2023年8月29日火曜日

〈100年前の世界047〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑬ 【横浜証言集】(横浜市南部地域 中村町、石川町、山手町、根岸町付近 / 本牧町、根岸加曽海岸方面 / 弘明寺町) 「一日の夜から始まった虐殺。交番の前での虐殺遺体」 「昨夜犠牲の鮮人、頭から石油をかけられ・・・」 「五人つかまり二人ころされ三人電柱にしばる」         

 

「関東大震災時朝鮮人虐殺 横浜証言集」
(2016.9.3 関東大震災における朝鮮人虐殺の事実を究明する横浜の会)

〈100年前の世界046〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑫ 「〔津波の流言の後一日夕刻〕、、、『朝鮮人が三百人ほど六郷まで押寄せて来て先頭は大森町に入ったから皆にげて下さい』という布令が廻った。」 「午後九時ラッパの音がして軍隊が到着した。やがて海岸の方で銃声が交換された。幼稚園にすくんで居た二百人ほどの男女は初めて少し安心した。或青年は直立不動の姿勢に於て『市街戦が始まりました』と報告した。」 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺⑬ 横浜における朝鮮人虐殺

【警察関係レポート】

神奈川県警察部編『大正大震火災誌』1926年より

各警察署の「流言輩語及自警団の取締」報告 山手本町警察署管内の状況

(一)、根岸町相沢及山元町方面に於ては九月一日午後七時頃鮮人約二百名襲来し、放火、強姦、井水に投毒の虞ありとの浮説寿警察署管内及中村町及根岸町相沢山方面より伝わるとて、部民の一部は武器を携帯し、警戒に着手し、該浮説は漸次山手町及根岸桜通方面に進行伝播せり。

(二)、根岸町柏葉方面に於ては同一日午後八時頃中村町方面より前記の説伝わり、同地青年団員は該説を直信して部民に警戒を伝えたることありという。

(三)、同町鷺山方面は同一日午後八時頃中村町相沢方面より鮮人襲来の流言伝わり、各自警戒に当れり。

(四)、根岸町立野方面に於ては同一日午後八時頃本牧町大鳥谷戸及箕輪下方面は鮮人のために放火され、目下延焼しつつあり、また大鳥小学校に鮮人二、三百名襲来鉱山用の爆弾を所持するを以て各自警戒を要すとの浮説本牧方面より伝わり、根岸町字仲尾及同矢口台方面に伝播せり。

(五)、本牧原及矢口方面は同二日午前一一時頃根岸刑務所より解放囚人及不逞鮮人等大挙当地に製来し、暴挙、放火の虞あり、警戒を要すとの浮説加会方面より伝わり、これに加え海嘯の再来説加わり、一層人心をして恐怖の念を抱かしめ、該流説は同日漸次各方面に伝播せるものの如し。

(六)、山手町谷戸坂方面は同二日正午頃鮮人襲来、井水に投毒しつつあるを以て飲用水に注意を要すとの浮説本牧方面より伝わり、新山下町方面に伝播せり。

【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言

(2) 中村町、石川町、山手町、根岸町付近

①石川小高等科二年女子「一日の夜から始まった虐殺。交番の前での虐殺遺体」

〔植木会社一日〕夜になると今度は朝鮮人さわざ、男の人は手に手に竹やりをもっている。〔・・・〕十時頃になるとむこうの方でやれ、やれと朝鮮人をおいかける声、私は生きているかいがなかった。・・・朝になって外通へ行って見ると朝鮮人がひもにゆはかれて交番の前にいた。その内に社会主義の一隊が赤旗を立て表通りにおしかけて来た。〔・・・〕〔四日〕あした十時頃通へ行って見ると家の裏の人足が「ピストル」をもっておどかして居ました。そして外のいえのものなどとって居ました。しばらくすると兵隊等が人足を追いかけていった。そしてきずをうけた。


⑪清水清之(中村町平楽在住、石川小教員)「昨夜犠牲の鮮人、頭から石油をかけられ・・・」

〔九月二日〕「植木商会の馬小屋(植木商会とは貿易商植木会社の前身、当時は百合根の輸出を盛んにして居り、輸送用の馬車馬を此の小屋で常時30頭飼育していた。)の附近まで来ると焼場のようないやな悪臭が鼻につく。フト脇道を見ると道の真中に一杯のたき火の跡があり、まだ白煙が立昇って居る。更に近づいて見ると、焼けボッ杭の間から足が二本ニュッと出て居る。聞けば今朝早く昨日圧死した4頭の馬と一緒に昨夜犠牲の鮮人が頭から石油をかけられて灰となったとのこと

(清水著「『あの日あの時』関東大震災の思い出」神奈川歴教協横浜支部高校部会、一九七四年)


⑫清水清之さんの姉(教員) 「「鮮人が来たっ」と警官の叫び「・・・手に余れば・・・」」

〔九月一日、相沢墓地付近の避難場所〕突如、暗やみをつらぬくときの声何事ぞといぶかる其の時、「鮮人がきたッ。男子は得物を持て、女子供は外に出るな、手に余れば・・・」とはげしき警官の叫び

