、盛んにピストルの音がきこえて来た。在郷軍人の提灯が沢山見える。私はピストルを撃つのをやめさせ、筏に乗って見に行ったが誰もいなかった。「鮮人はおりませんよ、又押しよせて来る等とはみな嘘です。御安心下さい」と引取らせ、また寝についた。

一体、日本人は考えが単調ですぐに動揺する。実に心持ちの小さな人種だと思った。

〔略〕深川方面は朝鮮人の死体が方々にあった。やたらに鮮人を殺したものと見え、その数は多かった。何故こんなことをしたのか、こんな所にも、些細な事にすぐ騒ぎ立て、逆上する日本人の狼狽ぶりが見え苦々しく思った。

(宇佐美政衛『回想六十年 - 宇佐美政衛自叙伝』宇佐美政衛自叙伝刊行会、1952年→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)


宇治橋勝美

〔1日、大島5丁目の会社に着く〕その夜は余震も続き、外国人が井戸に毒を入れたとか、流言が伝わってきた。町内に自警団ができて、怪しい、外国人に似た者は所持品を調べられたりした。

(『関東大震災体験記』足立区環境部防災課、1975年)


江東区大島の概況

亀戸と砂町の間、堅川・横十間川・小名木川・中川に囲まれた地区。

震災時の大島町も亀戸や砂町と同様、地震の被害に加えて多数の避難民が流入した火災隣接地帯だった。さらにこの地域では、朝鮮人ばかりでなく小名木川で荷揚げ人夫として多くの中国人が働いていたため、彼らの多くも殺された。震災当時、日本人労働者・労働ブローカーと中国人労働者が対立していたことが、虐殺事件の原因でもあった。しかし何よりも、軍隊と警察が大量虐殺に果たした役割が大きかった。なお、僑日共済会の会長として中国人労働者のために活動していた王希天(ワンシイティエン)が軍隊に虐殺されたのもこの地域である。


稲築繋

江東地区大島亀戸は、田んぼをオガクズやガスガラで埋立てたところで、地盤わるく軒並に家が倒壊していた。道路の堅い所は無数に地割れしていた。

〔略〕又災害の時に流言蜚語が流れて、外国人暴動説が起きて、夜になると自警団を組織して夜は眠れなかった。大島は乳牛牧場が多く、使用人はほとんど外国人だった。流言にまどわされ罪のない人達が多く殺害されたところです。

(『関東大震災体験記』足立区環墳部防災課、1975年)


内田良平〔政治活動家〕

大島方面において殺されたる朝鮮人は支那人を合しておよそ450名位に達したる〔略〕。

(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


杉本正雄〔当時府立第二中学校生徒〕

〔一日夜、船で小名木川に逃れ〕やっと〔大島の〕ガスタンクの傍を通り抜けて一息と思ったら今度は「朝鮮人が暴動を起こして川に潜って船べりから船を襲うから船に上げないように」という知らせがあって、私も長い棹を逆手に持って水中に人が見えたらすぐ突けるように鉤を向けて構えていた。今考えると誠にナンセンスである。しかし何ごともなく、そのうち私は疲れていつか眠ってしまった。

[略、二日夜]まもなく店の若い者が亀戸駅から下りの汽車が出るということを聞いて来たので一同揃って駅へ向った。駅で無蓋貨車に我勝ちに乗りこんで津田沼〔千葉県習志野市〕まで逃げた。[略]駅の近くの大きな家に入った。[略]今夜はゆっくり寝られるがと思ったら朝鮮人襲来の知らせが来て、また大騒ぎになった。

竹薮から竹を何本も切ってきて竹槍を作る者、藁を焼いて目つぶしのための灰を作る者などそれぞれ思いつきの武器を作った。私は若い人達三人と一緒に小脇に灰を入れた洗面器を置いて竹槍を構えて正面玄関に坐った。今考えると滑稽だがそのときはみんな真剣だった。しかし何事もなく簡単な夕食を終って一同は疲れはてて寝てしまった。