すわこそにくき鮮人よ。人の弱味につけ込んで、忽ちあなたこなたにかがり火ならぬたき火がもし付けられぬ。

後鉢巻に長棒をもちて、敵はいつでも来いとののしり合う若人たち。殺気立ちたる有様に歯の根は合わず、流言は流言を生み、怖ろしさは何とも云う言葉なし。

(同前)


⑬寿小5年女子「丸たん棒もって追いかけ、ぶって殺した」

〔一日〕だんだん暗くなってきて晩になった。私は焼けている方を見ていた。するとそばにいた人々が、朝鮮人がまだ焼けていない家へ石油をかけて火を着けて居ると話をして居た。後の方では、朝鮮人が人を殺したり、あばれたりしていると言って話しているうちに、朝鮮人が来たからお集まりくださいと言っているので、おっかなくて身がぶるぶるふるえていた。真暗でたださわいで居るのであった。〔・・・〕

二日の朝、近所のところを見に行った。〕丁度其の時、朝鮮人が逃げて来て、後ろから丸たん棒や色々な物を持って追っかけて来て、其の朝鮮人をぶっていた。其の中の一人の朝鮮人は死んでしまった。後の一人は頭の真中から血が流れて来た。少したって姉さんがおむすびを持って帰ってきた。


㉖南吉田小四年男子「五人つかまり二人ころされ三人電柱にしばる」

〔九月一日夜〕 わたしはいなり山へにげた 山に上っておなかがすいたのでおとうさんがお菓子をもって来てくれました。暗くなると朝鮮人が五人つかまった。二人はころされましたが他の三人は電信ばしらにいはひ〔ゆわえ〕つけてあった


(3)本牧町、根岸加曽海岸方面

①養老静江(医師)「ツルハシを持った男は、逃げる男の脳天目がけて力一杯ふり落とした」

東京帝大小児科医局時代に発生した、忘れることのできない惨事が関東大震災です。

大正12年9月1日私は、横浜本牧の海辺で友達が経営している小さな旅館に土曜日から滞在していました。宿は小高い丘の上にあって、眼下には東京湾が広がっていました。〔・・・〕

私は生まれて初めて無惨な殺人を目撃しました。十数人の男性の集団が海辺に出てきました。先頭の1人は集団から必死に逃げているのでした。追いつめられた男は遠浅の海にかけ込みました。追手は手に武器を持ってます。一番先に追いついた男は長いツルハシを振り上げると、逃げる男の脳天目がけて力いっぱい打ちおろしました。血が噴水のように飛び散ったあとは、寄ってたかってメッタ打ち。海水を真赤に染めて男は沈んでゆきました。彼等は「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を入れまわっている」と、言う風聞に踊らされて殺人を犯したのを後で知りました。」〔・・・〕

「〔二日〕品川に着く頃にはすれ違う人も多くなり、荷物を背負った負傷者、這うように歩く人、かけ足の人。その眼は一様に血走っています。流言が広まり、手に武器を持っている者や集団で走り廻る群も見えます。」〔・・・〕「知人の一人は朝鮮人と間違えられて殺されました。」

(養老著「ひとりでは生きられない紫のつゆ草ある女医の95年」かまくら春秋社、二〇〇四年)


(4) 弘明寺町の虐殺

①松信八十男「電柱に縛られた朝鮮人」

〔震災当時横浜尋常小学校の1年生であった弟の泰輔が、それから6年後の昭和4年、小学校の卒業記念に綴った作文「生い立ちの記」の一部である〕

家は一階がつぶれて二階が下に落ちていた。けれど家なんかつぶれても、もっとよい家をお父さんが建ててくれるだろう。潰れたほうがかえって隠れん坊するのに都合がいいと思った。

頭の上から火の粉がばらばらと落ちてくる。「早く外に出なさい」という母やあねの怒鳴り声が聞こえる。出られるくらいならとっくに出てらー。やっと外に這い出したら横浜高工(横浜国大工学部の前身)と隣のそば屋から火の手が上がっていた。僕たちは横浜高工の運動場に逃げたけれど、ここも危険なのでもっと先の原っぱに逃げた。〔・・・〕

地震も止んだ。火事も治まった。夜がきた。僕たちは周りを箪笥やつづらで囲った。中は泥棒してきた戸板の上に蒲団をしいて寝た。うとうとしたときだった。

「朝鮮人だ、朝鮮人だ、助けてくれ」

といいながら2、3人が弘明寺の観音様の方から逃げてきた。外は急にさわがしくなった。僕も見たくて仕方がないので、便所にいくと言って外へ出た。見ると朝鮮人が電信柱にしばられて、巡査に、「切れ、切れ」と目をつぶってわめいていた。

(松信著「横浜有隣堂 九男二女の物語」草思社、一九九九年)


つづく

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