[略。仮住まい生活で]私の毎日の仕事は津田沼から船橋まで歩いて沢庵を一本買いに行くことであった。一人一本と限られているので毎日行かなければならない。宇島のつづく線路沿いの道を一里ほど歩くのだが、畠のあちこちに焼けた衣類の破片などが散らばっているのを見た。東京が焼けたときに竜巻で吹き上げられ飛んで来たものだ。畠の中に一間おき位に習志野騎兵連隊の兵士が抜刀して伏せていた。朝鮮人来襲に備えるための敵兵線である。ある兵士が隣りの兵士に「今日はやったか」と問うと「今日はまだやらないが昨日は一人やっつけた」などと話しているのを耳にした。その中に多くの朝鮮人が隊伍を作って兵隊に引率されてあとからあとから続いて来るのに出会った。赤ん坊を背負って額に血を流しながら歩いている女性もいた。習志野にあった陸軍の廠舎に収容されたらしい。彼等は憤怒に耐えかねているためか、みんな生気に溢れた図太さが感じられる顔つきをしているのには驚いた

(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)


石毛留吉

〔1日、亀戸萩寺近くの長屋で〕その日の夕方、このような人心不安の中に流言蜚語が撒き散らされた。朝鮮人が襲来して来るから自警団をつくれというのである。自警団というのは在来の町の人だけではない。避難して来た人達が勝手に集団を組んで始められた。私達相扶会(そうふかい)の同志も菊畑の柵の竹を引抜いて竹槍を作って自警団を作ったが、後に東交〔東京交通労働組合〕本部書記になった佐々木嘉助氏は秋田生れで地方訛りがあった為、朝鮮人だと脅かされ危く身に危険を感じた。朝鮮人が押しかけるそんな馬鹿な事がある筈がない、と上野の汽車が動いているそうだから、一応みんな僕の田舎に連れて行くというので翌2日に島上善五郎氏の郷里秋田に引上げた。

この時相扶会の同志一同が立去った後の事、当時亀戸の警察署は今の亀戸駅前にあった。亀戸天神公園で古森警察署長は石油箱の上に立って避難者や群がる人々を前に、危険な朝鮮人や社会主義者の不逞の輩は全部逮捕するからみんな協力するようにと演説した。私も間もなく特高係に引致されて亀戸署のブタ箱入りし地震より怖ろしい迫害と折檻を受けた。亀戸署内の留置場は立ったままのすし詰監禁で道場の中まで超満員であった。デマと流言で逮捕された朝鮮人、労働運動者、社会主義者は秘かに虐殺されて行ったのである。

〔略〕当時は本当にひどいものでした。私たちが亀戸警察署に連行されたときも、人間扱いされなかったですね。本所や深川でもずい分焼けましたが、そのとき、石油かんがあちこちにあってそれが火事でときどきドカーンと爆発する。すると、やれ、朝鮮人が爆弾を投げたなどといわれるのですね。そのときにはもう理くつなどないのですね。朝鮮人が暴動をしている、爆弾を投げている、お前も仲間だろうと、ひざの間に竹刀や木刀をはさんでその上に足で思いっきりたたいたり、のっかかったりするんですね。黙っていれば、なぜ黙っているのかとたたいたり、なぐったりする。そのときにはもう歩けないですよ。

ブタ箱に放りこまれると、留置場の中は一杯で、三畳間の中に50人ぐらい押しこめるので、小便などでも外へ出られないですよ。朝鮮人には身体に(朝)などと一字を書いて、それが狭い中で押しこめられているので汗やらで消えると、このやろうまた消しやがったなあ、とまた書いたりする。こうしたことは、今では信じられないかもしれませんが、事実ですよ。私は幸い、電車を動かしていて、警察官なども乗せたりしていたので、何とか助かりましたが、全く、人間扱いされなかったですね。

(九・一関東大震災虐殺事件を考える会編『抗はぬ朝鮮人に打ち落ろす鳶口の血に夕陽照りにき ー  九・一関東大震災朝鮮人虐殺事件六〇周年に際して』九・一関東大震災虐殺事件を考える会、1983年)


川崎甚一

〔亀戸で〕1日の晩だと思うが、朝鮮人が大挙して東海道を東京へ向かって進撃している、という流言蜚語が飛んだのです。〔略〕夜になると朝鮮人が田んぼでワーワーと叫び声をあげるのです。朝鮮人を田の中へ追い込んで殺すのです。

(「亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究』1963年5月号、労働旬報社)


鈴木〔仮名〕

所のほうが燃えているとき、亀戸3丁目から柳島橋を本所のほうへ渡ると、右側に炭屋があってぼんぼん燃えているんですよ。そこへ生きたまま朝鮮人を一人つかまえて投げこんだのを見たんです。夜行って見たから1日の夜だな。たしかに朝鮮人なんです。私にはとてもそんなことはできません。よくそれができたと思って記憶にあるんです。

〔略〕亀戸3丁目でもデマはすごかった。自警団は町内で朝鮮人狩りをやった。泥棒したり、井戸に毒を入れるとか、火をつけたとかいう悪いデマが飛んだから、朝鮮人をつかまえてきちゃ・・・。

(関東太震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


長谷川徳太郎

〔1日〕午後6時頃だと思う。亀戸の天神様付近へ出た。天神の境内を通り抜けようとしたら、境内の要所々々に町の自警団が、鉢巻姿もりりしく腰に白鞘の日本刀を差して、亢奮しながら私に、「どこへ行く?」と通行を断られた。「避難者だ。通してくれ」と言うと、「アイウエオ」を言って見ろと言われ、私は何が何だか判らないが言われるままに、「アイウエオ カキクケコ」とアカサタナを答えると、「ヨシ通れ」と言われ境内にはいって、さらに驚いた。境内にいる自警団の多数の人々が皆、同じ鉢巻姿なのと各々が日本刀を持たない人はほとんどいなかった。どこからこんなに日本刀を集めたものかと驚かざるを得なかった。私は自警団に、「どうしたんですか」と訊ねると、三国人が暴動を起すおそれがあるので警戒している、と聞き、さらに驚いた。(後日流言蜚語)であることが分ったが、この流言騒動がしばらく続く。

(長谷川徳太郎『関東大震災の追憶』私家版、1973年)


東照枝〔当時本所区柳元尋常小学校3年生〕

〔亀戸から中川のヘリへ避難した1日夜〕ここでしんせつな工場の方々と野じゅくをしていると、夜中にかねがなる、たいこをうつ、ピストルの音、ときのこえ「〇〇人だ」と言うこえにびっくりして、その工場のおにかへににげこみました。まっくらの中でいきをころしていると、どをたか「なみあみだぶつ なみあみだぶつ」と言っております。お母様も小さいこえで神様やほとけ様にいのっております。〇〇人にころされるならしたをかんで死にましょうと皆様がきめました。

(「しんさい」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常三年の巻』培風館、1924年)


松本ノブ〔当時28歳。本所横川町で被災〕

〔1日夜、亀戸水神森で〕市内の方を見渡せば、本所深川は勿論の事浅草方面より芝方面に到るまで、帝都一帯の空は溶かした鉄のような凄く恐ろしい真紅の色に燃えています。爆裂弾のようなすさまじい爆音は絶間なく聞えます。不逞の朝鮮人が帝都を全滅させんが為に、燃え残る様の建物に爆弾を投じるのだという噂でした。

(「大正大震災遭難之記」、1924年。武村雅之『手記で読む関東大震災』古今書院、2005年に所収)"


宮下喜代

〔1日〕六の橋の、金子鋳物工場が次の避難場所である。ガランとした事務所の中に入ってゆく。あかりもなかった。ここまでくれば火はきそうもない、とふとんをおろして床板のうえにしいてねた。

3日間位、ここにいた。炊き出しのおにぎりを男たちがどこかへもらいにいってきてはみんなでわけてたべた。”飲み水”は、やかんをもってどこかへもらいにいった。

”井戸水をのんではいけない、毒が入っている”といっしょに朝鮮人がどうとか、いうこととが、そのへんにいるひとたちのなかで、なにかひそひそと話されたりしている。

”東京じゅう焼野原だ””橋が焼けちまったからどこへもゆけないよ””兵隊が出ている””亀戸の警察でケンペイがひとを殺したってよ” こどもの耳にもおそろしげな気配が伝わってくる。亀戸警察はここから近い、と余計おそろしそうにいう人もいた。

(宮下喜代『本所区 花町、緑町』私家版、1980年)


つづく

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